調停という名の儀式
スマホを切ったあと、俺は駅前の喧騒の中に立ち尽くしていた。
ふくの背中は、もうどこにも見えない。
さっきまで隣にあったあいつとの時間の熱が、指先から急速に冷めていくのを感じた。
家に帰ると、母さんがダイニングテーブルで書類を広げていた。
離婚協議書、親権に関する申立書。
玄関のドアが閉まる音に気づくと、母さんは顔を上げて「おかえり」と微笑んだ。
その笑顔は、勝利を確信した棋士のように冷ややかで、隙なく整っていた。
「透也、話があるの。座って」
俺は黙ったまま椅子を引き、腰を下ろす。
母さんは、まるで今日の夕飯のメニューでも告げるみたいな軽さで言った。
「お父さんとは別れることになったわ。あなたは私と一緒に来るの。新しいマンションも見てきたのよ。ここより駅チカで便利なんだから」
「……俺は、父さんと残りたい」
それが、精一杯の抵抗だった。
声を荒げることもなく、ただ事実として口にする。
この家には、父さんと二人で作った水槽部屋がある。
俺が唯一、ちゃんと息ができる場所。
母さんは、わずかに眉をひそめて、諭すような口調で続けた。
「お父さんに、あなたを育てる能力はないわ。仕事だって不規則だし、家のことなんて何もできないでしょう?
それにね、裁判所も『母親と暮らすのが子どもの福祉に適う』って判断するの。高校生とはいえ、まだ未成年なんだから」
福祉。適う。
綺麗な言葉だ。
でも、俺には聞こえている。その裏側にある本音が。
――あいつ(お父さん)に、大事な息子は渡さない。
――あいつが大事にしている水槽も、息子との時間も、全部奪ってやる。
――養育費があれば、私の生活レベルも維持できる。
――高校生なら手もかからないし、「良き母親」というステータスにもなる。
母さんの目は、俺を見ていなかった。
俺を通して、その向こうにいる憎い元夫だけを見ている。
俺は「透也」というひとりの人間じゃない。
「勝利のトロフィー」であり、「便利な道具」だ。
「……父さんは、なんて?」
「お父さん? 最初はゴネてたけど、最後は納得したわよ。『透也のためなら』ってね」
嘘だ。
父さんは言いくるめられたんだ。
優しくて、気が弱くて、母さんの剣幕にいつも勝てない親父。
俺の意見は?
俺の気持ちは?
ここには、俺の意思なんて一ミリも介在しない。
「……そう」
俺は短く答えた。
反抗しても無駄だ。
子どもが何を言おうと、大人の作った「法」と「事情」の前では、無力な小魚と同じ。
掬われて、ビニール袋に入れられて、勝手に環境を変えられる。
「わかってくれて嬉しいわ。引っ越しは来月だから、荷造りしておいてね」
母さんは満足そうに書類をまとめた。
俺は部屋に戻り、そのままベッドに倒れ込む。
天井の木目をじっと見つめる。
ふくの家を思い出した。
パンの匂い。
笑い合う母親と娘。
あそこには、はっきりと「体温」があった。
俺の家は、広い。
でも、とてつもなく寒い。
「……くそ」
誰にともなく吐き捨てた言葉は、部屋の冷たい空気に吸い込まれて、あっけなく消えていった。




