別れのカウントダウン
――あの一週間のことを、私はきっと一生忘れないと思う。
あれは、海月先輩がいなくなるなんて、まだ一ミリも想像していなかった頃の話だ。
月曜日の朝、目覚ましが鳴るより早く目が覚めた。
カーテンの隙間からのぞく空は、まだ薄い水色だ。
胸の奥が、ざわざわと落ち着かない。
(孵化3日目! 今日だ、アベニーベビーたちが初めて餌を食べる日)
布団を跳ねのけて起き上がると、倍速で着替えて階段を駆け下りる。
ベーカリー店の朝は早い。
お母さんはパンを焼き終え、私の弁当を作っていた。
「あら? 彩花、今日はずいぶん早いじゃない。どうしたの?」
「今日はアベニーベビーズが餌を食べ始める日! 忘れたの?」
「彩花の頑張りがちゃんと伝わってるみたいね。
赤ちゃんたちもきっとお腹を空かせているわ。
弁当ここに置いておくから、忘れないようにね」
「はーい!」
私は顔を上げて、部屋の時計を見た。
いつもより三十分以上も早い。
母さんに「ちょっと早いけど行ってくるね」と声をかけた。
玄関の扉を開けて外に出た瞬間、背後から小さな声が聞こえた気がした。
「彩花が大事にしてるの、ちゃんと知ってるわよ……」
振り返ると、母さんはもう台所に戻っていくところだった。
けれど、その一言だけが胸の奥でふわっと灯った。
(私、ちゃんと見守られてるんだ)
そう思ったら、足取りが少しだけ軽くなる。
風に押される紙飛行機みたいに、私は家を飛び出した。
* * *
学校の門をくぐる頃には、まだ人影もまばらだった。
廊下の窓から差し込む朝の光が、床に長い筋を作っている。
その中を、私はひとりで走っていく。
ドアを開けると、まだひんやりした部室の空気と、水槽の低いフィルター音が迎えてくれた。
窓のそば、日の差し込むところにアベニーパファーの水槽がある。
光と影が揺れながら、稚魚たちの小さな命を浮かび上がらせていた。
私はそっと近づいて、ケースを覗き込む。
昨日よりも、少しだけ動きがはっきりしている。
(あ、凛先輩のいったとおりだ! 目の色が変わっている)
赤かった目は黒く、そして周りをチロチロと見ている。
何匹かはふらふらと水中を漂っていて、他の子たちは底の方でじっとしている。
(おなか、すかせてるのかな?)
ここまではわかる。問題は、この先だ。
シャーレで孵化させたブラインシュリンプと、小さなスポイト。
「どうやって、あげるんだろう」
昨日、肝心なところを聞きそびれてしまった。
「なんとなく」は想像できるけど、「正解」がわからない。
(でも、待ってたらもっとお腹すかせちゃう)
迷っている時間の方が、もったいない。
ブラインシュリンプが固まっている辺りを、慎重にスポイトで吸い上げた。
「ええと、こんなもん、かな?」
スポイトの中では、オレンジ色の点々がふわふわと舞っている。
ケースの穴から、そっとスポイトを差し込んだ。
稚魚の集まっているあたりで、ゆっくりと押し出す。
オレンジ色の小さな粒が、水の中でふわっと広がった。
それと同時に――
「あ」
小さな影たちが、ふらふらとアルテミアの方へ引き寄せられていく。
水中で、ごくごく小さな「つつっ」という動きが連続する。
そして――
パクッ。
稚魚が大きく口を開けると、オレンジ色の粒が吸い込まれるように消えた。
また一つ、また一つ、どんどん消えていく。
(食べてる食べてる……可愛い)
思わず、声が漏れた。
よく見ると、何匹かのお腹が、ほんのりと薄いオレンジ色に染まっている。
さっきまで細かった体が、ちょっとだけ丸くなったような気もする。
「うわぁ……こんなに食べてくれた。嬉しい」
この瞬間を、誰かに伝えたくてたまらなかった。
胸の奥が、言葉でいっぱいになっていく。
お母さん? 凛先輩? それとも……。
ふと壁の時計を見上げる。
もう、そろそろ海月先輩が来てもおかしくない時間だ。
(寝坊? 急用?)
さっきまでふくらんでいた安心感が、少しだけ萎んでいく。
それでも、稚魚たちは何も知らないみたいに、一心に餌をついばんでいる。
結局、海月先輩は部室にはこなかった。
スマホを取り出す指が、もう勝手に動いていた。
誰かに知らせることで、この喜びが完成するような気がした。
海月先輩の名前をタップし、親指でぽちぽちと文字を打ち込んでいく。
『先輩、今日はお休みですか?
朝部室に来ませんでしたね?
アベニー稚魚、ちゃんと餌を食べてくれましたよ!
昨日はありがとうございました!』
全部打ち終わって、送信ボタンに親指を乗せる。
(えいっ)
部室には私しかいないのに、心の中では誰かと並んで歓声をあげていた。
けれど、待てど暮らせど、返信はこない。
ホームルーム前。
一限目の休み時間。
二限目の途中でこっそり確認してみる。
でも、吹き出しの下には何も増えていなかった。
(いったい、どうしたんだろう?)
チャイムが鳴って、私はあわてて画面を消す。
スマホをペンケースの下に押し込んだ。
――このときはまだ、この小さな沈黙が、あの一週間の始まりだなんて、少しも思っていなかった。




