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ふくとアクア部の日常  作者: たんすい
第1章:しましまフグと始まりの泡
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小さな命との出会い

 夕焼けに染まる学校の門を、二人で出た。


 駅前のバス停から、ごとごとと心地よいリズムで揺れる路線バスに乗る。

 窓の外を流れていく景色をぼんやり眺めているうちに、十分ほどで目的のショップがある、どこか懐かしい雰囲気の小さな商店街に到着した。


 手作りの温かみが感じられる看板や、店先を彩るディスプレイ。

 それらはまるで、新しい物語の入り口のように、私をきらめく未知の世界へと誘っているみたいだった。


 アクアショップの扉を開けると、無数の水槽が目に飛び込んできた。

 店内に満ちる優しい水の音は、心を洗い流してくれるヒーリングミュージックのようだ。


 色鮮やかなグッピーが舞い、銀色のネオンテトラが光の軌跡を描く。

 どれも息をのむほど綺麗だったけれど――


「俺は水草を買ってくるから、ゆっくり見てていいぞ」


 海月先輩はそう言うと、店の奥へと歩いていった。


 一人になった私は、わくわくしながら店内を見て回る。

 エンゼルフィッシュの優雅な泳ぎ。

 コリドラスの愛らしい仕草。

 見るもの全てが新鮮で、時間を忘れそうになる。


 そして――華やかな世界の片隅に置かれた、小さな水槽の前で、私の足が止まった。


 そこには、黒いフードを深く被った人が、しゃがみ込んでいた。

 水槽をじっと見つめるその姿は、あまりにも真剣で、何を見ているのか気になる。


 私はそっと横から覗き込んだ。


 ――フグだ。


 それも、小指ほどのちっちゃなフグ。


『アベニーパファー』


 水槽の名札に、そう書かれていた。


 大きさは指の先ほどしかない。

 淡い黄色の体に、子供がいたずら描きしたような黒い斑点が散らばっている。

 申し訳程度の小さなヒレを懸命にぱたぱたと動かす姿は、見ているだけで胸が締め付けられるほど愛おしかった。


 どこか不器用で、一生懸命で、でも誰にも媚びずに悠々と浮かんでいる。


 私がじっと見つめていると、フードの人が私の気配に気づいて、はっとした様子で顔を上げた。


「ごめん、気付かなかった」


 低く、でも柔らかい声。

 そして――女性の声だった。


「いえ、こちらこそ。見ていたのにごめんなさい」


 彼女はゆっくりと立ち上がり、ためらうようにフードへ手をかける。

 次の瞬間、長い黒髪がさらりとこぼれ落ち、ふわりと甘い香りが漂った。


(いい匂い。ローズ系?)


 湿り気を帯びた店内の空気に、花の気配がそっと混じる。


 整った顔立ち。澄んだ翡翠色の瞳。

 どこか儚げな雰囲気を纏った、綺麗な人だった。


「フグですね。ここ、海の魚も売っているんですね」


 私が水槽を指差すと、その人は首を横に振った。


「海じゃないよ。淡水のフグなんだ」


「え!? 淡水にフグなんているんですか? 知りませんでした」


「いるよ。アフリカ、東南アジア、南米……世界中に三十種類くらい」


 その人の声には、フグへの愛情が滲んでいた。

 まるで大切な友達を紹介するような、温かい響き。


「そんなに! フグって、もっと特別な魚だと思ってました」


「特別だよ。だからこそ、世界中にいるんだ」


 その言葉に、胸が熱くなる。


「フグ買いに来たの?」


「それが、まだ決まってなくて。でも私、フグ飼いたいです」


「いいね。俺もフグ好きなんだ」


 ――俺?


 一瞬、耳を疑った。

 こんなに綺麗な人が、どうして「俺」なんて……?


 でも、それ以上は聞けなかった。

 その人の瞳に、どこか踏み込んではいけない何かを感じたから。


「あ、そうだ。連れに報告してきます。飼う熱帯魚決まったって!」


「うん」


 その人は小さく頷き、また水槽に視線を戻した。

 まるで、そこに自分だけの世界があるみたいに。


 私は店内を駆け回り、ようやく水草コーナーで海月先輩を見つけた。


「先輩! 買う魚決まりました!」


「ん? 早かったな」


「小さくて可愛いフグです! アベニーパファーっていうんです!」


 興奮のまま先輩の背中を押し、アベニーの水槽まで誘導する。


「先輩、見てください! こんなに小さくて可愛いフグがいるなんて!

 私、この子がいいです! この子を飼いたいです!」


 一息にまくし立てると、先輩は「おいおい、落ち着け」と私の肩を掴み、優しく制止した。


「水槽も何もないだろ。しっかり準備しないと、すぐに死んでしまうぞ。

 今日は下見だけにしておけ」


 “死んでしまう”――その言葉の重みに、火照っていた頭がすっと冷める。


 この小さな命を、私の軽率さで危険に晒すわけにはいかない。


 がっくりと肩を落とした私を見て、先輩は少し呆れたように、でも優しい声で言った。


「……ほら、部室に帰るぞ。そいつを迎える準備、しないとな」


「――はい!」


 固く心に誓い、私たちは出口へと向かう。


 その途中、ふと気づく。


 ――さっきの人が、いない。


 アベニーの水槽の前に、誰もいなかった。


「どうした?」


「いえ、さっきまでここにフグに詳しい人がいて……」


 その時だった。


 店の入口近くに、黒いフードの人影が見えた。

 帰ろうとしているのか、ドアに手をかけている。


「あ、あの人です!」


 私が指差した瞬間。


 先輩の足が、ぴたりと止まった。


「凛」


 その声に、フードの背中がビクリと大きく震えた。


 ゆっくりと、恐る恐る振り返る。


 深く被ったフードの闇の中で、翡翠の瞳が驚愕に見開かれていた。


 目が合った瞬間、その瞳が揺れる。


 それは再会の喜びなんかじゃない。

 見てはいけないものを見てしまったような――明確な「拒絶」の色。


海月くらげ


呻くように名前を呼ぶと、凛さんは弾かれたように背を向けた。


「……っ!」


 何も言わず、ドアを乱暴に押し開けて外へと走り出す。


「あっ、待てよ凛!」


 先輩が叫び、私の横を風のように駆け抜けていった。


(え……ええっ!?)


 取り残された私は、呆然とその背中を見送るしかなかった。

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