昨日は凛先輩、今日は海月先輩。
「その男の子……誰?」
お母さんの目が、すぅっと細められた。
笑顔なんだけど、目が笑っていない。いわゆる“尋問モード”の顔だ。
それもそのはず。
昨夜「女友達(凛先輩)の家に泊まる」と言って出かけた娘が、翌朝、見知らぬイケメン(自分で言うのも癪だけど)を連れて帰ってきたのだ。
状況だけ見れば、もう完全にアウトだ。
「ち、ちがっ! 違うの、お母さん! 変な勘違いしないで!」
私は慌てて両手をぶんぶん振り回す。
背後の海月先輩も、さすがに気まずそうに居住まいを正した。
「あ、あの……初めまして。同じ部活の海月透也です」
先輩が丁寧に頭を下げる。
その落ち着いた所作と、整った顔立ち。
お母さんの視線が、先輩のつま先から頭のてっぺんまでを、値踏みするようにじっくりと往復する。
「海月くん……? ああ、あなたが」
お母さんがポンと手を打った。
「彩花が言ってた、“デートじゃない”って言い張るデート相手の?」
「お母さぁぁぁぁんっ!!」
私は玄関で絶叫した。
近所迷惑とかもうどうでもいい。この親は、どうしてこうも娘の神経を逆撫でするのが上手いのか。
「違うってば! 海月先輩は部長さん!
凛先輩の家から一回学校に寄ったら、たまたま会ったの!
アクアショップに行くから、着替えに戻っただけなの!」
一息でまくし立てると、酸欠でクラクラした。
「凛さんっていうのは、前にうちに来た、あの髪の長いフードの女の子よね?」
「そうそう! あの人が凛先輩。昨日は凛先輩の家に泊まったの!」
それでも、お母さんは簡単にはうなずかない。
「じゃあ、どうして家に帰らずに学校に行ったりしたの?」
「それは、アベニーパファーの稚魚の世話があって部室に寄ったら、たまたま先輩がいたの。
本当に偶然なのっ!!」
「はいはい、わかったわよ。そんなにムキにならなくても」
お母さんはクスクス笑うと、ドアを大きく開けた。
「立ち話もなんだから、入って。彩花も着替えてくるんでしょ?」
「う、うん……。先輩、ごめんなさい。ちょっとだけ待ってて」
「さあ海月くん、入って待ってて。パンとお茶出すからね」
「はい。お邪魔します」
海月先輩は苦笑しながら、私の家の敷居をまたいだ。
* * *
私が大急ぎで二階へ着替えに行っている間、リビングには奇妙な沈黙が流れている気がして、胸がざわざわして落ち着かなかった
(変なこと言わないでよ、お母さん……!)
白いブラウスに、淡いベージュのカーディガン。
デニムのスカートを履いて、鏡の前で髪を整える。
(……これで、いいかな)
少しだけリップを塗って――いや、やっぱり濃すぎる。
ティッシュで軽く押さえる。
(何やってるんだろ、私……)
階下からは、お母さんと海月先輩の会話が微かに聞こえてくる。
――何を話してるんだろう。
気になって、そっと階段を降りていく。
「お待たせしまし――」
テーブルに座る海月先輩の前に、焼きたてのパンとコーヒーが置かれている。
そしてお母さんが、向かいの席でニコニコと先輩に話しかけていた。
「うちの娘、たまに暴走するから。ちゃんと止めてあげてね」
「……気をつけます。
すでに何度か、止める側になってますけど」
「ちょっとお母さん! いないとこで娘の株を下げないで!」
私が割って入ると、二人が同時に笑った。
その笑い声を聞いて、ようやく――
お母さんの誤解は、ちゃんとほどけたんだと実感する。
海月先輩の手には、半分かじったクロワッサンがあった。
その表情が、学校で見せる気だるげな顔とも、部室で見せた寂しそうな顔とも違って――どこか、ほっとしているように見えた。
「パンの匂いがする家って、いいですね。なんか……落ち着きます」
先輩がしみじみと呟く。
その言葉に、お母さんは嬉しそうに目を細めた。
「気に入ってくれたなら、いつでもいらっしゃい。彩花が部活でお世話になってるんだもの。ロスパンでよければ、遠慮なく。パンなら腐るほどあるから」
「……ありがとうございます。本当に、美味しいです」
先輩がもう一口、パンを頬張る。
バターの香りが漂うリビングで、先輩の肩の力が抜けていくのが分かった。
(そっか……先輩の家、居心地悪いって言ってたもんね)
私なんかのうちでも、先輩には温かく感じるのだろうか。
「さ、彩花。海月くんを待たせちゃダメよ。いってらっしゃい」
「うん。……お待たせしました先輩」
「いや、ごちそうさま。……本当にご迷惑をおかけしました」
先輩が立ち上がり、お母さんに礼を言う。
「誤解だったんだから気にしないで、またいつでもいらっしゃい。今度はちゃんとしたご飯を用意しておくわね」
「はい、また来ます」
――その一言が、私の胸にじんわりと染み込んだ。
「行ってきます!」
私たちは、パンの香りを背中に、家を出た。
* * *
バス停までの道を歩きながら、私はチラリと隣の先輩を見た。
「……うちのお母さん、変なこと言ってませんでした?」
「別に。いいお母さんじゃないか」
先輩は、空を見上げながらぽつりと言った。
「明るくて、世話焼きで。ふくが誰に似たのか、よく分かったよ」
「えっ……それ、褒めてます?」
「さあな」
そんな会話をしながら、バス停へ向かう。
お母さんの勘違いは解けたし、先輩もなんだか機嫌が良さそうだ。
それに――。
『はい、また来ます。』
先輩のあの言葉が、嬉しかった。
私の居場所が、先輩にとっても“安らげる場所”になれたなら。
それは、アベニーパファーの小さな命が育つ瞬間と同じくらい、胸が温かくなることだった。
制服じゃない服で歩くのは、なんだか特別な気分だった。
海月先輩との、二人きりの時間。
(……先輩と私って、結構相性いいのかな?)
そう思った瞬間、また顔が熱くなる。
バスが来るまでの数分間、私たちは他愛もない話をしながら、春の陽射しの中で並んで立っていた。
その何気ない時間が――
なぜか、とても大切で、これからも続いてほしいと思った。
遠くから低いエンジン音が近づいてくる。
道路に長い影が伸び、バスの車体がゆっくりと姿を現した。
並んで立つ私と先輩の肩が、ほんの少し触れそうになる。
その距離の近さに、胸があたたかくなるのを感じた。




