手のひらの温度
放課後。
部室では、今日もアベニーたちの稚魚が小さく揺れていた。
「よし、3回目のごはんもちゃんと食べてるね……」
スポイトを洗って片づけていると、ふいに気配を感じた。
(ん……?)
ドアが少しだけ開いている。
その隙間から、廊下に落ちる影がちらちら揺れた。
「……凛先輩?」
そう声をかけると、影がびくっと揺れた。
「だ、大丈夫ですよ~。海月先輩はいませんってば」
「だから、そんなんじゃ、ないって」
ぷいっとそっぽを向きながら入ってくる凛先輩。
耳だけほんのり赤い。
(……かわいい)
けれど先輩はすぐに気持ちを切り替えたようで、水槽の方をちらと見ながら言った。
「ところで、レッドラムズホーンっている?」
「え、なんですか? それ」
「オレンジ色の巻き貝だよ。知らない?」
「あ! サキマキガイのことですか? 海月先輩の水槽にいますよ」
「サカマキガイな。いないか……なら、今からショップ行かない?」
「え!? 先輩とですか!? い、行きます行きます!」
先輩と二人でショップ。
その言葉だけで胸の奥がぱあっと熱くなる。
「じゃあ、早く準備して」
私たちは部室を出て、バス停へ向かって歩き出した。
夕方の風が少し冷たい。
なのに私は、となりを歩く先輩の手にばかり視線が向いてしまう。
(先輩の手ってどんな感じなんだろ……)
気づけば、心の声がそのまま口に出ていた。
「せ、先輩、て、手……繋いでみませんか?
あ、その……変な意味じゃなくて!
ほんとに、ただの“先輩と後輩”ってことで……」
「お、おまえ……女同士なんだぞ!」
「私、楓ちゃんとも普通に繋いでますよ?」
その瞬間、先輩の足がぴたりと止まった。
夕陽の落ちる歩道で、先輩はゆっくり振り返る。
「……楓と一緒にすんな」
「え……?」
ぽつりと落とされた声は、小さいのに妙に響いた。
さっきまでの“ぷいっ”とした態度よりずっと低くて、耳まで赤い。
「べ、別に……嫌とかじゃないけどさ。
ふくと手繋ぐのは……なんか……その……」
言い淀む声。
夕陽に照らされた横顔が、信じられないくらい綺麗だった。
(え……なに……かわいい……)
「……ほら」
先輩は視線をそらしたまま、片手を少しだけ差し出してきた。
ためらうみたいに指先が揺れている。
「転んだら困るだろ。バス停まで……ちょっとだけだぞ」
「……っ!」
胸が跳ねる。
私はそっと、震えるような手でその手に触れた。
思っていたより大きくて、あたたかい。
触れた瞬間、先輩の肩がびくっと小さく震えた。
「ふ、ふく……力、入りすぎ……」
「あ、ご、ごめんなさい!」
「……別に、いいけど」
繋いだ手を、恐る恐るぎゅっと握り直す。
すると先輩は前を向いたまま、ほんの少し歩幅を合わせてくれた。
夕方の風がふわりと髪を揺らす。
手だけが熱くて、そこから胸の奥までじんわり温かさが広がっていく。
(……先輩の手、こんな感じなんだ)
バス停までの短い道のりが、
今日いちばん特別で、誰にも見られたくない時間に思えた。
* * *
バス停が見えてきたころ、
繋いでいた手が、段差の手前でふと離れた。
手を放したのはどちらからともなくて、
ただ、乗り場の段差へ向かう自然な動きのせい――
そんなふうに思おうとした。
でも、指先に残った温度だけが、
妙に意識の奥に残ってしまう。
(……ちょっと、さみしい)
声に出すほどのことじゃない。
だから私は何も言わず、先輩の後ろをそっとついていった。
バスの扉が開き、乗り込む。
運よく二人席がひとつだけ空いていた。
「ふく、窓側座っていい?」
「は、はい! どうぞ!」
先輩が先に腰を下ろし、私はその隣へそっと滑り込む。
座った瞬間、思った以上に距離が近くて、
ふわっと身体が触れ合った。
(あ……また、近い……)
腕同士が軽く当たって、
スカート越しに太ももまでほんのり触れている。
心臓が跳ねたけれど、先輩は窓の外を眺めたまま平然としていた。
バスが揺れるたび、身体が先輩のほうへ寄ってしまう。
私は、どちらかといえば華奢ではない。
肩幅も胸元も人並み以上で、誰かと並んで座ると、自分だけ幅を取っているような気がしてしまう。
隣の凛先輩は、すらりとしていて無駄がない。
線が細くて、浴衣なんか似合いそうな、しとやかな体つきだ。
だから、揺れるたびに押されるのはいつも私のほうで、
身体が先輩のほうへ倒れ込む形になってしまう。
そのたび――
先輩の肩が、驚いたようにぴくっと小さく跳ねた。
「……ご、ごめんなさい、先輩」
「べ、別に……いいよ。仕方ないし」
そう言いながら、
先輩は窓側へそっと身体を寄せ、
私がぶつからないように小さな余白を作ってくれた。
(……優しいな)
そのさりげなさに、胸がじんわり熱くなる。
「ところで先輩……レッドラムズホーンって、何に使うんですか?」
「掃除をしてもらうんだよ」
「掃除?」
「ブラインシュリンプは淡水だと数時間で死ぬ。
で、死ぬと腐敗する。すると……?」
「稚魚も病気になるんですね!」
私の言葉に、先輩が横目でちらりとこちらを見て、ふっと口角を上げる。
「その通り。やるじゃないか、ふく」
(ほ、褒められた……!)
先輩の少し低い声が、距離の近さのせいでやけに胸に響く。
「レッドラムズホーンは雑食で、ブラインの死骸が大好物なんだ」
「へぇ……。先輩、よくそんな面白い方法思いつきますね」
「ただ!」
先輩が急に声を引き締めるから、私は思わず背筋を伸ばした。
「レッドラムズホーンは腹を空かせると、稚魚まで食べてしまう」
「ええ!!?」
「だから、稚貝を使う。小さければ稚魚を襲う心配もない」
「奥が深いんですね……アベニーの繁殖って」
「そうだな。楽じゃない。でも――」
先輩はそこで少しだけ間を置き、視線を前へ向けた。
「おまえみたいに真面目なのが相手なら、教えがいはあるよ」
「っ……!」
心臓が、また変な音を立てた。
近い距離でそんなこと言わないでほしい。
顔が熱くなる。
でも、先輩は気づいているのか、ないのか。
窓の外を見つめたまま、言葉を締めくくった。
「――ほら、着いたぞ」
バスが停まり、軽い揺れが二人の身体をまた少しだけ触れ合わせた。
その一瞬にさえ、胸がドキンと大きく揺れた。
(……先輩の隣って、こんなに意識するんだ)
扉が開き、夕風がふわりと流れ込む。
外の空気がやけに冷たく感じたのは、きっとバスの中が温かかったからだけじゃない。
降りた瞬間、繋いでいたわけでもないのに、
手のひらだけがまだ熱かった。




