ガラスの中の宇宙と、始まりのしっぽ
息をするのも、忘れていたかもしれない。
早朝の部室。
世界にはまだ誰も起きていないような淡い静けさの中で、私は水槽に設置された卵の入った隔離ケースを覗き込んでいた。
昨日までオレンジ色に透き通っていた卵の色が、今朝、はっきりと変わっていた。
アメ色に濃くなり、その中央で――小さな何かが脈を打っている。
(……心臓だ)
間違いなく、心臓。
昨日まではただの「粒」だった命が、鼓動を打ち、血液を送り、生きようとしている。
ルーペ越しの世界は、まるで宇宙で産まれたばかりの惑星を覗き込んでいるようで、どこまでも静かだった。
「孵化しそう?」
背後から、海月先輩の囁くような声。
いつ来たのかまったく分からなかった。先輩もまた、気配を消して私の隣に立っていた。
「まだ、です。でも……ちゃんと動いてるんです。心臓が」
「そんなのまで見えるんだ。」
先輩は軽く目を細め、私の肩越しにそっと顔を寄せた。
二人の視線は、直径一ミリちょっとの小さな“星”に吸い寄せられる。
透明な殻の向こう側で、ひとつの命が確かに動いていた。
そのたった一点の鼓動が、静まり返った部室全体に、ぽつりとあたたかさを落とす。
呼吸を忘れたのは、きっと――私だけじゃなかった。
――チャイムが鳴りそう。
腕時計を見て、私は思わず口を尖らせた。
今にも生まれそうなのに……。
「ふく、時間切れだ。もう1限目行かないと」
私は恨めしくルーペを置いた。
「先輩、孵化、見れませんでした……」
「こればかりは仕方ないよ」
海月先輩は肩をすくめ、でも優しい声で続けた。
「九個も残ってるんだ。放課後まで待ってくれる卵も、きっとある」
「うぅ、授業サボりたいです」
「ダメだ」
即答。ですよね〜〜〜っ!!
「ほら、行け。昼休みにまた覗きに来たらいいだろ」
「はい」
名残惜しく水槽に手を振って、私は教室へ向かった。
一限目が始まる前、私は隣の席の楓ちゃんにそっと話しかけた。
「ねえ、聞いて。今日ね、アベとマメの卵、孵化しそうなんだ!」
「え、マジ? 生まれる瞬間って見れるの?」
「見れるかもしれない……! 心臓、動いてたし!」
「昼休み、アクア部行く」
返事が速い。
でも、なんだかんだ言って楓ちゃん、こういうの好きだよね。
そして――昼休み。
私はお弁当をほとんど飲み込む勢いで食べきり、楓ちゃんを引っ張って部室へ駆けた。
「ふく、そんな急がなくても卵逃げないって」
「逃げるんじゃないよ! 急がないと孵化してしまうんだよ。 はやく!」
「はいはい」
部室の前に着くと――。
「お、来たか二人とも」
すでに海月先輩が、隔離ケースの横でしゃがみこんでいた。
まさかの三人集合。
(え、なんか急に“ちゃんとした部活”みたいになってきた!?)
「楓ちゃん、もう入部しちゃいなよ」
「嫌」
即答。精髄反射で拒否。
でも、その頬のゆるみ方……絶対楽しんでるでしょ。
隔離ケースの中では、卵たちが微かに揺れていた。
アメ色の殻の奥で、命が小さくノックしている。
「ほら、見て。動いてる」
「わ、ほんとだ! ちょっと鳥肌立つ……けど、なんかすごい」
「静かに。今が一番大事なときだ」
海月先輩の声が低く響いた瞬間、空気が一段締まった。
昼休みの喧騒なんて、ここにはひと欠片も届かない。
三人で息を潜めて――小さな世界を、ただ見守る。
殻に閉じ込められたひとつの命が、今まさに外へ踏み出そうとしている。
「もうすぐだな」
先輩が呟いた。
そのたった一言が、私の胸の奥をぎゅっと掴んでくる。
卵の鼓動と、自分の鼓動が同じリズムで跳ねている気がした。
(がんばれ)
思わず心の中で声が漏れる。
その瞬間だった。
ピクッ。
一番右の卵が震えた。
「あっ」
楓ちゃんの声が漏れる。
ピクッ、プルンッ。さらに揺れる。
震えは次第に大きくなる――まるで「ここにいるよ」と言わんばかりに。
内側から殻を押し、押し、それでも押し足りなくて。
たった一ミリの世界で、小さな命が必死に出口を探している。
(え、え、え!? これ、今まさに生まれようとしてる!?
やばい、心臓バクバクする!)
そして――プルンッ!
膜が弾けるみたいに破れた。
ほそい“しっぽ”が水を切るように動き、透明の世界へ飛び出す。
「生まれた!」
「すごっ!」
「ちっちゃ! でも動いてる!」
三人の声が重なって、部室の空気が一気に熱を帯びる。
頭でっかちで、ヨークサック(栄養袋)をぶら下げて。
オレンジと透明のスプライト模様。
魚というよりオタマジャクシみたい。
でも――めちゃくちゃ可愛い。
「親と全然模様違うよね」
楓ちゃんがぽつりと呟いた。
「赤ちゃんのほうが、可愛い」
その言葉に、私は思わず大きくうなずいた。
「うんうん、オレンジの縞々模様できれいで可愛いね」
水槽の中で尾を振る小さな命は、まるで私たちの同意を喜んでいるみたいに泳ぎ回った。
――その時。
隣の卵が、ふるりと震えた。
「えっ、もう次!?」
楓ちゃんが思わず声を上げる。
そして――プルンッ!
もうひとつ、プルンッ!
まるでポップコーンのように卵が弾ける。
「連続で生まれるとか、反則だよ」
楓ちゃんが呟き、私は笑いながら大きくうなずいた。
私は思わず、息を呑んだ。
(こうやって誕生するんだ)
胸の奥が、じんわり熱くなる。
昨日の涙とは違う。
今日は――嬉しくて、誇らしくて、震えるような涙だ。
「海月先輩、楓ちゃん、やったよ! ちゃんと孵化したよ!」
「ああ。すごいな、ふく」
「ちょっと感動したかな?」
ふっと優しく笑った海月先輩が、私の頭にポンと手を置いた。
その温かさが、目の前の命の鼓動と重なって、胸いっぱいに広がっていく。
(凛先輩に、伝えなきゃ)
稚魚が、水の中でピコピコと小さく尾を振った。
それはまるで――
「早く行ってこい」
そう言ってくれているみたいだった。
凛先輩に、伝えなきゃ。
そう思って、一歩踏み出した――はずだった。
でも、
足が止まった。
「ふく? 行かないの?」
海月先輩が不思議そうに首を傾げる。
「えっ……う……ん……」
言いかけて、喉がつまった。
「どうしたの?」
楓ちゃんが心配そうに覗き込む。
「今日は、やめとく……」
自分でも驚くくらい小さな声だった。
「ふくらしくないな、いったいどうした?」
海月先輩の声が、少し低く、優しく響く。
孵化した嬉しさは変わらない。
凛先輩に報告したい。
ちゃんと伝えたい。
それなのに――。
(伝えるだけじゃ、足りない)
胸の奥で、もうひとつの答えが閃いた。
私がやらなきゃいけないこと。
それをしない限り、凛先輩の心は動かない。
でも、それが何なのかは、まだ形にならない。
ただ、確かに――「もうひとつ」がある。
――続く。




