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ふくとアクア部の日常  作者: たんすい
サテライトの向こう側
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自分で縮めた隙間

 お風呂から上がると、凛先輩の部屋のドアが少しだけ開いていた。


「先輩、入ってもいいですか?」


「……ああ」


 そっと顔を覗かせると、先輩は窓際に座って、濡れた髪を無造作にタオルで拭いていた。


 その姿を見て、私は思わず息を呑んだ。


 いつもフードで隠している黒髪が、背中までしっとりと流れている。

 お風呂上がりで少し上気した頬。白い肌に、濡れた髪が艶めかしく張りついて――

 学校で見せる「人を寄せ付けない凛先輩」とは、まるで違う。


「……何」


 視線に気づいた先輩が、警戒するみたいに肩を竦める。


「あ、ごめんなさい……。あの、髪、乾かすの手伝いましょうか?」


「は? なんで」


「だって、背中の方とか乾きにくいじゃないですか」


「……自分でやる」


 ぶっきらぼうに断るくせに、手元はどこか不器用で、

 後ろ髪をうまく乾かせていないのが分かる。


「いいじゃないですか。お泊まりの特権だと思って」


 私は有無を言わせず先輩の背後に回り込んだ。

 ドライヤーのスイッチを入れる。


 ブォ――と温風の音が部屋に広がる。


「……勝手なやつだな」


「はい、お節介です。それに、教えてくれたお礼です」


 温かい風を当てながら、指で髪を梳く。

 ふわっと石鹸の優しい香りが漂った。


 絹糸みたいに柔らかくて。

 こんなに綺麗な髪なのに、いつもフードの中に隠してしまうなんて――もったいない。


「……先輩の髪、すごく綺麗ですね」


「……」


 返事はなかった。

 でも、先輩の肩の力が、少しだけ抜けたように見えた。


 私は毛先から丁寧に乾かしていく。

 髪を指先で持ち上げて、根元に風を通す。

 まるで美容室みたいに、ゆっくり、優しく。


「……ふく」


「はい?」


「お前、慣れてるな」


「お母さんの髪、よく乾かしてあげるんです。仕事で疲れて帰ってきた時とか」


「……そっか」


 それきり、先輩は黙り込んだ。

 ドライヤーの音だけが、静かな部屋に響く。


 私は髪を少しずつ分けながら、内側まで丁寧に風を当てていった。

 重なり合った髪の層が、一枚ずつほどけていくような感覚。


 ふと――先輩の耳が、ほんのり赤くなっているのに気づいた。


(……恥ずかしいんだ)


 そう思うと、胸の奥がじんわり温かくなる。

 いつも強がっているくせに、こんな些細なことで照れるなんて。


「……気持ちいいですか?」


「……別に」


 そっけない返事。

 でも、その声はいつもより少し柔らかかった。


 毛先を丁寧に乾かし終え、ドライヤーのスイッチを切る。


 静寂が戻る。


「はい、終わりました」


 振り返った先輩の髪はふわりとボリュームが出て、光を反射してサラサラに輝いていた。

 窓から差し込む月明かりに照らされて、黒い絹みたいに艶めいて見える。


「……ありがと」


 小さく呟いたその横顔は、ほんの少し――本当に少しだけ、笑っているようだった。


 その表情を見て、胸の奥があたたかくなる。


「先輩」


「ん?」


「こういうの、お母さんにやってもらったこと……あります?」


 何気なく聞いたつもりだった。

 けれど先輩の表情が、ふっと陰る。


「……母さんは、俺が小さい頃に出てった」


「え……」


「だから、ない」


 淡々とした口調なのに、その言葉は胸に痛く刺さる。


 当たり前の優しさを、ずっと受けられなかった人。

 ずっと一人で、自分のことをしてきた人。


 そんな姿が一瞬で浮かんで、私は何も言えなくなる。


「……先輩」


「なんだよ」


「また、やってあげます。いつでも」


 先輩は少しだけ目を見開き、困ったように、でもどこか嬉しそうに笑った。


「……お節介だな、本当に」


「お節介で結構です」


 にっこりと笑うと、凛先輩は何も言わなかった。

 けれど、さっきよりその背中が少しだけ軽く見えた。


 ◇


 乾かし終えると、私たちは広い和室へ移動した。

 押し入れから布団を二組引っ張り出す。


「ここに敷いていいですか?」


 私が布団を広げようとすると、先輩が少し考え込むような顔をした。


「……ああ、好きなところに」


 私は先輩の布団の隣に、自分の布団をぴったりと並べて敷き始めた。


「って……ちょっと待て」


「え?」


 先輩が私の布団を軽く引っ張って、少しだけ離す。

 二つの布団の間に、拳五つ分くらいの隙間ができた。


「な、なんですか?」


「いや……その、近すぎるだろ」


 先輩の耳が、またほんのり赤くなっている。


「え? 修学旅行とかだと、みんなこれくらいで寝ますよ?」


「俺はそんな経験ないし……」


 少し離してみても、先輩は複雑そうな顔をする。


「遠すぎます?」


「いや、そういうわけじゃ……」


 私はぐいっと布団を寄せ、先輩がまた少しだけ離す。

 その距離を詰めたり広げたりするたびに、布団がさくさくと畳の上で擦れた。


「……もう好きにしろ」


「いいんですか?」


 その言葉を合図に、私は自分の布団をずいっと寄せる。

 結局、拳一つ半くらい――くっつきそうでくっつかない、ぎりぎりの距離に落ち着かせた。


「先輩が気にしすぎ……」


「別に、気にしてない」


 そう言いながら、先輩は自分の布団のシワをやけに丁寧に伸ばしている。

 その仕草が、なんだか可愛くて、私は思わず笑ってしまった。


「なんだよ」


「いえ……先輩、意外と可愛いなって思って」


「うるさい。電気消すぞ」


 先輩が照れ隠しみたいに立ち上がり、部屋の電気を消した。


 広い部屋に、布団が二つ。

 拳一つ半の距離で並んでいる。


 消灯すると、窓から差し込む月明かりが、部屋の静けさを際立たせた。


 隣に、先輩がいる。


 手を伸ばせば……本当に届きそうな距離に。


 布団に潜り込むと、先輩の気配が妙に近く感じられた。

 呼吸の音まで聞こえてきそうで、胸の鼓動が落ち着かない。


「……なんか、修学旅行みたいですね」


「……修学旅行なんて、ろくな思い出ないけどな」


 先輩はそう言いながらも、私のほうへ少しだけ寝返りを打つ。

 布団が擦れる音が、静寂の中で大きく響いた。


 さっき自分で離したはずの距離が、今は少しだけ近く感じられた。

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