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ふくとアクア部の日常  作者: たんすい
サテライトの向こう側
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泊まっていいよ、って言われた夜

 「孵化したら教えるって言ってた、『孵化率ほぼ百パーセントの方法』のことです!

 私、八匹は孵化したんですけど、四匹はダメにしちゃって。

 やっぱり、全部助けてあげたかったなって……」


 悔しさが、言葉の端っこににじむ。


 凛先輩は「ああ、それか」と短く言って、椅子をくるりと回し、正面から私を見た。


「忘れてたわけじゃない。……ただ、ふくなら、教えなくてもいずれ辿り着いたかもしれないけどな」


「え? どういうことですか?」


「今回、親から離して『卵だけ』で管理しただろ?

 それは正解への第一歩なんだ」


 先輩は机の上のメモを一枚取り、さらさらとペンを走らせる。


「ただ、水槽だとどうしても雑菌はいる。

 じゃあ――どうすればいいと思う?」


「水槽を使わずに、やる……?

 そんなの、無理ですよ」


「そうかな?」


 凛先輩は、ペン先で「水道水」と書かれた文字を、とん、と指で叩いた。


「水道水で管理するんだよ」


「……え?」


「日本の水道水の基準は厳しい。一般細菌は百以下、大腸菌はゼロ。

 つまり、消毒済みで清浄度が保証されている。

 卵を守るには、その“安全な水”を使うのが近道なんだ」


「……そんな方法、考えもしませんでした」


 思わず、息を呑む。


 凛先輩は、少しだけ得意そうに口元をゆるめた。


「だから言ったろ。いずれ辿り着けるって」


「管理の方法は、こうだ」


 そう前置きして、先輩は箇条書きで説明をはじめる。


「まず、水道水のカルキを抜かずに卵を洗浄して、薬浴。

 次の日から、孵化するまではカルキを抜いた水道水で管理する」


「最初、カルキ抜かないんですか!?」


「抜かない。

 その代わり、一日に二回は全換水。面倒だけどな」


「でも、カルキで卵、ダメになっちゃったりしないんですか?」


「アベニーパファーの卵の殻はフィルターになっている。

 酸素は通すけど、カルキは通さない。薬もな」


「……知りませんでした。ネットにも書いてませんよ、そんなこと」


「だろ?」


 さらっと言いながら、凛先輩はメモを私のほうへ滑らせる。


「……以上。

 これで、しばらくは教えなくても大丈夫だろ?」


「ありがとうございます。すごく勉強になりました」


 本心からそう言うと、胸の奥にじんわりと熱が広がった。


 自分のために、ここまで詳しく、時間をかけて教えてくれている。

 その事実が、たまらなく嬉しい。


「じゃあ、夕飯の支度するね」


「わ、私も何か手伝います!」


 思わず立ち上がると、凛先輩は小さく首を横に振った。


「大丈夫。ふくは座ってて」


「でも――」


「ゲストに台所立たせたら、うちの親に怒られる」


 冗談とも本気ともつかない声でそう言って、先輩はするりと台所へ向かう。


 言われるまま、私はダイニングの椅子に腰を下ろした。

 少し離れた場所から、凛先輩の背中を眺めることになる。


 エプロンを手に取る仕草は、意外なほど自然だった。

 慣れた手つきで紐を腰で結ぶ。その所作が、妙に板についている。


 トントントン、と包丁がまな板を叩くリズム。

 出汁の香りが、冷え切っていた広い家にふわりと広がっていく。


 焼き魚、だし巻き卵、ほうれん草のおひたし。

 手際よく並べられていくおかずを、私はただ黙って、後ろから見つめていた。


「……どうぞ」


 器を両手でそっと扱い、湯気が立つ味噌汁を私の前に置く。

 箸先を揃え、茶碗を丁寧に配膳するその指先には、どこか慎ましやかで女性的な細やかさが漂っていた。


 ふと、胸の奥がじんわりと熱くなる。

 湯気の向こうで、無表情な横顔が――ほんの一瞬だけ柔らかく見えた気がした。


 けれど、料理を並べ終えて「いただきます」と手を合わせた凛先輩は――

 やっぱり、どこか寂しそうだった。


 美味しい。すごく美味しいのに。

 この完璧な「家庭の味」が、逆にこの家の「家族の不在」を浮き彫りにしているようで。


(凛先輩……ずっと、一人でこれ作って食べてたんだ)


 喉の奥につかえた温かいものが、飲み込むのをためらわせた。


 * * *


 食事が終わって、凛先輩が食器を片付けているあいだに、

 私は自分のスマホを取り出した。


「すみません、今から帰るってお母さんに連絡しますね」


「そうだね。随分遅くなったし、送るよ」


 通話ボタンを押すと、数秒で繋がった。


「もしもし、今どこ?」

「まだ凛先輩の家。ご飯ごちそうになっちゃって」

「あら、よかったじゃない。ちゃんと家族の人にお礼言っときなさいよ」

「それが……凛先輩、いつも一人みたいで」

「へえ、そうなんだ。……そうだ、今帰ってきても八時回るでしょ?」


 その声色で、なんとなく察する。


「明日休みなんだから、泊まったら? 凛さんちに」


「えええっ!? いいの!?」


 思わず大きな声が出た。

 キッチンで皿を拭いていた凛先輩が振り向く。


「ふく、どうした?」


「お、お母さんが……その……

 夜道危ないし、迷惑じゃなかったら泊めてもらいなさいって」


 私はスマホを口元に当てたまま、

 視線だけで凛先輩に問いかけた。


 凛先輩は――ほんの一瞬だけ目を見開いた。

 けれどすぐに伏せて、静かに言った。


「……俺は、いいよ」


 その“間”が、妙に長く感じた。


「ほ、ほんとですか……?」


「うん。ふくが嫌じゃなければ」


 その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 でも同時に、鼓動がひとつだけ強く打って、耳まで熱くなった。


(泊まっちゃうの……凛先輩の家に……?

 寝るときまで一緒にいて……同じ部屋の布団で……?)


 広い家の静けさが、急に違う意味を持ち始める。

 “二人きりの夜”――その言葉が頭の中でぐるぐる回って、落ち着かない。


 唇が震えるのを隠せないまま、小さく答えた。


「……じゃあ、お泊まり……します」


 その瞬間、

 凛先輩の顔が明るくなった。


 気のせいかもしれないけど。

 でも――ほんの一瞬、“嬉しそう”に見えた。


 胸の奥が、じんわりと熱くなる。

 心臓の音が、ばれそうなほど響いていた。

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