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ふくとアクア部の日常  作者: たんすい
第5章:拳一つ半の距離
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綿になった命の粒

 放課後の部室。

 静かな水音だけが響く中、私は水槽のガラスに顔を近づけていた。


 アベニーたちの様子を、息を止めるように見つめ続ける。

 ――けれど、繁殖行動は一向に始まらない。


 もう一週間。待ち続けても変化はなかった。


「ねえ、ふく」


 後ろから海月先輩の声がした。


「そんなに見つめてたら、アベニーたちも安心して産卵できないだろ」


「でも、この前は楓ちゃんがいても平気で産んでましたよ?」


 私は不満げに振り返った。

 海月先輩は少し考えて、それから言った。


「じゃあさ、自分だったらどうだろうな。ずっと見られてたら」


「え……」


 その言葉の意味が理解できて、私の顔が一気に熱くなった。


「あ、ああああ! やだ! 絶対嫌です! 離れます!」


 慌てて水槽から距離を取ると、海月先輩は苦笑した。


「別に意地悪で言ったわけじゃないんだけどな。生き物には生き物のペースがあるってこと」


「はい。あべとまめの気持ち、考えてませんでした」


 反省して水槽から距離を取る。


 今日はもう産卵は諦めて、水換えをして帰ろう。

 驚かせないよう、できる限りゆっくり、丁寧に。


「けっこう汚れてますね。綺麗に管理してたつもりなのに……」


 バケツに古い水を流し込んでいると――その底に、キラリと光るものが見えた。


「あれ?」


 ゴミじゃない。

 小さな、透明な粒。

 ライトの光を受けて、宝石みたいに輝いている。


「海月先輩! スポイト貸してください!」


「お、おう?」


 急いでスポイトで吸い上げ、観察ケースに移す。

 手が震える。


「先輩、これ、卵ですよね?」


 声がふるえた。

 海月先輩が覗き込む。


「ああ。間違いないよ。アベニーパファーの卵だ」


「いつの間に……!」


「授業中に産んでたんだろうな。やったじゃないか、ふく」


 先輩の言葉に、胸がいっぱいになった。


「まだあるかもしれません! 探します!」


 水槽の底を、慎重に、けれど必死に探す。

 水草の根元、石の隙間、ガラスの角――


「あった! ここにも!」


「こっちにもあるぞ」


 結局、合計六個の卵が見つかった。


「六個……六個もありました!」


 観察ケースの中で揺れる小さな命。

 その一つ一つが、あべとまめの子供なんだ。

 涙が出そうになるのを、私は必死にこらえた。


「ふく」


 海月先輩が声をかけてくる。


「採卵はできたけど、ここからが本番だ。

 孵化させるための管理についてだけど――」


「先輩、待ってください」


 私は真剣な顔で遮った。


「私、凛先輩に言われたんです。『失敗するのを怖がっちゃいけない』って。

 だから、ひとりで頑張ってみたい」


 海月先輩の表情が、一瞬だけ複雑に揺れた。

 何かを言いかけた唇が止まる。

 でもすぐに、いつもの優しい笑顔に戻って、私の頭をポンと撫でた。


「そっか。わかった。」


 その声には、私の成長を見守ろうとする温かさと、ほんの少しの心配が混じっていたけれど、その時の私は気づけなかった。


「頑張れ、ふく。応援してる」


「はい!」


 私は小型容器に水槽の水を入れ、丁寧に卵を移した。

 エアレーションのブクブク音が、希望の音楽みたいに響く。


 バケツの底から救い出した卵は、表面が薄っすらと白みがかっていて、まるでくもりガラスのようだ。


「いつ孵化するんでしょうね……」


 期待に胸が膨らむ。

 小さな小さなフグの赤ちゃん。


 どんな姿なんだろう。

 想像するだけで、心が躍った。


「楽しみだな」


 海月先輩の声が、優しく背中を押してくれる。


「はい! 絶対に、元気に孵化させます!」


 その夜は、興奮してなかなか眠れなかった。


 * * *


 翌朝。


 私は誰よりも早く学校に着いた。

 走って、走って、部室の扉を開ける。


「おはよう、あべ、まめ! 卵ちゃんたちも元気――」


 声が、止まった。


 観察ケースの中。

 昨日あんなに透明だった卵が――

 白く、濁っていた。


「え……?」


 近づく。

 よく見る。


 白い毛玉のような何かが、卵の表面を覆っている。

 八つ。全部。


「うそ……」


 膝から力が抜ける。


「そんな……」


 手が震える。

 視界が滲む。


 その時、部室の扉が開いた。


「おはよう、ふく――」


 海月先輩の声が、途中で止まる。


 私は振り返れなかった。

 ただ、観察ケースを指さすことしかできなかった。


 先輩が隣にしゃがみ込む。

 沈黙。


「……カビてしまってるね」


 静かな声が、事実を告げる。


「全部ダメなんですか?」


「白くなっているのは、残念だけど……」


 喉が詰まる。

 胸が張り裂けそうだった。


 私が「ひとりでやる」なんて言わなければ。

 先輩に管理方法を聞いていれば。


 孵っていたかもしれない命を、私の慢心が殺してしまった。


「ごめん……ごめんね……」


 私は小さく呟き、白い綿になった卵の入った水をそっと排水に流した。


 水の落ちる音が、部室に静かに響く。

 視界が滲み、頬を伝った涙は、卵とともに暗い排水口へ吸い込まれて消えていった。


 私の肩に、海月先輩の手がそっと置かれる。

 その手は言葉よりも温かく、震える心を静かに受け止めてくれた。


 すぐに強くはなれない。

 でも――この痛みは、絶対に忘れちゃいけない。


「……また、頑張ります。」


 自分にだけ聞こえる声で、そっと誓う。

 その誓いはまだ涙で濡れているけれど、確かに胸の奥に刻まれた。


 * * *


 その日の授業は、まったく頭に入らなかった。

 白く濁った卵の映像が、何度も何度も脳裏に浮かぶ。


(失敗を恐れるな、って言われたけど……

 失敗するって、こんなに辛いんだ)


 チョークが黒板を走る音だけが、遠くで聞こえている。


「――じゃあ、この問題。福原」


「えっ」


 名前を呼ばれて、心臓がびくっと跳ねた。

 立ち上がるけれど、黒板の文字が、全部にじんで見える。


「あ、あの……」


 答えが出てこない。

 頭の中には、数式じゃなくて、白くなった卵しかなかった。


「どうした、さっき説明したばかりだぞ」


「す、すみません……」


 クラスの空気が、少しだけざわつく。

 前の方で、誰かの小さな笑い声がした気がした。


 先生はため息をひとつついて、別の生徒を指名する。


 私はそっと席に腰を下ろした。

 ノートには、ほとんど何も書かれていない。


 チャイムが鳴り、休み時間になる。

 教室のあちこちで、椅子の音とおしゃべりが一斉に広がった。


 私は、ぼんやりと窓の外を見る。


 校庭では、みんなが笑って過ごしている。

 楓ちゃんも、誰かと楽しそうに話している。


 ――私だけが、取り残されているみたいだった。


 そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。

 何となく取り出して画面を見ると、「海月先輩」の名前が光っている。


 タップすると、短いメッセージがひとつだけ届いていた。


『落ち込むな。

 帰りに、ふくが美味しいって言ってた肉まん、買ってやるから』


 卵のことには、何も触れていない。

「頑張れ」とか、「次がある」とか、そんな言葉もない。


 でも――


(前に一緒に食べた肉まん……ちゃんと覚えていてくれた)


 たった一行のメッセージの中の「肉まん」という文字に、

 私の目の奥がじわっと熱くなる。


(卵は全部ダメにしちゃったけど……

 それでも、先輩は、いつもみたいに接してくれるんだ)


 俯いて、こっそりまばたきを繰り返す。

 教室の喧騒の中で、誰にも気付かれないように。


 窓から差し込む春の陽ざしよりも、

 画面の中の「肉まん」の文字の方が、ずっとあたたかく感じられた。


 私は、そっとスマホを胸の前で握りしめた。

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