届かなかった贈り物
朝の陽光がカーテンの隙間から差し込み、部屋をやわらかく照らしていた。
時計の針は、ちょうど七時。
(……サリバパン、ちゃんと焼けたかな)
胸がそわそわして、布団の中にじっとしていられない。
私は跳ね起きて階段を駆け下りた。
キッチンには、焼きたてのパンの香ばしい匂いが満ちていた。
母はパン屋の主人。毎朝四時から店の仕込みだ。
その背中が、今日だけはいつもより頼もしく見える。
「お母さん、サリバパン……できた?」
「できてるわよ。ほら、どう? 写真通りでしょ」
差し出されたトレイの上には――あの子がいた。
赤い目はクランベリー。
黄色い生地に、溶かしたココアで描かれた虎のライン。
まるで、サリバトールがパンになって帰ってきたみたいだった。
「……すごい。ほんとにサリバトールだ……!」
「凛先輩、喜んでくれるといいわね」
「ありがとう、お母さん!」
私は思わず、両手を広げて母に抱きついた。
「……ったく、朝っぱらからテンション高いわね」
でも、母の声はどこか嬉しそうだった。
サリバパンを丁寧にラッピングして、そっとカバンにしまう。
これは世界にひとつだけの、私の気持ちそのものだ。
* * *
朝の部室。
水槽のポンプ音が静かに響き、あべとまめがゆらゆらと泳いでいる。
海月先輩は、水草の位置を整えていた。
「先輩、おはようございます! 見てください」
私はカバンからサリバパンを取り出して、海月先輩に見せた。
「すごいな。よく再現されている。ふくの母さんが作ったのか?」
「はい! 凛先輩、きっと喜んでくれると思います。」
先輩の表情が、わずかに柔らかくなった。
普段の気だるい雰囲気とは異なり、静かな感動が伝わってくる。
「そうだな。凛なら……きっと、受け取ってくれるはずだ。」
その言葉に、胸がじんわりと温かくなる。
(きっと、凛先輩も喜んでくれる)
私はそう信じていた。 昼休み、凛先輩の教室に持っていこう。 このパンに、私の想いを全部込めて。
* * *
昼休み。
私は、サリバパンの入ったカバンをそっと抱えていた。
胸の奥が、少しだけ高鳴っている。
「ねえ、なんか今日ニヤニヤしてない?」
「べ、別に……!」
友達の楓がからかうように覗き込む。
「え、なに? プレゼント?」
「ち、違うから!!」
そのとき――
「ふく」
海月先輩が、教室の扉に立っていた。
楓は小さく目を丸くして、ぽつり。
「……ああ、そういう感じか」
言い返せない。
ただ、胸が熱くなる。
私は真っ赤になって立ち上がり、
カバンをぎゅっと抱きしめたまま、先輩のもとへ向かった。
そして、海月先輩と並んで、凛先輩の教室へ歩き出す。
* * *
教室の扉を開けると、凛先輩は窓際の席で本を読んでいた。黒いフードを被ったその姿は、変わらず孤高の雰囲気を纏っている。
私は一歩踏み出し、声をかけた。
「凛先輩……あの、ちょっとお時間いいですか?」
凛先輩は本から目を上げ、私たちを見た。その視線は穏やかだが、どこか遠い。
「何度来ても同じだ。俺はアクア部には戻らない」
それでも、私は歩み寄る。
震える指で、丁寧にラッピングを差し出した。
「これ……凛さんに食べてほしくて。サリバトールのパンです」
凛先輩の目が、パンの赤い目を見つめる。
ただ、じっと。呼吸を忘れたみたいに。
そして――
凛先輩のまつげが、かすかに震えた。
その瞬間――ぽたり。
涙が、落ちた。
「……凛先輩……?」
言葉は返ってこない。
また、ひと粒。
ラッピングの上に透明な痕が増えていく。
それは喜びじゃなかった。
忘れたはずの痛みが、ただ溢れただけの涙だった。
「……ごめん。これ、食べられない。」
声は低く、かすれていた。
「思い出すんだ。あいつが死んだときのこと。
まだ、ちゃんと……許せていないんだ」
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
「そんなつもりじゃ……なくて……ごめんなさい……」
善意は、いつも正しいとは限らない。
そのことを、私はそこで初めて知った。
海月先輩は、そっと私の肩に手を置いた。
「……行こう、ふく」
返事はできなかった。
ただ、その手に導かれるように教室を出た。
背中に、凛先輩の沈黙が刺さり続けた。
(私の考えが……浅かったのかもしれない)
カバンの中のサリバパンは、まだそこにあるのに、
もう、どこにも帰る場所がなかった。
* * *
放課後の部室。
水槽のポンプ音だけが、静かに響いている。
私は、カバンの中にあるサリバパンを思い出していた。
あのときの凛先輩の涙。
「こんなもの、見せないで」と言われた声。
静かな時間が流れる。
胸の奥に、あの涙の重さが蘇る。
(私がやったことは、間違いだったの?)
胸の奥が、じんと痛む。
でも、少しだけわかってきた。
あれは“想い”が届かなかったんじゃない。
私の“想い方”が、まだ浅かったのだ。
サリバトールのパンを作れば、
「喜んでもらえる」と勝手に信じていた。
でも、凛先輩の「悲しみ」を、ちゃんと見ていなかった。
私はカバンからサリバパンを取り出した。
ラッピングの透明なフィルムには、涙の跡が乾いて残っている。
「……ごめんね。私、独りよがりだった」
そう呟いて、パンをそっと胸に抱いた。
そのとき。
「ふく」
静かな声がした。
振り返ると、海月先輩が立っていた。
表情はいつも通りだけれど、目はどこか柔らかい。
「……泣いてた?」
「泣いてません」
「そっか」
先輩はそれ以上なにも言わず、私の隣に立った。
水槽の水面が、かすかに揺れている。
「……一緒に、食べるか。サリバパン」
「でも……これは」
ぐぅぅぅぅぅ。
お腹が、小さく裏切った。
「……お腹の虫は、素直だな」
「……食べましょう」
私と先輩は、サリバパンを半分こにした。
一口かじると、涙が自然にこぼれた。
「……おいひぃです」
「美味しいな」
二人で静かに咀嚼する。
悲しみも、後悔も、一緒に噛みしめるみたいだった。
食べ終わったあと、私は言った。
「……私、また凛先輩に会いに行きます」
海月先輩は、ゆっくり頷いた。
「今度は……ちゃんと“聞きたい”んです。
凛先輩が、何を大事にしてるのか。
何を、まだ抱えているのか」
「……それなら、きっと届く」
私は小さく息を吸った。
サリバパンはもう渡せない。
でも――
私の中に残った想いは、まだ終わっていない。
やっとそれに気づけた今が、本当の始まりだった。




