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ふくとアクア部の日常  作者: たんすい
サテライトの向こう側
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冷たい手が温まるまで

 ふと目が覚めると、まだ深夜だった。

 隣を見ると、凛先輩も起きていて、天井をぼんやりと見上げていた。


「……先輩? 眠れないんですか?」


「……起こしてしまった? ごめん」


 先輩の声は、昼間よりも低くて、夜の空気に静かに溶け込んでいく。


「いえ……。あの、先輩」


「ん?」


「今日、稚魚のこと教えてくれて、本当にありがとうございました。

 先輩の説明、すごく分かりやすくて……まるで先生みたいでした」


 それは、飾り気のない本音だった。

 知識も経験もあって、教え方も丁寧で。

 先輩はやっぱりすごい――そう伝えたかった。


 けれど。


 月明かりに照らされた先輩の横顔は、嬉しそうにするどころか、どこか自嘲するように歪んだ。


「……すごくなんて、ないよ」


「え?」


「俺は……兄さんの真似事をしてるだけだ」


「お兄さん……ですか?」


 初めて聞く名前だった。

 先輩は天井を見つめたまま、独り言みたいに口を開く。


「兄さんは、完璧だった。

 勉強も、運動も、何もかも。

 父さんは、いつも兄さんだけを見ていた」


 淡々とした口調が、かえって痛々しい。


「『兄を見習え』『兄のようになれ』『お前がだらしないと兄の評判に関わる』……

 俺がどんなに頑張っても、父さんが見てたのは兄さんだけだった」


 布団を握る先輩の手が、月明かりに白く浮き上がる。


「兄さんは優しかった。俺にだけは、ちゃんと話しかけてくれた。

 だから俺は……兄さんの口調を真似て、兄さんの後ろをついて回って……

 そうすれば、父さんに認めてもらえると思った」


「先輩……」


「でも、兄さんは大学に行って、家を出ていった。

 ……それからだ。父さんが家に帰らなくなったのは」


 静かな衝撃が、胸の奥に広がる。


「父さんにとって、兄さんのいない家は……ただの空っぽな箱なんだよ。

 俺がいても、いなくても、変わらない。

 生活費だけ振り込まれて、あとは……何もない」


 広い家。立派な家具。

 でも、そこには「家族」がいなかった。


 先輩はずっと、この広い箱の中で、たった一人で生きてきたんだ――そう思った。


「だから俺は……サリバトールを飼った。

 あれだけは、兄さんの真似じゃなく、俺が自分で選んだ命だったから」


 先輩の声が、かすかに震える。


「世話をしてる時だけは……俺が、生きていていいって思えた。

 人間は信用できなかったけど、あいつだけは……裏切らなかった」


「……先輩」


「でも、俺が……殺した。

 ヒーターの事故で。気づいた時には、もう……」


 そこで、言葉が途切れた。


「違う! 凛先輩が殺したんじゃない! あれは――」


 私は思わず声を上げていた。

 布団の中で、先輩の両手がぎゅっと握りしめられているのが分かる。


「俺が関わると、大事なものは全部消える。

 兄さんも、サリバトールも……。

 だから、もう二度と飼わない。そう決めたんだ」


 その声に宿る痛みの深さに、胸が締めつけられる。


 これは、ただの後悔じゃない。

 取り返しのつかない何かに対する――癒えない傷の痛みだ。


 私は、布団の中でそっと手を伸ばした。

 隣の布団との間にある、拳一つ半の距離。


 手探りで、先輩の手を探す。

 冷たい指先が、私の指に触れた。


 私はそっと、その手を包み込むように握った。


「……っ」


 先輩の手が、びくりと震える。

 でも、振り払われることはなかった。


 冷たい指先が、私の体温を求めるみたいに、かすかに握り返してくる。


「……ふく」


「はい」


「お前は……変なやつだな」


 かすれた声だった。

 笑おうとしているのか、泣きそうなのか、判別できない揺れた声。


「変わってません。お節介なだけです」


 私はぎゅっと、先輩の手を握り返した。


 しばらく、沈黙が続く。

 布団の中で繋いだ手だけが、お互いの存在を確かめ合っていた。


 ふと、先輩の呼吸が不規則になったのに気づく。

 顔を向ければ、きっと泣いているのだろう。


 でも――私は天井を見上げたまま、何も言わなかった。

 ただ、手を握る力を、少しだけ強くした。


 先輩が涙を隠そうとしているのが分かったから。

 気づかないふりをしてあげるのが、今の私にできる優しさだと思ったから。


「……ありがとう」


 どれくらい時間が経ったか分からない。

 ぽつりと、小さな声が聞こえた。


「どういたしまして」


 私はそう答えて、そっと目を閉じる。


 冷たかった先輩の手が、少しずつ温かくなっていくのを感じながら。


 そのまま、二人とも眠りに落ちていった。

 繋いだ手を、離すことなく。

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