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ふくとアクア部の日常  作者: たんすい
サテライトの向こう側
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水の抜かれた水槽

 週末。

 父さんが家に帰ってきた。母さんは不在だ。

 その背中は、以前より一回り小さく見えた。


「透也……ごめんな」


 謝罪と、家の売却と、新しいマンションへは水槽を持っていけないこと。

 予想していた最悪の未来が、淡々と告げられた。


「……全部、手放すのか」


「ああ。すまない……俺の新しいアパートも、狭くて水槽は置けないんだ」


 俺の居場所。俺の歴史。

 俺と父さんを繋いでいた唯一の場所が、なくなる。


「……わかった。俺が、パッキングするよ」


 感情を殺して、俺は水槽部屋へ向かった。


 作業は淡々と進んだ。

 網ですくい、パッキング袋に入れ、酸素を詰めて輪ゴムで止める。

 水槽の水が抜かれ、底砂だけが残ったガラスの箱が並んでいく。

 ポンプの音が止まり、空になった水槽は渇き、嫌な匂いを発した。

 部屋は死んだように静かになった。


 最後の一匹。

 父が一番気に入っていたアピストグラマを袋に入れた時だった。


 ブーッ。


 ポケットの中でスマホが震えた。  ふくからのメッセージだ。


『先輩! 見てください! マクロレンズ買っちゃいました!

 稚魚が餌を食べるシーンばっちり撮れちゃいましたよ〜!』


 添付されていたのは、短い動画だった。


 俺は薄暗い部屋の中で、なんとなく再生ボタンを押した。


 画面の中には、サテライトの小さな世界が映っていた。

 ふくが湧かしたブラインシュリンプが、オレンジ色の雪のように舞っている。

 その中を、小さな稚魚たちが必死に追いかけていた。


 パクッ。

 一匹が、小さな体をくねらせてシュリンプをついばむ。

 また一匹。次々と。


『あ! 食べた! 見て先輩、お腹がオレンジ色になってる!』


 動画の向こうで、ふくの声が弾んでいる。

 その言葉通り、半透明だった稚魚のお腹が、食べたブラインシュリンプの色で鮮やかなオレンジ色に染まっていた。


 ——初給餌、成功だ。

 生きるために食べ、命を輝かせている。

 それは間違いなく「始まり」の光景だった。


 俺は、手の中にある「袋」を見た。

 行き場を失い、狭いビニールの中で不安げに泳ぐ、俺の魚。

 これから手放される、俺の「終わり」の光景。


「……はは」


 乾いた笑いが漏れた。


 画面の中の稚魚たちは、あんなに大切にされて、見守られて、腹をいっぱいに満たしている。

 なのに俺は、家の魚さえ守れない。

 腹を空かせたまま、狭い袋に押し込めて、ショップに置き去りにしようとしている。


 ふくの無邪気な喜びが、鋭利な刃物になって俺の胸を抉った。

 あいつは何も悪くない。

 ただ、今の俺が、どうしようもなく惨めなだけだ。


『先輩のおかげです! ありがとうございます!』


 続いて送られてきたメッセージ。

 俺は画面を伏せた。


 返信なんて、打てなかった。

「よかったな」と打とうとする指が震えて動かない。


 俺はスマホを床に置き、

 まだ温かい最後のパッキング袋を、ダンボール箱へとそっと収めた。


 暗い箱の中に、魚たちの色が消えていく。


 俺と父さんの水槽部屋から、完全に光が消えた。


 * * *


 玄関前には、父さんの車が停まっていた。

 発泡スチロールの箱に詰めたパッキング袋を、二人で無言のまま運び込む。


「その箱、こっちの後部座席に。割れ物だけは気をつけろよ」


「わかってる」


 何度も往復して、空になった水槽や機材を車に積み上げていく。

 ガラスがぶつかる小さな音が、やけに耳についた。


 最後の箱をトランクに押し込むと、父さんが小さく息を吐いた。


「……よし。じゃあ、行くか」


 俺は振り返って、水槽部屋の方を見た。

 ドアは開け放たれているのに、奥はもう真っ暗で、ただの空き部屋みたいだった。


(……さよなら)


 心の中でだけ呟いて、玄関のドアを閉めた。


 * * *


 馴染みのアクアショップは、いつものようにガラス越しに水の揺らぎを見せていた。

 店内には、フィルターの低い唸りと、水のはじける音が満ちている。


「いらっしゃいませー……あ、海月さん」


 カウンターの中から、店長が顔を上げた。

 父さんのことも、俺のことも、いつも覚えてくれている人だ。


「こいつらのこと、よろしくお願いします」


 父さんが発泡スチロールの蓋を開ける。

 透明な袋の中で、魚たちが揺れた。


「残念ですよね。手放すなんて」


 店長の言葉は、途中で止まる。

 父さんの表情を見て、察したのだろう。


「……事情があって、水槽を全部畳むことになりまして。

 勝手なお願いなのはわかってるんですが、こいつら、いいお客さんがいたら……」


「なるほど。事情はわかりました。引っ越しなら仕方ありませんもんね」


 店長は真面目な顔つきになり、ひとつ頷いた。


「大事にしてくださる方を探しますよ。状態もいいですし、きっとすぐ新しい居場所が見つかります」


「ありがとうございます」


 父さんが深く頭を下げる。

 言葉の端々から、本当に後ろ髪を引かれているのが伝わってきた。


 店員が一つひとつ袋を受け取っていく。

 カウンターの向こうへ渡されるたびに、俺の胸のどこかが、ぽきぽきと折れていく気がした。


(……悪いな)


 心の中でしか謝れない。

 俺には、「やっぱり連れて帰ります」と言い出す勇気もない。


「それじゃあ、また何かあったら」


 店長の言葉に、父さんは「ええ」とだけ答えて店を出た。

 “また何か”なんて、もうないのに。


 * * *


 帰りの車の中は、異様に静かだった。

 窓の外を、見慣れた街並みが逆流するみたいに流れていく。


 助手席に座ったまま、俺はシートベルトの金具を指先で弄っていた。

 さっきまで魚でいっぱいだった発泡スチロールの箱は、空っぽだ。


 車が走り出してから、ずっと重い沈黙が続いていた。

 父さんの指がハンドルを強く握りしめる。

 その横顔は、悔しさを噛み殺すように歪み、目尻がわずかに赤かった。


 そして、不意に。


「家のこともそうだが……高校まで変わることになってしまい、本当にすまん」


「……え?」


 何を言われたのか、一瞬わからなかった。


「そんな事、聞いてない」


 自分でも驚くほど、声が低く出た。


「あれ? 母さんから聞いてないのか?」


 父さんが目を丸くする。


「母さんのマンションは、遠いぞ。

 電車で通える距離じゃない。

 学校の手続きも、母さんが進めている。……本当に聞いていなかったのか?」


(言えば、俺が反対すると思って、勝手に進めていたのか!)


 心臓の奥を、ぎゅっとつかまれたみたいだった。


(俺の居場所がなくなる……ふくにも、会えなくなる)


 ハンドルを握る父さんの横顔を、俺は見ることができなかった。

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