表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ふくとアクア部の日常  作者: たんすい
第4章:冷たい家、温かい朝
29/63

届かなかった贈り物

 朝の陽光がカーテンの隙間から差し込み、部屋をやわらかく照らしていた。

 時計の針は、ちょうど七時。


(……サリバパン、ちゃんと焼けたかな)


 胸がそわそわして、布団の中にじっとしていられない。

 私は跳ね起きて階段を駆け下りた。


 キッチンには、焼きたてのパンの香ばしい匂いが満ちていた。

 母はパン屋の主人。毎朝四時から店の仕込みだ。

 その背中が、今日だけはいつもより頼もしく見える。


「お母さん、サリバパン……できた?」


「できてるわよ。ほら、どう? 写真通りでしょ」


 差し出されたトレイの上には――あの子がいた。


 赤い目はクランベリー。

 黄色い生地に、溶かしたココアで描かれた虎のライン。

 まるで、サリバトールがパンになって帰ってきたみたいだった。


「……すごい。ほんとにサリバトールだ……!」


「凛先輩、喜んでくれるといいわね」


「ありがとう、お母さん!」


 私は思わず、両手を広げて母に抱きついた。


「……ったく、朝っぱらからテンション高いわね」


 でも、母の声はどこか嬉しそうだった。


 サリバパンを丁寧にラッピングして、そっとカバンにしまう。

 これは世界にひとつだけの、私の気持ちそのものだ。


 * * *


 朝の部室。

 水槽のポンプ音が静かに響き、あべとまめがゆらゆらと泳いでいる。

 海月先輩は、水草の位置を整えていた。


「先輩、おはようございます! 見てください」


 私はカバンからサリバパンを取り出して、海月先輩に見せた。


「すごいな。よく再現されている。ふくの母さんが作ったのか?」


「はい! 凛先輩、きっと喜んでくれると思います。」


 先輩の表情が、わずかに柔らかくなった。

 普段の気だるい雰囲気とは異なり、静かな感動が伝わってくる。


「そうだな。凛なら……きっと、受け取ってくれるはずだ。」


 その言葉に、胸がじんわりと温かくなる。


(きっと、凛先輩も喜んでくれる)


 私はそう信じていた。 昼休み、凛先輩の教室に持っていこう。 このパンに、私の想いを全部込めて。


 * * *


 昼休み。

 私は、サリバパンの入ったカバンをそっと抱えていた。

 胸の奥が、少しだけ高鳴っている。


「ねえ、なんか今日ニヤニヤしてない?」

「べ、別に……!」


 友達の楓がからかうように覗き込む。


「え、なに? プレゼント?」


「ち、違うから!!」


 そのとき――


「ふく」


 海月先輩が、教室の扉に立っていた。


 楓は小さく目を丸くして、ぽつり。


「……ああ、そういう感じか」


 言い返せない。

 ただ、胸が熱くなる。


 私は真っ赤になって立ち上がり、

 カバンをぎゅっと抱きしめたまま、先輩のもとへ向かった。


 そして、海月先輩と並んで、凛先輩の教室へ歩き出す。


 * * *


 教室の扉を開けると、凛先輩は窓際の席で本を読んでいた。黒いフードを被ったその姿は、変わらず孤高の雰囲気を纏っている。


 私は一歩踏み出し、声をかけた。


「凛先輩……あの、ちょっとお時間いいですか?」


 凛先輩は本から目を上げ、私たちを見た。その視線は穏やかだが、どこか遠い。


「何度来ても同じだ。俺はアクア部には戻らない」


 それでも、私は歩み寄る。


 震える指で、丁寧にラッピングを差し出した。


「これ……凛さんに食べてほしくて。サリバトールのパンです」


 凛先輩の目が、パンの赤い目を見つめる。

 ただ、じっと。呼吸を忘れたみたいに。


 そして――


 凛先輩のまつげが、かすかに震えた。

 その瞬間――ぽたり。


 涙が、落ちた。


「……凛先輩……?」


 言葉は返ってこない。

 また、ひと粒。

 ラッピングの上に透明な痕が増えていく。


 それは喜びじゃなかった。

 忘れたはずの痛みが、ただ溢れただけの涙だった。


「……ごめん。これ、食べられない。」


 声は低く、かすれていた。


「思い出すんだ。あいつが死んだときのこと。

 まだ、ちゃんと……許せていないんだ」


 胸が、ぎゅっと締めつけられた。


「そんなつもりじゃ……なくて……ごめんなさい……」


 善意は、いつも正しいとは限らない。

 そのことを、私はそこで初めて知った。


 海月先輩は、そっと私の肩に手を置いた。


「……行こう、ふく」


 返事はできなかった。

 ただ、その手に導かれるように教室を出た。


 背中に、凛先輩の沈黙が刺さり続けた。


(私の考えが……浅かったのかもしれない)


 カバンの中のサリバパンは、まだそこにあるのに、

 もう、どこにも帰る場所がなかった。


 * * *


 放課後の部室。


 水槽のポンプ音だけが、静かに響いている。


 私は、カバンの中にあるサリバパンを思い出していた。

 あのときの凛先輩の涙。

「こんなもの、見せないで」と言われた声。


 静かな時間が流れる。

 胸の奥に、あの涙の重さが蘇る。


(私がやったことは、間違いだったの?)


 胸の奥が、じんと痛む。

 でも、少しだけわかってきた。


 あれは“想い”が届かなかったんじゃない。

 私の“想い方”が、まだ浅かったのだ。


 サリバトールのパンを作れば、

「喜んでもらえる」と勝手に信じていた。

 でも、凛先輩の「悲しみ」を、ちゃんと見ていなかった。


 私はカバンからサリバパンを取り出した。

 ラッピングの透明なフィルムには、涙の跡が乾いて残っている。


「……ごめんね。私、独りよがりだった」


 そう呟いて、パンをそっと胸に抱いた。


 そのとき。


「ふく」


 静かな声がした。


 振り返ると、海月先輩が立っていた。

 表情はいつも通りだけれど、目はどこか柔らかい。


「……泣いてた?」


「泣いてません」


「そっか」


 先輩はそれ以上なにも言わず、私の隣に立った。


 水槽の水面が、かすかに揺れている。


「……一緒に、食べるか。サリバパン」


「でも……これは」


 ぐぅぅぅぅぅ。


 お腹が、小さく裏切った。


「……お腹の虫は、素直だな」


「……食べましょう」


 私と先輩は、サリバパンを半分こにした。


 一口かじると、涙が自然にこぼれた。


「……おいひぃです」


「美味しいな」


 二人で静かに咀嚼する。

 悲しみも、後悔も、一緒に噛みしめるみたいだった。


 食べ終わったあと、私は言った。


「……私、また凛先輩に会いに行きます」


 海月先輩は、ゆっくり頷いた。


「今度は……ちゃんと“聞きたい”んです。

 凛先輩が、何を大事にしてるのか。

 何を、まだ抱えているのか」


「……それなら、きっと届く」


 私は小さく息を吸った。


 サリバパンはもう渡せない。

 でも――


 私の中に残った想いは、まだ終わっていない。


 やっとそれに気づけた今が、本当の始まりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ