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ふくとアクア部の日常  作者: たんすい
サテライトの向こう側
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夕暮れの電話

 部室を出ると、外はもう夕方だった。

 西の空でオレンジ色と群青色がゆっくりと溶け合い、街路樹には街灯が灯り始めている。


 バス停までの道を、私たちは並んで歩く。

 水槽で手を冷やしていた指先には、まだ水の匂いが残っている。サテライトの中を泳いでいた稚魚たちの姿が、何度も頭の中で再生された。


 服の袖が触れ合うたびに、心臓がいつもと違うリズムを刻む。


 行き交う車のライト。遠くで吠える犬の声。帰宅中の学生たちの笑い声。

 どれもいつもの放課後の音なのに、今日は少しだけ世界がやさしく見えた。


 だって部室には、私と先輩が一緒に組み立てた小さなサテライトがぶら下がっている。その中を、赤いうさぎの目をした稚魚たちがふわふわ漂っている。

 想像しただけで、胸のあたりがじんわりと温かくなった。


 バス停が見えてきたところで、先輩がふいに足を止めた。


「ふくの家、こっちだろ」


 先輩が顎で示したのは、横断歩道の向こう側。

 見慣れた住宅街へと続く道だ。


「はい。この信号渡って、まっすぐです」


「じゃあ、ここまでだな」


「……はい」


 分かれ道なんて、いつもと同じはずなのに。

 急に、胸の奥から名残惜しさがこみ上げてくる。


 もっと喋りたい。

 もっと今日の稚魚の様子を語り合いたい。

「先輩のおかげです」って、何度でもお礼を言いたい。


 でも、口から出てきたのは——


「じゃあ、また部室で」


 いつもの調子の、いつもの声。

 なのに、耳の奥に残る響きが、いつもより少しだけ近く感じる。


「はい、また部室で!」


 精一杯、元気よく返事をして頭を下げた。


 信号が青に変わる。

 私は小さく息を吸って、横断歩道へと歩き出した。


 背中に、先輩の気配が、薄く張り付いている。

 振り返ったら、まだ立っている気がして──でも、振り返る勇気は出なかった。


(明日は、アベニーが餌を食べ始める日だ)


 稚魚用のブラインシュリンプ。

 サテライトの透明な箱の中を泳ぎ回る、小さなオレンジ色のしましまの稚魚。

 海月先輩が「ちゃんと世話すれば、あいつらは応えてくれる」って言った声。


 そんなことを考えながら、私は信号を渡った。


 このときの私は、その数分後に海月先輩の世界が大きく変わるなんて、まだ何も知らなかった。


 * * *


 ふくの背中が、人の流れに紛れて見えなくなる。


 ロータリーの端に立ったまま、海月はその方向をぼんやりと見つめていた。

 さっきまで隣にいた後輩の笑い声が、まだ耳の奥に残っている。


 サテライトのパーツを並べて説明を聞いていたふく。稚魚をスポイトですくうたびに「ひゃっ」と声を上げ、必死で手元を見ていたふく。「一生忘れないかもしれないです」なんて、少し照れながら笑っていた顔。


 その光景が、まぶたの裏で繰り返される。


 ポケットの中で、スマホが震いた。


 ブーッ、ブーッ。


 画面には「母さん」の文字。

 通話アイコンが点滅している。


「……なんだよ、今」


 思わず、口の中で呟く。

 ふくと別れてから、まだ数分も経っていない。


 一瞬、出るのをためらう。

 それでも、着信は容赦なく続いた。

 まるで「逃がさない」とでも言うみたいに。


 ため息をひとつ吐いて、通話ボタンを押す。


「もしもし」


『透也? 今、大丈夫?』


 受話口から聞こえる声は妙に事務的で、温度がよく分からない。

 久しぶりに聞く母の声なのに、「懐かしさ」より先に、胃のあたりがきゅっと固くなる。


「駅前だけど。……何」


 ロータリーの真ん中で、バスのアナウンスと、車のクラクションと、人の話し声が入り混じる。

 その騒がしさの中で、母の声だけがやけに浮いて聞こえた。


『ちょっと話があるの。短く済むから』


 背筋を、冷たい指でなぞられたような感覚が走る。


「……なに」


 自分でも驚くほど低い声が口から出た。


 信号が変わる電子音。

 走り去るバス。

 部活帰りの生徒たちが笑いながら、海月の横を通り過ぎていく。


 自分だけ、別の場所に取り残されたような気がした。


『母さんたちね、離婚することになったから』


 時間が、そこで止まった。


 信号の色も、人の足音も、遠くの子どもの笑い声も。

 さっきまで耳に入っていたすべての音が、

 急にガラス越しの向こう側みたいに遠のいていく。


「……は?」


 ようやく絞り出した声は、自分のものじゃないみたいに乾いていた。


『前から話してたでしょ。もう決まったから。詳しいことは、また家で話すわ』


 母の声は淡々としていた。

 笑っているわけでも、泣いているわけでもない。

 ただ「決定事項」を読み上げるだけの、機械の声だった。


 海月は、空っぽの右手を、ゆっくりと握ったり開いたりする。


 ついさっきまでこの手は、サテライトを支え、ホースを押さえ、スポイトを握っていた。

 水の冷たさやゴムの固さ、ふくの「ありがとうございます」という声までが、

 まだ掌にこびりついている気がする。


 夕焼けに染まるロータリーの真ん中で、

 海月はスマホを耳に当てたまま、ただ立ち尽くしていた。


 さっきまで隣にあった温度と、これから帰るはずの家の冷たさの差が、

 じわじわと胸の内側を締め付けていく。

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