表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ふくとアクア部の日常  作者: たんすい
サテライトの向こう側
44/63

青い卵パンと、久しぶりの笑顔

 家に帰ると、制服を脱ぐより先に、私はスマホを開いた。

 今日、生まれたばかりの――オレンジ色のしましまの、小さな命。


「お母さん! 見て見て!」


 息が弾みすぎて、言葉のほうが追いつかない。

 画面いっぱいに映る稚魚を見て、お母さんは目を丸くした。


「まあ、彩花、これ、まめとあべの! 生まれたのね」


「うん、今日! 私が孵化させたんだよ」


 胸の奥がまだドキドキしている。

 生まれた瞬間の震えまで、まだ肌に残っている気がした。


「おめでとう、彩花! ちゃんと部活頑張ってるのね」


 私はスマホを胸元に抱え込み、お母さんの耳元へそっと顔を寄せた。


「あのね。それでお願いしたいことがあるの」


 小さく、小さく。

 でも、ちゃんと届くように。


 お母さんは驚いたように瞬きをして、

 やがて――にっこりと微笑んだ。


「任せなさい」


* * *


 翌日の昼休み。

 私は紙袋を大事に抱えて、二年生の教室へ向かった。

 心臓が早鐘を打っている。


 凛先輩は、窓際で静かにノートを閉じていた。


「凛先輩!」


 呼んだ声が少し上ずった。

 でも、もう止められなかった。


「お、来たな。 ということは」


「生まれました! アベとマメの卵、孵化したんです!」


 凛先輩の翡翠色の瞳が、ほんのわずかに揺れた。


「何匹孵化した?」


「8匹、4個はダメでした。」


「すごいじゃないか

 で、卵の管理は? どうやった?」


「親を海月先輩の水槽に移して、卵だけで管理しました」


「気づいたんだな。でも、海月は災難だったな」


 凛先輩がくすっと笑う。

 その笑みを見ただけで、胸が少し軽くなる。


「はい、水草齧るって嫌がってました」


「あの、それで……」


 心臓が、また早足になった。


「先輩に渡したいものがあるんです」


「俺に?」


 前回の“拒絶”が脳裏をよぎったのだろう。

 凛先輩は一瞬だけ身じろぎした。

 でも、逃げない。


 ゆっくりと差し出す。

 小さな、紙袋。


「受け取ってください。孵化の記念と、教えてくれたお礼です。」


 凛先輩は固まった。

 手が止まり、まつ毛がわずか震える。


「ありがとう、福原さん。そんなに気を使わなくたって……」


 先輩の指が、そっと紙袋の口を開く


 ――沈黙。


 オレンジの縞々の“稚魚パン”。

 飴色の“卵パン”。

 そして“淡い青の丸いパン”。


 凛先輩は、完全に言葉を失っていた。


「あ……」


 その表情は、喜びと、悲しみと、後悔と、驚きが全部混ざっていて。


「前回はごめん。受け取れなくて」


 小さな声。

 初めて聞く、“弱い”凛先輩の声。


「……私のほうこそ」


 息をひとつ吸って。


「もらう。ありがとう、ふく」


(え? 今ふくって呼んだ?)


「え? あの?」


「食べていい?」


「あ、はい どうぞ」


ミルクティーのペットボトルを取り出す。


「ところで、オレンジのしましまパンはアベニーの仔魚

 丸い飴色は卵? この青い丸いパンは?」


「あ、それメチレンブルーで真っ青になった卵です」


 その瞬間だった。


 凛先輩が持っていたミルクティーを――

 喉の奥で止めた。


「……っぶ……!」


 吹き出す寸前で手で押さえ込み、

 肩がびくんと跳ねる。


「せ、先輩!? だ、大丈夫ですか!?」


 私が慌てて背中をさすると、

 凛先輩は――


「っ、は……ははっ……あはは……っ!」


 笑った。


 笑っている……!?


 驚きすぎて、私の手が止まった。


「っ……あははっ……青……卵……! お前……っ、あれをパンに……! うそ……だろ……っ」


 机に額をつけて笑い転げる凛先輩なんて、

 想像したこともなかった。


 いつも冷静で、落ち着いていて、

 どんな時も淡々としている人が――


「っふ……ったく……お前……っ、ほんとに……はははっ……!」


 笑いすぎて涙をにじませ、

 息を整えようとしては、また笑いが弾ける。


 私はただ、ただ嬉しかった。


(先輩……こんな声で笑うんだ……)


 胸の奥が、じんわりと熱くなる。

 なんだか泣きそうだ。


 きっと――

 こんなふうに笑うのは、久しぶりなんだろうな


 サリバトールを失ったあの日から、

 ずっと心のどこかが止まったままだったのだと思う。


 「ごめん、ちょっと」

 凛先輩は机に額を押し当て、肩を震わせた。

 押し殺した笑い声が漏れて、また弾ける。


 息を整えようとするたび、青いパンが目に入り、また笑いの波が押し寄せてくる。

 その繰り返しがしばらく続いた。


 やっと呼吸が落ち着いてきた頃。

 凛先輩は目元を指でそっと拭った。

 その仕草があまりにも柔らかくて、胸の奥で波がふわっと揺れた。


(先輩やっぱりきれいだな)


「ごめん。こんなに笑ったの……ひさしぶり」


 その声は、ほのかに震えていた。

 嬉しさと、戸惑いと、どこか寂しさが混ざった声。


 私の胸がきゅっと締めつけられる。


「先輩ってそんなに笑うんですね」


 そう言うと、凛先輩は目を伏せたまま

 ほんの少し――口元を緩めた。


「ありがとな、ふく」


 その瞬間、凛先輩ははっとしたように視線をそらし、

 細い指先をそっと首筋へ添えた。

 ふくを見るその横顔のまつ毛が、かすかに震えている。


(先輩、そんなふうに照れるんだ……)


「今、ふくって呼びましたよね?」


 凛先輩の肩が、びくっとわずかに揺れた。


「……あ」


 先輩は視線をそらし、耳の先までほんのり赤くなる。


「い、いや、これはその……呼びやすいかなって

 海月もそう呼んでいるみたいだし」


 私は小さく笑ってしまった。


「はい。嬉しかったです。 凛先輩にもそう呼んで欲しいです」


 言ってから、自分のほうが恥ずかしくなってきた。

 胸の奥が、ほんのり熱い。


 凛先輩はしばし沈黙したまま、

 そして――ゆっくりと息を吐いた。


「じゃあ、これからは……そう呼ばせてもらう」


 優しい声だった。

 大切なものを確かめるみたいに。


「はい」


 その一言が、

 私たちの間の空気を、すこし変えた気がした。


 昼休みのざわめきの中で、

 ほんの小さな、でも確かな“特別”が生まれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ