ベーカリーの夜と、先輩の素顔
「ただいまー、お母さん。今日はお客さんと一緒!」
「おかえり。あら? お友達?」
「凛先輩です」
「あら、あなたが凛さん」
「は、はじめまして。こ、こんばんは」
私はお母さんに駆け寄り、小声で囁く。
「サリバパンのこと、今は黙っててね」
「はいはい、わかりました」
ほっとして凛先輩に向き直る。
「凛先輩、飲み物は何にします? コーヒー? 紅茶?」
「コーヒー。ブラックで」
「えーっ、よく苦いの飲めますね」
「うるさい。福原さんがお子様なだけ」
「お母さん、オレンジジュースとコーヒーブラックで!」
注文を伝えると、凛先輩はふと真面目な表情になった。
小さなテーブル越しに身を寄せ、私だけに聞こえる声で話しかけてくる。
「アベニーの卵の管理だけど」
「あ、そうでした。メモメモ!」
私は急いでノートを開いた。
「管理方法は一つじゃない。
さっき私がやったのは、みんながよくやる主流な方法だ」
「確か……欠点があるって言ってましたよね?」
「そう。親と一緒に入れてるだろ。
その親には毎日餌をやる。で、糞もする。わかるか?」
「え? 当たり前のことじゃ……」
「当たり前だけど――水が汚れる。
水の汚れは、卵がカビる率と比例するんだ」
「え!? あべとまめはそれで元気なのに!?」
「卵は繊細なんだよ。
大自然の川は常に水が入れ替わってるけど、
飼育下の“数十リットル”とはスケールが違う」
「そこまで考えてませんでした……」
「まあ、そこまでシビアに考える必要はない。
この方法でも孵化する卵は多い。
ただ――カビる卵も、どうしても出てしまう」
「うーん。できれば一個でも多く孵化させたいです!」
「まずは自分でいろいろ試してみることだな。
試行錯誤して、失敗して、また考えて……
そうやって、やっと自分のものになるんだから」
言葉は少し厳しい。
でも、その声はどこか優しかった。
(もしかして、私を試してるのかな?)
そのとき、お母さんがトレイを持ってきた。
「はい、お待たせ。コーヒーとオレンジジュースね。
それと、新作パン。よかったら食べてみて」
「美味しそう! これはスグリとバナナとアーモンドスライス……
この香りはキャラメルソースだ!」
「よく気づいたわね。味見してほしくて。凛さんもどうぞ」
凛先輩はわずかに目を丸くする。
「あ、ありがとうございます。いただきます」
パンが運ばれてくると、先輩はそっと手を上げ、
黒いフードをゆっくりと持ち上げた。
フードの中から現れた髪は、照明を受けてさらりと落ちる。
肩のラインでまっすぐ揃った、艶やかな黒。
(……綺麗な髪。触ったら、どんな感触なんだろ)
そんな考えが浮かんで、慌てて心の中でかき消す。
「……何?」
視線に気づいたのか、凛先輩が少し眉を寄せた。
「い、いえ……髪、綺麗だなって。
フード被ってたら勿体ないです」
言った途端、顔が熱くなる。
凛先輩もわずかに目をそらし、耳の先を赤く染めた。
「うるさい。パン食べるぞ」
言い方はそっけないのに、
パンへ手を伸ばす仕草は少しぎこちなくて――
その不器用さに、胸の奥がまたじんわりと温かくなった。
「その赤いの、何?」
凛先輩が私のパンを指さす。
「スグリですよ。甘酸っぱくて美味しいんです」
「私の方には、のってない……」
「よかったら、どうですか? 半分こしましょうか」
私はスグリの乗った欠片を差し出した。
先輩は迷いながらも口を開ける。
赤い粒が先輩の口の中で弾ける。
「ん、すっぱい」
漏れた声に、思わずくすっと笑う。
「悪くないな」
「それがスグリです。クセになるんですよ」
凛先輩は残りのパンをひと口かじり、ふっと目を細めた。
その表情は、さっきよりずっと柔らかかった。
「でも、孵化の方法なんて一つだけかと思ってました」
場が和んだところで、私は話題を戻す。
「究極の方法だと、孵化率ほぼ百パーセントってのもあるぞ」
「ひゃ、ひゃく!?」
「福原さんがどこまでやれるか、だな」
「やります! やるからには百パー目指します!」
「まあ、頑張って。無理だと思うけど」
「そんな意地悪言わないでくださいよ」
「じゃあ、“あの方法”の話は、卵が孵化したときにでも」
「“あの方法”って、何ですか?」
凛先輩は答えず、ただコーヒーを口に運んだ。
その横顔はどこか楽しげで、秘密を隠しているようだった。
(“あの方法”――絶対に聞く。
そしてまた、先輩と話したい)
「ごちそうさま」
カップを置いた凛先輩は、そっと席を立った。
「もう帰るよ。色々教えたしな」
「今日は本当にありがとうございます。わざわざ来てくださって」
「福原さんに騙されて連れてこられたんだけどな」
「そうでしたね。でもパン、美味しかったでしょ」
ぼそっと、小さな声で。
「美味しかった」
その言い方が少し照れているようで、
私は胸の奥がじんわり温かくなった。
「お母さん。先輩をお見送りしてきます!」
「気をつけて。凛さん、今日はありがとうね」
「え、あ、こちらこそ。ごちそうさまでした」
エプロン姿のお母さんに軽く会釈して、
凛先輩は少し緊張したように店の外へ出た。
夕暮れはもう終わり、街灯がほんのりと歩道を照らしている。
パンの匂いを残した店のドアが閉まると、ふいに静けさが降りた。
――ふたりだけの帰り道。
歩幅を合わせながら歩き、店の角を曲がったところで、
凛先輩が立ち止まった。
「じゃあ、ここで」
街灯の下で揺れる黒髪。
店内で見たときよりも、どこか表情が柔らかい。
「今日は、ごちそうさま。卵、採れてよかったな」
「はいっ! まさか先輩の来てくれた日に……奇跡みたいです」
「明日から大変だぞ。管理、ちゃんとやれよ」
「はい。頑張ります。
“あの方法”のことも、気になりますけど」
ちょっとだけ身を寄せると、
凛先輩は目をそらしながら、小さく息を吐いた。
「だから。孵化したら、教えるって言っただろ」
その声は、意外なほど優しかった。
「楽しみに、してていいですか?」
「別に。勝手に期待してれば?」
言葉はそっけないのに、
街灯の光に照らされた横顔は、ほんの少し赤かった。
私の胸が、ふわっと熱くなる。
「じゃあ、また明日。気をつけて帰れよ」
「はい。先輩も!」
凛先輩は背中を向け、黒いフードをかぶり直す。
けれど最後の一歩だけ、振り返って目が合った。
そして、ほんの一言だけ。
「さよなら、福原さん」
その声が夜の空気にほどけるように消えていき、
先輩の影はゆっくりと夜道へ溶けていった。
家に帰ると、パンの香りがまだ残っていた。
「おかえり、彩花。凛さん、いい人ね」
「はい。すごく、優しい人です」
その瞬間、今日の出来事が一気によみがえった。
奇跡みたいな産卵、運命みたいな出会い。
全部が胸の奥で静かに繋がっていく。
(――また、会いたい)




