小さな命との出会い
夕焼けに染まる学校の門を、二人で出た。
駅前のバス停から、ごとごとと心地よいリズムで揺れる路線バスに乗る。
窓の外を流れていく景色をぼんやり眺めているうちに、十分ほどで目的のショップがある、どこか懐かしい雰囲気の小さな商店街に到着した。
手作りの温かみが感じられる看板や、店先を彩るディスプレイ。
それらはまるで、新しい物語の入り口のように、私をきらめく未知の世界へと誘っているみたいだった。
アクアショップの扉を開けると、無数の水槽が目に飛び込んできた。
店内に満ちる優しい水の音は、心を洗い流してくれるヒーリングミュージックのようだ。
色鮮やかなグッピーが舞い、銀色のネオンテトラが光の軌跡を描く。
どれも息をのむほど綺麗だったけれど――
「俺は水草を買ってくるから、ゆっくり見てていいぞ」
海月先輩はそう言うと、店の奥へと歩いていった。
一人になった私は、わくわくしながら店内を見て回る。
エンゼルフィッシュの優雅な泳ぎ。
コリドラスの愛らしい仕草。
見るもの全てが新鮮で、時間を忘れそうになる。
そして――華やかな世界の片隅に置かれた、小さな水槽の前で、私の足が止まった。
そこには、黒いフードを深く被った人が、しゃがみ込んでいた。
水槽をじっと見つめるその姿は、あまりにも真剣で、何を見ているのか気になる。
私はそっと横から覗き込んだ。
――フグだ。
それも、小指ほどのちっちゃなフグ。
『アベニーパファー』
水槽の名札に、そう書かれていた。
大きさは指の先ほどしかない。
淡い黄色の体に、子供がいたずら描きしたような黒い斑点が散らばっている。
申し訳程度の小さなヒレを懸命にぱたぱたと動かす姿は、見ているだけで胸が締め付けられるほど愛おしかった。
どこか不器用で、一生懸命で、でも誰にも媚びずに悠々と浮かんでいる。
私がじっと見つめていると、フードの人が私の気配に気づいて、はっとした様子で顔を上げた。
「ごめん、気付かなかった」
低く、でも柔らかい声。
そして――女性の声だった。
「いえ、こちらこそ。見ていたのにごめんなさい」
彼女はゆっくりと立ち上がり、ためらうようにフードへ手をかける。
次の瞬間、長い黒髪がさらりとこぼれ落ち、ふわりと甘い香りが漂った。
(いい匂い。ローズ系?)
湿り気を帯びた店内の空気に、花の気配がそっと混じる。
整った顔立ち。澄んだ翡翠色の瞳。
どこか儚げな雰囲気を纏った、綺麗な人だった。
「フグですね。ここ、海の魚も売っているんですね」
私が水槽を指差すと、その人は首を横に振った。
「海じゃないよ。淡水のフグなんだ」
「え!? 淡水にフグなんているんですか? 知りませんでした」
「いるよ。アフリカ、東南アジア、南米……世界中に三十種類くらい」
その人の声には、フグへの愛情が滲んでいた。
まるで大切な友達を紹介するような、温かい響き。
「そんなに! フグって、もっと特別な魚だと思ってました」
「特別だよ。だからこそ、世界中にいるんだ」
その言葉に、胸が熱くなる。
「フグ買いに来たの?」
「それが、まだ決まってなくて。でも私、フグ飼いたいです」
「いいね。俺もフグ好きなんだ」
――俺?
一瞬、耳を疑った。
こんなに綺麗な人が、どうして「俺」なんて……?
でも、それ以上は聞けなかった。
その人の瞳に、どこか踏み込んではいけない何かを感じたから。
「あ、そうだ。連れに報告してきます。飼う熱帯魚決まったって!」
「うん」
その人は小さく頷き、また水槽に視線を戻した。
まるで、そこに自分だけの世界があるみたいに。
私は店内を駆け回り、ようやく水草コーナーで海月先輩を見つけた。
「先輩! 買う魚決まりました!」
「ん? 早かったな」
「小さくて可愛いフグです! アベニーパファーっていうんです!」
興奮のまま先輩の背中を押し、アベニーの水槽まで誘導する。
「先輩、見てください! こんなに小さくて可愛いフグがいるなんて!
私、この子がいいです! この子を飼いたいです!」
一息にまくし立てると、先輩は「おいおい、落ち着け」と私の肩を掴み、優しく制止した。
「水槽も何もないだろ。しっかり準備しないと、すぐに死んでしまうぞ。
今日は下見だけにしておけ」
“死んでしまう”――その言葉の重みに、火照っていた頭がすっと冷める。
この小さな命を、私の軽率さで危険に晒すわけにはいかない。
がっくりと肩を落とした私を見て、先輩は少し呆れたように、でも優しい声で言った。
「……ほら、部室に帰るぞ。そいつを迎える準備、しないとな」
「――はい!」
固く心に誓い、私たちは出口へと向かう。
その途中、ふと気づく。
――さっきの人が、いない。
アベニーの水槽の前に、誰もいなかった。
「どうした?」
「いえ、さっきまでここにフグに詳しい人がいて……」
その時だった。
店の入口近くに、黒いフードの人影が見えた。
帰ろうとしているのか、ドアに手をかけている。
「あ、あの人です!」
私が指差した瞬間。
先輩の足が、ぴたりと止まった。
「凛」
その声に、フードの背中がビクリと大きく震えた。
ゆっくりと、恐る恐る振り返る。
深く被ったフードの闇の中で、翡翠の瞳が驚愕に見開かれていた。
目が合った瞬間、その瞳が揺れる。
それは再会の喜びなんかじゃない。
見てはいけないものを見てしまったような――明確な「拒絶」の色。
「海月」
呻くように名前を呼ぶと、凛さんは弾かれたように背を向けた。
「……っ!」
何も言わず、ドアを乱暴に押し開けて外へと走り出す。
「あっ、待てよ凛!」
先輩が叫び、私の横を風のように駆け抜けていった。
(え……ええっ!?)
取り残された私は、呆然とその背中を見送るしかなかった。




