ふくと呼ばれた日
放課後の少し澱んだ空気が満ちる部室に戻ると、海月先輩が埃を被った机の奥をごそごそと漁っていた。
やがて「ん、あった」と小さく呟き、ゴトッと鈍い音を立てて、小さなガラスの水槽と、何やらごちゃごちゃした器具一式を私の目の前に置く。
「これを使え。まずは水槽の準備だ」
「わ、ありがとうございます! ……って、これ、ちょっと年季が入っていませんか?」
ガラスには無数の細かな傷が走り、フレームの角は少し白く擦れている。
いわゆる、“お古”ってやつだ。
「部費も無駄にできないからな」
先輩は悪びれもせず肩をすくめた。
一瞬だけがっかりしたけれど、すぐに気持ちを切り替える。
古くたって、これからあの子の“世界”になるんだから。
「器具の他に、バクテリアっていう生物を水槽に定着させる必要がある」
「バクテリア? なんですか、それ!?」
「目に見えない小さな生物だ。お前の腸の中にも、1kgくらい棲んでるぞ」
「えーーーっ! それって寄生虫か何かですか!?」
思わずお腹を押さえた私を見て、先輩がクスクスと笑う。
「逆だ。水槽も腸内も、そいつらがいるから生き物が元気に暮らせるんだ」
「なるほど……。見えない存在が、世界を支えてるんですね」
「そうだ。目に見えるものばかり大事にしてると、足元から簡単に崩れる」
「……なんだか、人間関係みたいですね」
ぽろっとこぼれた本音に、先輩は少しだけ驚いたように私を見ると、すぐにふっと口元を緩めた。
「準備をしっかりするって、そういうことだったんですね」
「そういうこと。熱帯魚は、ただ水があれば飼えるってもんじゃないんだ」
命を預かることの重みが、その声にはあった。
「次にフィルター。ここにバクテリアを棲ませる」
「バクテリアさんのお家、ですね!」
「まあな。フィルターにも種類があって、これはスポンジフィルター。もっとも簡易的なやつだ」
「安物の家なんですか?」
「そうだな……高価な外部フィルターなら、豪邸って言ってもいいかもな」
「豪邸! 庭付き! プール付き!」
「まあ、実際はホース付きだがな」
「ちょっと庶民的!」
他愛ないやり取りが、埃っぽい部室の空気を少しだけ明るくする。
「そして、水温を熱帯の環境に合わせるヒーターをセット。こいつは26℃固定式だ」
先輩は手慣れた様子で器具を配置していく。
その横顔は、なんだかすごく頼もしく見えた。
「さて、ここからは裏ワザだ」
「裏ワザ! なんだかゲームみたいで、ワクワクします!」
先輩はニヤリと笑うと、自分の水槽に手を突っ込み、スポンジフィルターを取り出した。
「バクテリアを最速で立ち上げる。まず、俺の水槽の水を半分、お前の水槽に移して……このスポンジフィルターを、お前の水槽で絞る」
ぎぎゅっと握られたスポンジから、コーヒーのようなどす黒い濁った水がどろりと溢れ出す。
「きゃーっ! やめてください! せっかくの水槽が汚れます!」
「何言ってんだ。これがお前の腸内にもいるバクテリアの素だぞ。ありがたく受け取れ」
「えぇ”っ!?」
衝撃の事実に固まる私をよそに、先輩は汚水を水槽に注ぎきった。
「これで一週間もすれば、フィルターにバクテリアが定着して、アベニーを迎えられる。簡単だろ?」
「そ、そんなに待つんですか!? 早くあの子をこの水槽に……!」
逸る気持ちを抑えきれず声を上げると、先輩は静かに、だがきっぱりと言った。
「焦るな。準備を怠れば、あの小さなフグはあっけなく死ぬ。命を預かるってのは、そういうことだ」
その真剣な眼差しに、私は何も言えなくなる。
先輩の言葉には、生き物を心から大切にする優しさと、揺るがない覚悟が込められていた。
それはまるで、このアクア部そのものを守る決意のようで、すとんと胸に落ちてきた。
やがて、フィルターが静かに回り始めると、ポコ、ポコ……と命の産声のような泡が上がり、心地よい水音が部室に響き始めた。
埃っぽい机や色褪せたカーテンの中で、真新しい水が満たされた水槽だけが光を放ち、退屈な日常から切り離された秘密の楽園のように見えた。
「これで……あの子を、迎えられますね!」
興奮気味に言うと、先輩はふっと息をつき、窓の外へ目をやる。
夕陽が長い影を落とし、水面の揺らめきが小さな星のように瞬いていた。
「よかったな、ふく」
本当に微かに、だけど優しい笑みが先輩の口元に浮かんだ。
「ふく? ……何ですか、それ?」
きょとんとする私に、先輩は少し眠そうな、でもどこか楽しそうな声で答える。
「お前、さっきからフグ、フグってご執心だからな。それに福原って、ほら、なんとなくフグっぽいだろ。『ふく』でいい」
「……はい、『ふく』で、いいです」
そう答えると、なぜか心がぽかぽかと温かくなった。
『ふく』。その響きが、先輩との距離をほんの少しだけ近づけてくれた気がして、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「そういや、俺、自己紹介がまだだったな」
先輩が思い出したように、ピンセットを持ったままこちらを振り返った。
「え? あ……そういえば、近藤先生は『海月』、凛さんは『海月』って……」
「海月透也。二年C組。それが本名。
でも、昔の部員には何故か『くらげ』って呼ばれてた。どっちでもいい。よろしくな、福原――いや、ふく」
先輩――海月先輩は、驚くほどさらっとそう言うと、すぐに水槽へ視線を戻す。
だけどその口元には、さっきよりもはっきりとした笑みが浮かんでいた。
「くらげ、に、うみつき……。どちらもすごく素敵な名前ですね。アクア部にぴったりな気がします。
特に『うみつき』って、なんだかロマンチックです」
「ロマンチックなんて柄じゃないけど……まあ、海に浮かぶくらげには似合うか」
呆れたような、でもやっぱり楽しそうな声。
その声色に隠れた照れが、なんだかくすぐったい。
「えっと、じゃあ、私、『うみつき先輩』って呼んでもいいですか?
『くらげ先輩』も可愛いですけど、『うみつき先輩』の方がキラキラした海みたいで!
だから、海月先輩って呼ばせてください!」
「……好きにしろ」
先輩はぶっきらぼうに肩をすくめたけど、その仕草に拒絶の色はなくて、
私の頬は気づかれないように、少しだけ熱を帯びた。
もうすぐ、あのアベニーパファーがこの水槽にやって来る。
期待がキラキラした小さな泡のように、心の中で弾けていく。
あの子が元気に泳ぐ姿を想像するだけで、なんだって頑張れる気がした。
一週間。
それは、ひどく長く、そして待ち遠しい時間。
でも、ふとした瞬間に、ショップで会った凛さんの寂しげな瞳が頭をよぎる。
あの虎みたいなフグに、そしてこの部室に――どんな物語が眠っているんだろう。
私の知らないアクア部の秘密が、少しずつ明らかになっていく。
そんな予感がした。




