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ふくとアクア部の日常  作者: たんすい
第5章:拳一つ半の距離
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奇跡の産卵と、帰り道の約束

 部室の扉を開けた瞬間、私も凛先輩も、同時に息をのんだ。


 水槽の中で、あべとまめが求愛の儀式を始めようとしていた。

 体をやわらかく突き合わせ、寄り添うようにゆらめく。


 その動きは強く、そして優しい。

 私たちはただ、その奇跡の前で固唾を呑んで見守った。


「福原さん、すごい! 本当に繁殖が始まってる!

 運がいい、これは卵が採れるぞ」


「う、嘘……信じられない!」


「驚かせないように、そっとだ。できるだけ離れて遠くから見よう」


「は、はいっ」


 静かに距離を取りながら、息さえ殺して見守る。

 肩が触れそうなほど近く並びながら――同じ鼓動をわけあうように。


 ――奇跡って、こういう瞬間のことなんだ。


 さっきまで、凛先輩が部室に来るかすら分からなかった。

 本当はずっと “会いたい” と思っていたのに、それも言えなくて。


 その凛先輩が、今、目の前にいて。

 しかも今日に限って、あべとまめが繁殖行動を始めるなんて。


 これはもう――偶然なんかじゃない。


 運命そのものだよ!


 水槽の前で並んで同じ瞬間を見ている――それだけで胸が溢れそうだった。


「あ、そうだ……食卵されないようにするには、どうしたら……?」


 小声で尋ねると、凛先輩は視線を水面に向けたまま答えた。


「今日は行動に入ってるから、このあとすぐ採卵すれば確実に採れる。

 大事なのは――いつ産卵が終わるか見極めること。

 終わったら、すぐに親を隔離する。食べられる前にね」


「なるほど、確かに、親を出してしまえばいいだけなのに……」


「親を出したほうが、卵もじっくり探せるだろ」


「そうそう、私、今まで見つけた卵、全部白くなってて」


「餌の残りや糞に長時間触れてると、雑菌が湧いてカビる。

 白い毛玉みたいになる。

 そういう卵は薬で殺菌しないといけない。やってたか?」


「やってませんでした。

 でも、理由がちゃんと分かりました。

 次は絶対に白くさせません。

 私、この子たちを本当に孵化させたいんです。

 だから、ちゃんと全部やります。


 それに、今日は来てくれて、本当に嬉しかったんです」


 言ってから、胸が熱くなる。

 けれど凛先輩は、その言葉に小さく反応した。


 先輩の肩がかすかに揺れ、視線をそむける。

 フードの影で表情は見えないのに、耳の先だけ赤く染まっていた。


「それは、福原さんが必死だったから」


 低く呟く声は、いつもの冷静さとは少し違う。

 落ち着いているようで――微かに照れが混じっていた。


(あ。照れてる)


 その小さな変化に気づいた瞬間、胸の奥で、長く張りつめていたものがふっとほどけた。

 ようやく、独りじゃないと思えた。


 ――その時だった。


 まめが水草の根へすっと潜り、すぐにあべが寄り添う。

 体をぐっと押し上げ――


ぱらぱら……。


 光を受けて、卵が星屑のように舞い散った。


 息を呑む音が、自分のものか先輩のものか分からなかった。


「せ、先輩! 産みました! 急いで――」


「まだだ。ほらよく見て。終わっていない」


 言われた方向を見ると、まめは別の水草へ移り、また卵を散らす。


「アベニーパファーは他の淡水フグと違って、数カ所に分けて産むんだ」


「そ、その、終わりってどうやって?」


「行動が変わる。

 オスが追わなくなる、メスが嫌がる――そんな合図がある」


 そう説明している間に、その変化が起きた。


 あべが追うのをやめ、まめは水草から離れてゆっくりと泳ぎ出す。


「終わったな。福原さん、今だ。親を取り出そう」


「はいっ!」


 私はネットを沈め、そっと二匹を掬い上げた。


「お疲れさま。あとは私に任せて。絶対、孵化させるからね」


 小さく呟くと、凛先輩が横目で微笑んだ気配がした。


 産卵したあたりをホースで吸い出すと、バケツの底で透明の粒がきらりと光る。


「凛先輩! 卵! 採れました!」


 声が震える。胸が熱い。


 ――十二粒の、小さな小さな命。

 それはアクア部での“新しい挑戦”そのものだった。


 その時――。


キーンコーンカーンコーン。


 無情な下校チャイムが鳴り響く。


(どうしよう……卵の管理、まだ聞けてない)


 凛先輩を見ると、先輩はバツが悪そうに目を伏せ、カバンを手にした。


(そっか。部室には、もういたくないんだよね)


 今日ここまで来てくれたのだって、奇跡に近い。


「あのっ、今日は本当にありがとうございました!

 私、もっと上手くなりたいです。先輩みたいに……」


 言った瞬間、時間が一拍だけ止まった。


 そして――。


「よかったら、一緒に帰らないか?」


「え?」


 凛先輩は視線を合わせぬまま、小さく呟いた。

 声は冷たくなく、どこか戸惑って揺れている。


「卵の管理、まだ話していないし」


「は、はいっ! 一緒に帰ります!」


 先輩はフードの端をぎゅっと握りながら、意を決したように続ける。


「どこか、話しやすい場所があればいいんだけど」


「……!」


 胸の奥が温かく満たされていく。


「あります! 私、知っています!」


 顔を上げると、凛先輩は少しだけ視線をそらしながら、どこか気恥ずかしそうに息を整えていた。

 距離が、ほんの少し近づいた気がした。


 「その前に」


 凛先輩は真顔に戻り、用具入れから隔離ネットを取り出す。

 手早く水槽に取り付け、集めた卵を丁寧に移し替えた。


「卵はこれで安心だ。食べられない」


 先ほどの照れは跡形もなく、手つきは慣れていて優しい。


「これが主流の管理法だけど、欠点も多い。まあ、その話は後で」


 説明は淡々としているのに、横顔はどこか柔らかかった。


(冷たい人だと思っていたけど。本当は、すごく優しい)


 作業を終えた凛先輩は、一息ついて私を見た。


「よし。これでひとまず安心だ」


 それから、すこしだけ歩幅を小さくして私の前を歩き出す。


 夕陽に伸びる背中が、来たときより少し近く見えた。


   * * *


 凛先輩と肩を並べて校門を出る。

 夕風が少し冷たくて、歩幅が自然と重なってしまう。


「十五分くらいの場所です。大丈夫ですか?」


「ああ。それくらいなら」


 会話が途切れても、不思議と心地よかった。


 やがて、私たちはパンの香りが漂う前で立ち止まった。


「ここです! イートインもできるんですよ!」


「……フクハラ?」


「はい! 私んちです」


「えっ

 ちょ、ちょっと待って

 えええええええええっ!?」


 凛先輩の声が、今日いちばん裏返った。

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