デコピンと、優しい魔法
稚魚育児ケース(サテライト)の中で、まだ透明な体をきらめかせながら泳ぐ八匹のアベニーパファーの稚魚。
小さな命が水面近くでふわりと漂うたび、私と凛先輩は自然と顔を寄せ合っていた。
「……少し、水流がきついな」
先輩がケースの縁に指を添え、稚魚の揺れ方をじっと観察する。
「ふく、稚魚は泳ぎが下手なんだ。特にフグの稚魚はな」
そう言うと、先輩はふいに立ち上がり、海月先輩の水草水槽を物色し始めた。
「あったあった」
腕まくりして、水槽の奥に手を入れてごそごそと探る。
「せ、先輩……海月先輩に怒られますよ」
「いいのいいの。トリミングだと思ってくれれば。いくらでも増える水草だから」
そう言って取り出したのは、糸のように細い緑の水草。
「ウイローモスって言うんだ。稚魚の寝床や隠れ家になる」
先輩はそれをそっと育児ケースに沈めた。
ふわりと広がったモスの上に、稚魚がちょこんと乗る。
落ち着いたように、ゆらゆらと揺れていた。
「な?」
「……本当ですね!」
思わず声が弾む。
先輩の横顔が、少しだけ誇らしげに見えた。
(……あぁ、もう。凛先輩にずっといてほしい。
このままアクア部に戻ってきてくれたらいいのに。
こんな時間、私だけが独り占めしたいって……思っちゃうよ)
「ふく、よく見ろ。赤目が黒くなっただろ。ほら、きょろきょろしてる。
これが、アベニーが餌を食べ始める合図だ」
凛先輩の声が、頬のすぐ横から響く。
息遣いがかすかに伝わって、胸がくすぐったい。
「先輩の言ったとおりでした。今朝から餌を食べ始めたんです。
これを誰かに報告したくて」
私も囁くように答える。
二人の視線はケースに吸い込まれ、頬と頬が触れそうな距離になっていた。
「で、海月が休みだったから、俺のところに来たわけだ」
「この瞬間を分かってくれる凛先輩と一緒に見たかったんです。本当ですよ!」
軽い気持ちのつもりだったのに、先輩は一瞬黙り込む。
水の揺れる音だけが、大きく響いた。
(え……変なこと言った?)
不安になって横を伺うと、先輩が小さく咳払いをした。
「本当だなんて強調するなよ。……真顔で言われると、恥ずかしいんだよ」
水槽ライトが反射して、先輩の横顔が淡く光る。
稚魚たちは小さな星座みたいに散らばり、私たちの距離を自然に近づけていた。
(先輩の横顔、こんな距離で見られるの……私だけなんじゃない?)
「で、ブラインシュリンプ。どうやってあげた?」
「えっと、スポイトで吸って、そのまま……水ごと」
「……塩水ごと入れたのか?」
「はい。だって、分けるの難しくて」
「バーカ」
凛先輩のデコピンが飛んできた。
いたっ! 思わずおでこ押さえる。
「問題は二つ。
①ブラインシュリンプの殻が混ざってる。
②塩水ごと入れてしまっている」
「殻も塩もダメなんですか!?」
「殻は間違って食べると腸に詰まる。
塩分は水を傷めてバクテリアにも悪い。稚魚は水質変化に特に弱いんだ」
「えええっ!? ご、ごめんなさい! どうすれば正解なんですか?」
私の顔が青ざめるのを見て、先輩は「はぁ……」とため息をつき、
カーテンを閉めて部室を暗くした。
スマホのライトつけて、ブラインのシャーレの端っこにポンって置く。
「ほら見ろ。ブラインって光に集まるだろ? こうすれば殻と簡単に分離できる」
光に集まった部分だけをスポイトで吸い、目の細かいネットに通し、
稚魚のケースに、水槽の水でゆっくり流し込む。
「な。こうすれば、塩水も殻も入らない。
これを、朝・昼・夕。稚魚の目の前に、少しずつ落として与えればいい」
先輩の手つきは、魔法のように滑らかだった。
落ちたシュリンプが、ふわっと稚魚の目の前に広がる。
稚魚たちが、再び狂喜乱舞して飛びついた。
「わぁ……すごい。丁寧……」
「管理方法は、まだまだある。覚えることは多いぞ」
そう言う先輩の表情は、とても穏やかだった。
稚魚が食べる姿を、目を細めて見守っている。
その横顔は、「もう二度と飼わない」と言った人とは思えないほど慈愛に満ちていた。
「……先輩」
「ん?」
「やっぱり先輩、フグ好きですね」
「……うるさい」
凛先輩は耳を赤くし、そっぽを向く。
そして――
ためらいがちに、でも確かに優しい声で言った。
「もし――だぞ。ふくさえ良ければ、教え終わるまで、一緒に帰らないか?」
その言葉は、思っていたよりずっと優しくて、胸の奥にすとんと落ちてきた。
(……それって、私にとって、最高のご褒美じゃないですか!)
アベニーたちの補習のはずなのに、自分のための約束のように感じる。
顔が熱くなるのを自覚しながら、私は大きくうなずいた。
「い、いいんですか!? めちゃくちゃ嬉しいです!」
部室の窓から差し込む昼下がりの光が、やけに眩しく感じた。
その眩しさが、わずかな不安をそっと隠しているようにも思えた。
私は、この幸せな時間が続くと信じていた。
海月先輩が来ない理由なんて、ただの風邪だと疑いもしなかった。
――海月先輩があのとき、空っぽになった水槽の前で、私の動画を見ていたなんて。
知る由もなかったのだ。




