冷めていくだし巻き卵
カーテンの隙間から朝日が差し込み、私は目を覚ました。
ぼんやりと目を開けると、隣の布団はもう畳まれていた。
(先輩?)
手を伸ばすと、そこにはもう誰もいない。
昨夜、あんなに冷たかった指先の温もりが、まだ自分の手に残っているような気がした。
トントン、トントン。
台所の方から、包丁の音が聞こえてくる。
昨日と同じ、丁寧なリズム。
私はゆっくりと起き上がり、布団を畳んでから台所へ向かった。
「おはよう、ふく」
振り返った先輩は、エプロン姿で味噌汁の鍋をかき混ぜていた。
朝日が差し込むキッチンで、湯気が白く立ち上っている。
「おはようございます」
朝の光の中の先輩は、昨夜の弱々しさを隠すように、いつもの「凛とした先輩」に戻っていた。
でも――その表情は、どこか柔らかい。
「よく眠れたか?」
「はい、先輩は?」
「まあ、そこそこ」
そう言って、小さく笑う。
その笑顔が、昨日までとは少しだけ違って見えた。
「朝は和食派なんだ。口に合うか分からないけど」
テーブルに並べられた朝食は、焼き鮭にだし巻き卵、大根おろし、それに丁寧に作られた味噌汁。
完璧な旅館の朝ごはんみたいだった。
「うわぁ、すごい」
「大したもんじゃない。座れよ」
私は席に着き、先輩の向かいに座った。
二人きりの食卓。朝日が差し込む静かなキッチン。
なんだか、新婚さんみたいだ――なんて、変なことを考えてしまって、顔が熱くなる。
「どうした。顔、赤いぞ」
「な、なんでもないです! いただきます!」
慌てて手を合わせると、先輩がくすっと笑った。
その笑い声が、昨日までとは違って、とても優しく聞えた。
箸を取り、だし巻き卵を一口食べる。
ふわっと優しい味が口の中に広がった。
「美味しい……」
「そうか。よかった」
先輩も自分の茶碗を手に取り、ご飯を食べ始める。
二人で向かい合って朝ごはんを食べる。
それだけのことなのに、胸の奥が温かくて、少しだけ切なくなった。
昨夜、あんなに寂しい顔をして泣いていた先輩。
今は、こうして朝ごはんを作ってくれている。
「そうだ、ふく。稚魚の餌やりだけど」
箸を動かしながら、先輩が言った。
「ブラインシュリンプは、光に集まる習性がある。
だからライトで一箇所に集めて、スポイトで吸うといい。
そうすれば殻が混ざらない」
先輩は、少しだけ楽しそうだった。
アベニーパファーの話をしている時の、その瞳には確かに光が宿っている。
「先輩」
「ん?」
私は箸を置いて、まっすぐに先輩を見た。
「でも、アクア部には、戻ってきてくれないんですよね?」
先輩の手が、ぴたりと止まる。
しばらく沈黙が続いた。
味噌汁の湯気だけが、ゆらゆらと立ち上っている。
「ああ、今はな」
ぽつりと、先輩が答えた。
「今は?」
「今は、まだ無理だ」
先輩は茶碗を置いて、窓の外を見た。
「サリバトールのことも、部員のことも……まだ、整理がついてない。
あの場所に戻るのは怖い」
「先輩……」
「でも」
先輩がゆっくりと、私のほうを向いた。
「お前がちゃんとフグを育てて、幸せにしてやれるなら。
それを、見守ることはできるかもしれない」
その言葉に、私の胸が大きく跳ねた。
「本当ですか!?」
「ああ。約束はできないけどお前が困った時は、教えてやる。
部室には入らないけど、メッセージとかでなら」
それは、ほんの小さな一歩だった。
でも――昨夜まで「二度と関わらない」と言っていた先輩が、こうして歩み寄ってくれた。
「先輩、ありがとうございます!」
「礼なんていらない」
そう言いながら、先輩は少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
私は、嬉しくて嬉しくて、思わず声が弾んでしまった。
「じゃあいつか……いつか、アクア部にも戻ってきてくれますよね!
一緒にアベニーパファーを育てましょう! 先輩となら――」
「――やめろ」
低く、冷たい声が、私の言葉を遮った。
先輩の表情から、さっきまでの柔らかさが音もなく消えていく。
氷のように固く、閉ざされていく。
「え……?」
「今は、って言っただろ」
先輩の視線が、ゆっくりと落ちる。
両手が、膝の上でぎゅっと握られる。
「あ、ごめんなさい、私……」
私は慌てて謝った。
調子に乗りすぎた。先輩が、せっかく一歩踏み出してくれたのに。
静寂が、重く食卓に降りる。
朝日が差し込む明るいキッチンが、急に冷たく感じられた。
「……俺は」
ぽつりと、先輩が口を開いた。
「もうフグは飼わない。
二度と。一生、やらない」
その声は、決壊する寸前のダムみたいに、細くて、痛くて。
「教えることはできる。見守ることもできる。
でも俺自身が、また飼うことは……」
言葉が途切れる。
私は、何も言えなくなってしまった。
昨夜、あんなに辛い過去を打ち明けてくれたのに。
手を繋いで、一緒に眠ったのに。
それでも――先輩の傷は、一晩では癒えないんだ。
「ごめんなさい、凛先輩。私、調子に乗っちゃって」
「いや、お前が悪いわけじゃない」
先輩は小さく息を吐いて、箸を置いた。
「お前の気持ちは嬉しい。
でも俺には、まだ時間が必要なんだ」
「はい」
気まずい沈黙が、食卓を支配する。
さっきまでの温かい雰囲気が、嘘みたいに消えていた。
箸を持つ手が、震える。
私、またやっちゃった。
せっかく先輩が心を開いてくれたのに、踏み込みすぎて――。
「……ふく」
「はい?」
先輩がゆっくりと顔を上げた。
その表情は、さっきよりは少しだけ柔らかい。
「お前が育てるアベニーパファーのこと。
困ったことがあったら、いつでも相談してくれ。
それくらいは、できるから」
「先輩……」
「ただし」
先輩は、まっすぐに私を見た。
「これ以上、俺にアクア部のことは言わないで欲しい」
その目には、昨夜見たのと同じ――深い、深い痛みが宿っていた。
「はい。分かりました」
私はしっかりと頷いた。
先輩は小さく息を吐いて、また箸を手に取った。
「食えよ。冷めるぞ」
「はい」
私も箸を持ち、ご飯を口に運ぶ。
さっきまであんなに美味しかっただし巻き卵が、少しだけ味気なく感じられた。
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
ただ静かに、朝食を食べ続ける。
朝日が、残酷なほど明るく食卓を照らしていた。




