消えた泡、残った想い
息を切らして階段を駆け上がる。
放課後の光が沈みかけた廊下は、どこか重く、時間そのものが止まりかけていた。
心臓の鼓動が、耳の奥でドクンドクンと鳴り響く。
足がもつれそうになるのを必死にこらえながら、私は二年生の教室棟へと駆け抜けた。
(凛先輩……まだ、帰ってないで)
教室の前にたどり着き、ドアを勢いよく引く。
ガラッ。
静まり返った室内に、金属的な音が響き渡った。
数人の生徒が一斉にこちらを振り向く。驚いた顔。囁き。けれど、そんなの構っていられない。
――いた。
窓際。
黒いフードをかぶり、頬杖をついて外を見ているその姿。
「凛先輩っ!」
息を切らせながら近づくと、彼女は顔を上げ、わずかに眉をひそめた。
「……何度来ても同じだ。俺はもう、アクア部には戻らない」
「ち、違うんです! 今、アベニーパファーが産卵して、どうしたらいいのか分からなくて……!」
その一言に、凛の目がかすかに揺れた。
けれど、すぐに冷たい声が返ってくる。
「俺にはもう関係ない。海月にでも聞けばいいだろ」
「それが、海月先輩、いなくて……凛先輩にしか頼れないんです」
私は必死に訴えた。
「そんなこと言われても、俺は……」
言葉が途切れる。
窓の外を見つめる横顔が、一瞬だけ苦しげに歪んだ。
何か言いたげに唇が動く。
でも、その声は、出なかった。
「凛先輩、フグに詳しいんですよね。教えてください。お願いします!」
数秒の沈黙。
凛先輩は、ため息をついた。
「……聞く前にちゃんと自分で調べたか? まずはネットで調べる。部室にも繁殖関連の書籍はあったはずだ。見たのか」
「い、いえ……」
「命を預かっている責任を持て。すぐに人に聞くな」
低く、でも真剣な声だった。
「……わかったか」
「はい」
私はうつむいた。確かに、凛先輩の言う通りだ。焦って、すぐに人に頼ろうとした自分が恥ずかしい。
「それにもう俺は、アクア部とは関係ない。フグのこと……全部、忘れたんだ。悪いが、教えてやる義理もない」
凛先輩の声は、冷たかった。
「……すみませんでした」
私は頭を下げて、扉へ向かおうとした。
その時。
「……卵は、生まれたばかりなのか?」
背中に、凛先輩の声が届いた。
振り返ると、彼は相変わらず窓の外を見ていた。
でも、その横顔は、少しだけ柔らかかった。
「……はい」
「アベニーパファーはよく食卵をする。はやく採卵するんだ」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
でも、すぐに気づいて――胸が熱くなった。
「……! 凛先輩、ありがとうございます!」
顔を上げた瞬間、彼女はもう窓の外に視線を戻していた。
その横顔は、どこか遠くを見つめていて――
まるで、過去の水槽の中に取り残された誰かみたいだった。
私は頭を下げると、全力で廊下を駆け出した。
* * *
部室へ急いで帰る。
息を切らして扉を開けた瞬間――楓の声が響いた。
「彩花ー! 大変!」
楓ちゃんが水槽の前で立ち尽くしていた。
「卵、全部……食べちゃったよ」
「えーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
私の叫びが、部室に響き渡った。
水槽の中を覗き込むと、さっきまで光っていた透明の粒は、一つも残っていなかった。
あべとまめは、何事もなかったかのように、ゆったりと泳いでいる。
「そんな……あんまりだよ……」
気づいたら、涙が溢れていた。
生まれたばかりの命が、あっという間に消えてしまった。
キラキラしてた、あの透明な粒たち。
守りたかったのに。
「よしよし、また次があるよ。頑張れ」
楓が優しく頭を撫でてくれる。
その温かさに、少しだけ心が落ち着いた。
その時、部室の扉が開いた。
「ただいまー」
海月先輩が、いつもの穏やかな笑顔で入ってきた。
そして、楓を見て少し驚いたような顔をする。
「あ、新入部員?」
「違います。彩花の友達の楓です。ちょっと見学させてもらってます」
楓が手を振った。
「そっか、ゆっくりしてって」
「……あ、もしかして彼氏さん?」
「違うけど」
冷静に返す海月。
海月先輩は笑って、それから私の顔を見た。
「……ところでふく、なんで泣いてるの?」
声を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が切れた。
「先輩……聞いてください……!
アベニーパファーが卵を産んだのに……食べちゃったんです……」
私は涙声で訴えた。
海月先輩は黙って私の隣にしゃがみ、
静かに、水槽を見つめた。
「そっか。産卵したんだ。すごいじゃん、ふく。
でも、ちゃんと次はつなげような」
その声は、夕暮れの光みたいに優しかった。
私は袖で涙をぬぐいながら、水槽を見た。
あべが水草の陰から、まるで気まずそうにこちらを覗いていた。
その姿に、なぜか少しだけ笑えてしまった。
(……次こそ、守るから)
そう心の中で誓いながら、私は小さく頷いた。




