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ふくとアクア部の日常  作者: たんすい
第1章:しましまフグと始まりの泡
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ふくと呼ばれた日

 放課後の少し澱んだ空気が満ちる部室に戻ると、海月先輩が埃を被った机の奥をごそごそと漁っていた。


 やがて「ん、あった」と小さく呟き、ゴトッと鈍い音を立てて、小さなガラスの水槽と、何やらごちゃごちゃした器具一式を私の目の前に置く。



「これを使え。まずは水槽の準備だ」

「わ、ありがとうございます! ……って、これ、ちょっと年季が入っていませんか?」



 ガラスには無数の細かな傷が走り、フレームの角は少し白く擦れている。

 いわゆる、“お古”ってやつだ。



「部費も無駄にできないからな」



 先輩は悪びれもせず肩をすくめた。

 一瞬だけがっかりしたけれど、すぐに気持ちを切り替える。

 古くたって、これからあの子の“世界”になるんだから。



「器具の他に、バクテリアっていう生物を水槽に定着させる必要がある」


「バクテリア? なんですか、それ!?」


「目に見えない小さな生物だ。お前の腸の中にも、1kgくらい棲んでるぞ」


「えーーーっ! それって寄生虫か何かですか!?」



 思わずお腹を押さえた私を見て、先輩がクスクスと笑う。



「逆だ。水槽も腸内も、そいつらがいるから生き物が元気に暮らせるんだ」


「なるほど……。見えない存在が、世界を支えてるんですね」


「そうだ。目に見えるものばかり大事にしてると、足元から簡単に崩れる」


「……なんだか、人間関係みたいですね」



 ぽろっとこぼれた本音に、先輩は少しだけ驚いたように私を見ると、すぐにふっと口元を緩めた。



「準備をしっかりするって、そういうことだったんですね」


「そういうこと。熱帯魚は、ただ水があれば飼えるってもんじゃないんだ」



 命を預かることの重みが、その声にはあった。



「次にフィルター。ここにバクテリアを棲ませる」


「バクテリアさんのお家、ですね!」


「まあな。フィルターにも種類があって、これはスポンジフィルター。もっとも簡易的なやつだ」


「安物の家なんですか?」


「そうだな……高価な外部フィルターなら、豪邸って言ってもいいかもな」


「豪邸! 庭付き! プール付き!」


「まあ、実際はホース付きだがな」


「ちょっと庶民的!」



 他愛ないやり取りが、埃っぽい部室の空気を少しだけ明るくする。



「そして、水温を熱帯の環境に合わせるヒーターをセット。こいつは26℃固定式だ」



 先輩は手慣れた様子で器具を配置していく。

 その横顔は、なんだかすごく頼もしく見えた。



「さて、ここからは裏ワザだ」


「裏ワザ! なんだかゲームみたいで、ワクワクします!」



 先輩はニヤリと笑うと、自分の水槽に手を突っ込み、スポンジフィルターを取り出した。



「バクテリアを最速で立ち上げる。まず、俺の水槽の水を半分、お前の水槽に移して……このスポンジフィルターを、お前の水槽で絞る」



 ぎぎゅっと握られたスポンジから、コーヒーのようなどす黒い濁った水がどろりと溢れ出す。



「きゃーっ! やめてください! せっかくの水槽が汚れます!」


「何言ってんだ。これがお前の腸内にもいるバクテリアの素だぞ。ありがたく受け取れ」


「えぇ”っ!?」



 衝撃の事実に固まる私をよそに、先輩は汚水を水槽に注ぎきった。



「これで一週間もすれば、フィルターにバクテリアが定着して、アベニーを迎えられる。簡単だろ?」


「そ、そんなに待つんですか!?  早くあの子をこの水槽に……!」



 逸る気持ちを抑えきれず声を上げると、先輩は静かに、だがきっぱりと言った。



「焦るな。準備を怠れば、あの小さなフグはあっけなく死ぬ。命を預かるってのは、そういうことだ」



 その真剣な眼差しに、私は何も言えなくなる。

 先輩の言葉には、生き物を心から大切にする優しさと、揺るがない覚悟が込められていた。


 それはまるで、このアクア部そのものを守る決意のようで、すとんと胸に落ちてきた。


 やがて、フィルターが静かに回り始めると、ポコ、ポコ……と命の産声のような泡が上がり、心地よい水音が部室に響き始めた。



埃っぽい机や色褪せたカーテンの中で、真新しい水が満たされた水槽だけが光を放ち、退屈な日常から切り離された秘密の楽園のように見えた。



「これで……あの子を、迎えられますね!」



 興奮気味に言うと、先輩はふっと息をつき、窓の外へ目をやる。

 夕陽が長い影を落とし、水面の揺らめきが小さな星のように瞬いていた。



「よかったな、ふく」



 本当に微かに、だけど優しい笑みが先輩の口元に浮かんだ。



「ふく? ……何ですか、それ?」



 きょとんとする私に、先輩は少し眠そうな、でもどこか楽しそうな声で答える。



「お前、さっきからフグ、フグってご執心だからな。それに福原ふくはらって、ほら、なんとなくフグっぽいだろ。『ふく』でいい」



「……はい、『ふく』で、いいです」



 そう答えると、なぜか心がぽかぽかと温かくなった。

 『ふく』。その響きが、先輩との距離をほんの少しだけ近づけてくれた気がして、胸の奥がじんわりと熱くなる。



「そういや、俺、自己紹介がまだだったな」



 先輩が思い出したように、ピンセットを持ったままこちらを振り返った。



「え? あ……そういえば、近藤先生は『海月うみつき』、凛さんは『海月くらげ』って……」


海月透也うみつき とおや。二年C組。それが本名。

 でも、昔の部員には何故か『くらげ』って呼ばれてた。どっちでもいい。よろしくな、福原――いや、ふく」



 先輩――海月先輩は、驚くほどさらっとそう言うと、すぐに水槽へ視線を戻す。

 だけどその口元には、さっきよりもはっきりとした笑みが浮かんでいた。



「くらげ、に、うみつき……。どちらもすごく素敵な名前ですね。アクア部にぴったりな気がします。

 特に『うみつき』って、なんだかロマンチックです」


「ロマンチックなんて柄じゃないけど……まあ、海に浮かぶくらげには似合うか」



 呆れたような、でもやっぱり楽しそうな声。

 その声色に隠れた照れが、なんだかくすぐったい。



「えっと、じゃあ、私、『うみつき先輩』って呼んでもいいですか?

 『くらげ先輩』も可愛いですけど、『うみつき先輩』の方がキラキラした海みたいで!

 だから、海月先輩って呼ばせてください!」


「……好きにしろ」



 先輩はぶっきらぼうに肩をすくめたけど、その仕草に拒絶の色はなくて、

 私の頬は気づかれないように、少しだけ熱を帯びた。


 

 もうすぐ、あのアベニーパファーがこの水槽にやって来る。


 期待がキラキラした小さな泡のように、心の中で弾けていく。



 あの子が元気に泳ぐ姿を想像するだけで、なんだって頑張れる気がした。



 一週間。

 それは、ひどく長く、そして待ち遠しい時間。



 でも、ふとした瞬間に、ショップで会った凛さんの寂しげな瞳が頭をよぎる。



 あの虎みたいなフグに、そしてこの部室に――どんな物語が眠っているんだろう。


 私の知らないアクア部の秘密が、少しずつ明らかになっていく。

 そんな予感がした。

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