処分される居場所
翌朝、月曜日。
俺は制服に手を伸ばさなかった。
ハンガーにかかったブレザーをぼんやりと見つめるだけで、袖を通す気になれなかった。
リビングから、食器の触れ合う小さな音が聞こえる。
しばらく布団の中でやり過ごしていると、やがて足音が近づき、ドアがノックされた。
「どうしたの? 透也、学校行かなくていいの?」
半分だけ開いたドアの隙間から、母さんの顔が覗く。
俺は布団の中から、天井を見たまま口を開いた。
「……俺は、ここに残ることは出来ないんだろうか?」
「はあ? 何言ってるの?」
母さんはあからさまに眉をひそめた。
「あんな甲斐性なしのところにいてどうするの。
ご飯だって作れない、掃除もできない。」
ため息まじりに言い捨てると、今度はあっさりとした声で続ける。
「それに、無理よ。この家は売却するんだから」
「……そんなの聞いてない。ここには、父さんと俺の水槽がある」
「ああ、あれね」
母さんは、汚いものでも思い出したみたいに顔をしかめた。
「あんな湿気くさい水槽、さっさと処分しなさい。
新しいマンションはペット不可よ。水槽なんて持って行けるわけないでしょ」
頭をハンマーで殴られたような衝撃だった。
「……は?」
「だから、処分よ。お父さんの趣味に付き合うのはもうおしまい。
これからは、もっとあなたのためになることにお金を使いなさい。塾とか、予備校とかね」
俺の居場所。
親父と二人で作った、唯一息ができる場所。
それを、「処分」の一言で切り捨てる。
「……ふざけるなよ」
「何か言った?」
「……なんでもない」
これ以上言葉を重ねたら、本当に取り返しがつかなくなる。
それがわかっていたから、俺はそれだけを飲み込むように呟いた。
布団を跳ねのけ、母さんの横をすり抜ける。
自分の部屋に逃げ込むように入って、ドアを閉め、鍵をかけた。
ベッドに倒れ込むと、天井の木目がぐるぐると回って見えた。
ふくの顔が浮かぶ。
サテライトを組み立てて、「ありがとうございます!」と笑った顔。
あいつはこれから、稚魚を育てるんだ。
命を増やし、未来を作っていくんだ。
俺は?
俺はこれから、どうしたらいい。
枕元で、スマホが震えた。
画面には、ふくからのメッセージ。
『先輩、今日はお休みですか? 朝部室に来ませんでしたね?
アベニー稚魚、ちゃんと餌を食べてくれましたよ!
昨日はありがとうございました!』
暗い部屋の中で、画面の光だけがやけに眩しい。
指先が、返信ボタンの手前で止まる。
――送れない。
結局、何も打てないまま、俺はスマホの画面を伏せた。
* * *
翌日。
俺は何事もなかったみたいな顔をして学校へ行き、いつも通り授業を受けた。
チャイムが鳴るたびに、心だけがどこか遠くへ置き去りにされていく。
放課後。
鞄を肩にかけたまま、廊下を抜けて部室棟へ向かう。
今、俺に残された「水のある場所」は、ここしかない。
家の水槽はなくなる。
新しいマンションには置けない。
このアクア部が、本当の俺の居場所。
俺のすべてなんだ。
(そうだ、ここで頑張ろう)
自分にそう言い聞かせるように深呼吸をひとつして、扉を引いた。
ガラリ、と引き戸が開く。
「あ、海月先輩! お待ちしてました!」
ふくが、サテライトの前で弾けるような笑顔を見せた。
その無邪気さに、救われるような、抉られるような、複雑な痛みが胸の奥で混じり合う。
「……おう。調子はどうだ」
できるだけ普段通りの声を絞り出す。
悟られてはいけない。
このどうしようもない惨めさを、こいつにだけは絶対に見せたくない。
「バッチリです! 見てください、みんなお腹パンパンです!
先輩もブラインシュリンプあげてみます?」
ふくが指差す先で、稚魚たちが元気に泳いでいる。
小さな体を震わせながら、懸命に水を掻いている。
俺はその光景を眺めながら、心の中で縋るように思った。
(……ああ、やっぱりここが俺の居場所なんだ)
俺の手から零れ落ちたもの。
消えてしまう家の水槽、家族。
せめて、ここにある命だけは。
たとえ俺のものじゃなくても。
ふくが育てている命であっても。
ここに「生」があることだけが、今の俺を繋ぎ止めている。
「先輩? どうしました? なんか……まだ調子悪いんじゃないですか?」
ふくが心配そうに覗き込んでくる。
こいつは、こういう時だけ妙に勘がいい。
「……なんでもない。ちょっと寝不足なだけだ」
俺は笑って誤魔化した。
その笑顔がどれだけ引きつっていても、ふくには見抜いてほしくなかった。




