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ふくとアクア部の日常  作者: たんすい
サテライトの向こう側
56/63

調停という名の儀式

 スマホを切ったあと、俺は駅前の喧騒の中に立ち尽くしていた。

 ふくの背中は、もうどこにも見えない。

 さっきまで隣にあったあいつとの時間の熱が、指先から急速に冷めていくのを感じた。


 家に帰ると、母さんがダイニングテーブルで書類を広げていた。

 離婚協議書、親権に関する申立書。

 玄関のドアが閉まる音に気づくと、母さんは顔を上げて「おかえり」と微笑んだ。


 その笑顔は、勝利を確信した棋士のように冷ややかで、隙なく整っていた。


「透也、話があるの。座って」


 俺は黙ったまま椅子を引き、腰を下ろす。

 母さんは、まるで今日の夕飯のメニューでも告げるみたいな軽さで言った。


「お父さんとは別れることになったわ。あなたは私と一緒に来るの。新しいマンションも見てきたのよ。ここより駅チカで便利なんだから」


「……俺は、父さんと残りたい」


 それが、精一杯の抵抗だった。

 声を荒げることもなく、ただ事実として口にする。


 この家には、父さんと二人で作った水槽部屋がある。

 俺が唯一、ちゃんと息ができる場所。


 母さんは、わずかに眉をひそめて、諭すような口調で続けた。


「お父さんに、あなたを育てる能力はないわ。仕事だって不規則だし、家のことなんて何もできないでしょう?

 それにね、裁判所も『母親と暮らすのが子どもの福祉に適う』って判断するの。高校生とはいえ、まだ未成年なんだから」


 福祉。適う。


 綺麗な言葉だ。

 でも、俺には聞こえている。その裏側にある本音が。


 ――あいつ(お父さん)に、大事な息子は渡さない。

 ――あいつが大事にしている水槽も、息子との時間も、全部奪ってやる。

 ――養育費があれば、私の生活レベルも維持できる。

 ――高校生なら手もかからないし、「良き母親」というステータスにもなる。


 母さんの目は、俺を見ていなかった。

 俺を通して、その向こうにいる憎い元夫だけを見ている。


 俺は「透也」というひとりの人間じゃない。

「勝利のトロフィー」であり、「便利な道具」だ。


「……父さんは、なんて?」


「お父さん? 最初はゴネてたけど、最後は納得したわよ。『透也のためなら』ってね」


 嘘だ。


 父さんは言いくるめられたんだ。

 優しくて、気が弱くて、母さんの剣幕にいつも勝てない親父。


 俺の意見は?

 俺の気持ちは?


 ここには、俺の意思なんて一ミリも介在しない。


「……そう」


 俺は短く答えた。


 反抗しても無駄だ。

 子どもが何を言おうと、大人の作った「法」と「事情」の前では、無力な小魚と同じ。


 掬われて、ビニール袋に入れられて、勝手に環境を変えられる。


「わかってくれて嬉しいわ。引っ越しは来月だから、荷造りしておいてね」


 母さんは満足そうに書類をまとめた。


 俺は部屋に戻り、そのままベッドに倒れ込む。

 天井の木目をじっと見つめる。


 ふくの家を思い出した。

 パンの匂い。

 笑い合う母親と娘。


 あそこには、はっきりと「体温」があった。


 俺の家は、広い。

 でも、とてつもなく寒い。


「……くそ」


 誰にともなく吐き捨てた言葉は、部屋の冷たい空気に吸い込まれて、あっけなく消えていった。

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