冷たい窓辺と、少しだけ開いた扉
翌日の昼休み。
私は、二年生の教室棟へと向かっていた。
足が勝手に速くなったり遅くなったりして、落ち着かない。
廊下には人の流れがあり、笑い声が響いている。
その中を、私は一人、緊張した面持ちで歩いていた。
(大丈夫……きっと、教えてくれる)
自分にそう言い聞かせながら、凛先輩の教室の前に立つ。
ドアの隙間から、窓際に座る黒いフードの後ろ姿が見えた。
(……いた)
深呼吸を一つ。
勇気を振り絞って教室に入ると、数人が一斉にこちらを見た。
その視線が、少しだけ痛い。
それでも私は、凛先輩の席へとまっすぐ歩いた。
「凛先輩。あの、アベニーパファーのことで……」
私の声を遮るように、凛先輩が立ち上がる。
その横顔はどこか急いでいるようにも見えた。
私とは反対方向へ歩き出し、すれ違う瞬間にひと言。
「行こうか」
「あ、はい!」
私は凛先輩の後を追った。
教室を出て、廊下を抜け、階段を下りる。
先輩は一言も発さず、ただ真っ直ぐに歩いていく。
やがて、校舎と校舎をつなぐ屋根のない渡り廊下へ出た。
風がひゅう、と横切っていく。
頭上には、昼の空がどこまでも青く広がっていた。
春の日差しを吸ったコンクリートは、靴底越しにほんのりと温かい。
けれど吹き抜ける風はまだ冷たくて、まるで季節の境目の上をそっと歩いているようだった。
ふいに、凛先輩が立ち止まる。
そしてゆっくりとフードを外した。
風に、肩までの艶やかな黒髪が揺れる。
隠されていた顔立ちは、強い意志を秘めた翡翠の瞳と相まって、息を呑むほど整っていた。
「ここなら、人も少ない」
私は、ごくりと息を呑み、一歩踏み出した。
「教えてほしいんです。アベニーパファーの繁殖のこと」
凛先輩の肩が、わずかに動く。
「……海月に聞けばいいだろ」
「聞きました。でも、先輩は『フグのことは凛先輩の領域だった』って……」
その言葉に、凛先輩はふっと目をそらした。
ほんの一瞬だけ、痛みに揺れたように見えた。
「……過去の話だ」
その声は、どこか自分に言い聞かせているようだった。
「『採卵を急げ』って教えてくれましたよね。でも、あのあと全部食べられちゃったんです。卵」
「……」
「私は本やネットで調べました。どうやれば卵を食べられずに採れるのか。
でも、どこにもそんな情報、載ってなくて……」
また沈黙が落ちる。
凛先輩は、ゆっくりと息を吐いた。
「……で、福原さんはそれで諦めるの?」
「いいえ! 諦めたくないから、ここに来たんです!」
「聞きに? 試してもいないのに?」
「え……?」
「採卵、何回試してみた?」
「それは……まだ、0回です。食べられちゃったので」
「じゃあ、試してないのに聞きに来たんだ」
「だって……失敗したくないから」
それは本音だった。
その言葉に、凛先輩は自嘲気味に小さく笑った。
「……俺は、何度も失敗したよ」
「え? 凛先輩が……?」
「そうだよ。何度も失敗した」
声がかすれる。
凛先輩は、私をまっすぐ見つめ直した。
「成功する方法なんて、最初から探すな。
大事なのは、失敗から学ぶことなんじゃないか?」
(そうだ……私はまだ一度も採卵してない。
最初から“ミスしない方法”ばかり探してたんだ)
胸の奥に、じわりと重みが落ちる。
「凛先輩……! わかりました。私、やってみます!」
私は顔を上げて、まっすぐ宣言した。
「自分で!
卵を取る方法、失敗するのが怖くて動けなかった。
でも、怖いままでも……やってみます」
凛先輩は、私の目をしばらく見つめ、それから
ふっと息を吐いて、背を向けた。
「そう。よかった」
そう言って、今度こそフードを深くかぶり直し、教室へ戻っていく。
私は一人、渡り廊下の手すりに両手を置き、空を見上げた。
風が頬を撫でて、まるで「大丈夫だよ」と言ってくれているみたいだった。
(やってみよう。失敗したっていい)
(誰だって、最初は失敗するんだから)
(あべとまめの命をちゃんと繋げられたら……
その時、もう一度、凛先輩に――)
胸の奥で、昨夜まで冷えていた決意が、じわりと温かく灯り始めた。




