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ふくとアクア部の日常  作者: たんすい
サテライトの向こう側
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朝帰りなのにデートじゃない

 凛先輩の家を出たあと、まっすぐ家に帰る気になれなくて、

 私は気がつけば学校へ向かうバスに乗っていた。


 校舎は当然閉まっていて、昇降口のガラス戸も施錠されている。

 でも、裏口から回り込めば、部室棟の一部は昼間だけ開いていることを、私はもう知っていた。


 ――ガラリ。


 アクア部の引き戸を開けると、ポンプの低い音と、水の揺れる気配だけが迎えてくれた。


 ……と思ったら、窓際の椅子に、先客がいた。


「……あれ? 海月先輩、休みなのにどうしたんです?」


 振り向いた海月先輩は、少し気まずそうに笑った。


「俺? ああ……俺んちは、今ちょっと……居心地悪くてさ」


 それ以上は言葉を濁し、視線を水槽に逃がす。


「だから、ここにいる方がマシなんだ」


 部室の静けさが、先輩にとっても“避難所”なんだと気づいて、胸がきゅっとなった。


「それより、どうした? 浮かない顔して」


 言われてみれば、確かに私はしょんぼりした顔をしていたのかもしれない。


「……実は。昨日、凛先輩の家に泊めてもらったんですけど」


「は? 泊まった? お前が凛の家に?」


 椅子の背にもたれていた先輩の体が、びくっと起き上がる。

 驚きと、少しの動揺。

 凛先輩が他人を家に上げた、という事実の重さが伝わってくる。


「はい。色々教えてもらって……でも、言われました。

 『二度とやらない』『これ以上アクア部の話はするな』って」


 自分で口にして、改めて胸が痛んだ。

 せっかく少し距離が縮まったと思ったのに、私が踏み込みすぎたのかもしれない。


 シュンと視線を落とすと、海月先輩は小さく息を吐いた。


「……そうか。あいつ、そこまで頑なか」


 寂しそうに笑うその横顔は、昨日、商店街で見た時と同じだった。


「まあ、凛の家は広いしな。誰かがいてくれた方が、あいつも気が紛れたかもしれない」


 そう言いながらも、先輩の声には、どこか届かないところを見ているような響きがあった。


 私は、アベニーの稚魚用の小さな水槽の前にしゃがみ込む。


 その瞬間――


「ああああ!」


 思わず変な声が出た。


「どうした? ふく」


「シーモンキー、孵化しています!」


 水面近くで、オレンジ色の小さな点々が、ぴこぴこと踊っている。


「昨日いったろ、1日で孵化するって」


「あ、そうだ。すっかり忘れてました!

 明日、アベニーの孵化日なんですよ!

 これをあげたら丁度いいですね!」


 いい仕事した、と言わんばかりに振り向いた私に、

 海月先輩は、苦笑混じりに首を横に振った。


「それは、使わないほうがいいよ」


「ええ? どうしてです?」


「ブラインシュリンプは、孵化してから時間が経つと栄養価が落ちるんだ。

 それに成長も早いから、小さな稚魚の場合、口に合わなくなることもある」


「え!? そうなんですね……」


 せっかく孵化させたのに、と少し残念に思いながらも、

 私はじっとシーモンキーたちを見つめる。


(元気に動いてるのに、“今のまま”じゃ、アベニーには大きすぎるんだ……)


 そう考えると、ちょっとだけ切なくなった。


「でも、覚えること多すぎですね。アクアリウムって大変」


 思わず本音がこぼれると、海月先輩はふっと笑った。


「まあな。ゆっくり学べばいいよ。やり始めたばかりなんだし」


 その声があまりに自然で、

 さっきまで胸の中で渦巻いていた凛先輩のことが、少しだけ遠のいていく。


 部室に、小さなポンプの音だけが流れる。


 沈黙――だけど、居心地の悪い沈黙ではなかった。


 水槽の中では、稚魚の卵とシーモンキーたちが、確かに生きて動いている。

 その気配が、ふわりと私たちの間を満たしている気がした。


「私、帰りますけど、先輩は?」


 なんとなく、口をついて出た言葉。


 海月先輩は、天井を一度見上げてから、ゆっくりと答えた。


「俺は、ここでのんびり過ごすよ。ここ、嫌いじゃないし」


 なぜだか少し寂しそうに見えた横顔に、私はつい、話題を探して声をかけてしまった。


「そうだ、先輩、知ってました?

 餌をまだ食べられないアベニーの赤ちゃんって、うさぎみたいに目が赤いんですよ!」


「どうせ、凛に教えてもらったんだろ」


「そうです。バレちゃいました?」


 思わず笑うと、海月先輩も、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「凛といえば、フグの稚魚の育成のときによくサテライトを使っていたな」


「サテライト?」


「水槽のサイドにかけられる育児用ケース。

 エアーリフトで水槽の水を汲み上げて、酸欠になりにくいし、水流なんかも調節できて便利だぞ。稚魚は水流に弱いからな」


「そんな便利グッズが……!」


 思わず身を乗り出すと、先輩は少しだけ苦笑した。


「アクアショップ行けば、だいたい置いてると思うけど」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の中にぽっと灯りがともる。


「あの、先輩」


「ん?」


「今日って、このあと予定ありますか?」


「特にないけど……なんだよ、改まって」


「よ、よかったら……一緒にアクアショップ行きませんか?

 どれ買えばいいのか、私一人じゃ心配で」


 言い終えた途端、顔が熱くなる。

 でも、今さら引っ込めることはできない。


 海月先輩は、少しだけ目を丸くしてから、ふっと視線を窓の外に向けた。


「……まあ、暇だしな」


 小さくため息をついたあと、ぽつりと続ける。


「いいぞ。付き合ってやるよ」


「本当ですか!?」


「ああ」


「――あっ……でも、私、昨日家に帰っていないし、制服で行くのもちょっと」


「別にいいんじゃないか? 学生なんだし」


「うう、なんか“デートです”って宣言してるみたいで……」


 自分で言ってから、ますます顔が熱くなる。


「誰もそこまで思わねえよ」


 あっさりと言い切られて、少しだけホッとして、少しだけモヤっとする。


「じゃあ、一回家寄ってもいいですか? 家、近いから」


「いいけど……家の人、大丈夫か?」


「大丈夫です! むしろ先輩のこと話したら、母めっちゃ興味持つと思います」


 言った瞬間、海月先輩がほんのわずかに肩をすくめた。


(あ、ちょっと嫌な予感してる顔だ)


 でも、それをからかう前に、私は立ち上がって鞄を手に取る。


「じゃあ、行きましょう。アベニーの赤ちゃんのための、初めてのお買い物です」


「はいはい。張り切ってんな」


 そうして私たちは、一緒に部室を後にした。


 学校を出て、住宅街を抜けると、すぐに見慣れた我が家の前に着く。


「ここが、私の家です」


「へえ……本当にパン屋さんなんだ」


 海月先輩が、じっと家を見上げる。


 玄関の前で一度深呼吸してから、私は扉を開けた。


『いらっしゃい』――ガチャリ。


 エプロン姿の母が顔を出し、私の後ろの先輩を見て目を細めた。


「え!? 彩花、昨日は凛さんの家って……」


 じろりと二人を見比べ、声をひそめる。


「その男の子……誰?」


 ――つづく。

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