表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ふくとアクア部の日常  作者: たんすい
サテライトの向こう側
43/63

ガラスの中の宇宙と、始まりのしっぽ

息をするのも、忘れていたかもしれない。


 早朝の部室。

 世界にはまだ誰も起きていないような淡い静けさの中で、私は水槽に設置された卵の入った隔離ケースを覗き込んでいた。


 昨日までオレンジ色に透き通っていた卵の色が、今朝、はっきりと変わっていた。

 アメ色に濃くなり、その中央で――小さな何かが脈を打っている。


(……心臓だ)


 間違いなく、心臓。

 昨日まではただの「粒」だった命が、鼓動を打ち、血液を送り、生きようとしている。


 ルーペ越しの世界は、まるで宇宙で産まれたばかりの惑星を覗き込んでいるようで、どこまでも静かだった。


「孵化しそう?」


 背後から、海月先輩の囁くような声。

 いつ来たのかまったく分からなかった。先輩もまた、気配を消して私の隣に立っていた。


「まだ、です。でも……ちゃんと動いてるんです。心臓が」


「そんなのまで見えるんだ。」


 先輩は軽く目を細め、私の肩越しにそっと顔を寄せた。

 二人の視線は、直径一ミリちょっとの小さな“星”に吸い寄せられる。


 透明な殻の向こう側で、ひとつの命が確かに動いていた。

 そのたった一点の鼓動が、静まり返った部室全体に、ぽつりとあたたかさを落とす。


 呼吸を忘れたのは、きっと――私だけじゃなかった。


 ――チャイムが鳴りそう。


 腕時計を見て、私は思わず口を尖らせた。

 今にも生まれそうなのに……。


「ふく、時間切れだ。もう1限目行かないと」


 私は恨めしくルーペを置いた。


「先輩、孵化、見れませんでした……」


「こればかりは仕方ないよ」

 海月先輩は肩をすくめ、でも優しい声で続けた。

「九個も残ってるんだ。放課後まで待ってくれる卵も、きっとある」


「うぅ、授業サボりたいです」


「ダメだ」


 即答。ですよね〜〜〜っ!!


「ほら、行け。昼休みにまた覗きに来たらいいだろ」


「はい」


 名残惜しく水槽に手を振って、私は教室へ向かった。


 一限目が始まる前、私は隣の席の楓ちゃんにそっと話しかけた。


「ねえ、聞いて。今日ね、アベとマメの卵、孵化しそうなんだ!」


「え、マジ? 生まれる瞬間って見れるの?」


「見れるかもしれない……! 心臓、動いてたし!」


「昼休み、アクア部行く」


 返事が速い。

 でも、なんだかんだ言って楓ちゃん、こういうの好きだよね。


 そして――昼休み。


 私はお弁当をほとんど飲み込む勢いで食べきり、楓ちゃんを引っ張って部室へ駆けた。


「ふく、そんな急がなくても卵逃げないって」


「逃げるんじゃないよ! 急がないと孵化してしまうんだよ。 はやく!」


「はいはい」


 部室の前に着くと――。


「お、来たか二人とも」


 すでに海月先輩が、隔離ケースの横でしゃがみこんでいた。


 まさかの三人集合。


(え、なんか急に“ちゃんとした部活”みたいになってきた!?)


「楓ちゃん、もう入部しちゃいなよ」


「嫌」


 即答。精髄反射で拒否。

 でも、その頬のゆるみ方……絶対楽しんでるでしょ。


 隔離ケースの中では、卵たちが微かに揺れていた。

 アメ色の殻の奥で、命が小さくノックしている。


「ほら、見て。動いてる」


「わ、ほんとだ! ちょっと鳥肌立つ……けど、なんかすごい」


「静かに。今が一番大事なときだ」


 海月先輩の声が低く響いた瞬間、空気が一段締まった。

 昼休みの喧騒なんて、ここにはひと欠片も届かない。


 三人で息を潜めて――小さな世界を、ただ見守る。


 殻に閉じ込められたひとつの命が、今まさに外へ踏み出そうとしている。


「もうすぐだな」


 先輩が呟いた。


 そのたった一言が、私の胸の奥をぎゅっと掴んでくる。

 卵の鼓動と、自分の鼓動が同じリズムで跳ねている気がした。


(がんばれ)


 思わず心の中で声が漏れる。


 その瞬間だった。


 ピクッ。


 一番右の卵が震えた。


「あっ」


 楓ちゃんの声が漏れる。


 ピクッ、プルンッ。さらに揺れる。

 震えは次第に大きくなる――まるで「ここにいるよ」と言わんばかりに。


 内側から殻を押し、押し、それでも押し足りなくて。

 たった一ミリの世界で、小さな命が必死に出口を探している。


(え、え、え!? これ、今まさに生まれようとしてる!?

 やばい、心臓バクバクする!)


 そして――プルンッ!


 膜が弾けるみたいに破れた。

 ほそい“しっぽ”が水を切るように動き、透明の世界へ飛び出す。


「生まれた!」


「すごっ!」 


「ちっちゃ! でも動いてる!」


 三人の声が重なって、部室の空気が一気に熱を帯びる。


 頭でっかちで、ヨークサック(栄養袋)をぶら下げて。

 オレンジと透明のスプライト模様。

 魚というよりオタマジャクシみたい。

 でも――めちゃくちゃ可愛い。


「親と全然模様違うよね」

 楓ちゃんがぽつりと呟いた。


「赤ちゃんのほうが、可愛い」


その言葉に、私は思わず大きくうなずいた。

「うんうん、オレンジの縞々模様できれいで可愛いね」


水槽の中で尾を振る小さな命は、まるで私たちの同意を喜んでいるみたいに泳ぎ回った。


――その時。


隣の卵が、ふるりと震えた。


「えっ、もう次!?」

 楓ちゃんが思わず声を上げる。


そして――プルンッ!

もうひとつ、プルンッ!

まるでポップコーンのように卵が弾ける。


「連続で生まれるとか、反則だよ」

楓ちゃんが呟き、私は笑いながら大きくうなずいた。


 私は思わず、息を呑んだ。


(こうやって誕生するんだ)


 胸の奥が、じんわり熱くなる。


 昨日の涙とは違う。

 今日は――嬉しくて、誇らしくて、震えるような涙だ。


「海月先輩、楓ちゃん、やったよ! ちゃんと孵化したよ!」


「ああ。すごいな、ふく」


「ちょっと感動したかな?」


 ふっと優しく笑った海月先輩が、私の頭にポンと手を置いた。


 その温かさが、目の前の命の鼓動と重なって、胸いっぱいに広がっていく。


(凛先輩に、伝えなきゃ)


 稚魚が、水の中でピコピコと小さく尾を振った。

 それはまるで――


「早く行ってこい」


 そう言ってくれているみたいだった。


 凛先輩に、伝えなきゃ。


 そう思って、一歩踏み出した――はずだった。


 でも、


 足が止まった。


「ふく? 行かないの?」

 海月先輩が不思議そうに首を傾げる。


「えっ……う……ん……」


 言いかけて、喉がつまった。


「どうしたの?」

 楓ちゃんが心配そうに覗き込む。


「今日は、やめとく……」

 自分でも驚くくらい小さな声だった。


「ふくらしくないな、いったいどうした?」

 海月先輩の声が、少し低く、優しく響く。


 孵化した嬉しさは変わらない。

 凛先輩に報告したい。

 ちゃんと伝えたい。


 それなのに――。


(伝えるだけじゃ、足りない)


 胸の奥で、もうひとつの答えが閃いた。


 私がやらなきゃいけないこと。

 それをしない限り、凛先輩の心は動かない。


 でも、それが何なのかは、まだ形にならない。


 ただ、確かに――「もうひとつ」がある。


――続く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ