手放したもの、拾ったもの
「そんな、あいつがサリバトールを手放すだなんて考えられない」
海月先輩の声は、困惑というより――拒絶に近かった。
私はそっと、先輩の袖をつまんだ。
「きっと、何か事情があったんですよ」
「凛は、そんな無責任なことはしない。最後まで預かった命は面倒を見る。そういうやつなんだ」
先輩は、水槽を見つめたまま言う。
その目は、信じたいものを必死に握りしめている目だった。
私は思い出していた。
中学生のころ。
好きだったもの。大切だったもの。
だけど、たった一言で手放してしまったことを。
「……私も、昔。大切なものを手放したことがあるんです」
自分でも気づかないうちに、声がふるえていた。
「でもそれは、嫌いになったからじゃなくて」
「じゃあ、なんでだ。」
先輩が、遮るように言った。
「理由もなしに、あいつがサリバトールを――」
「嫌いになったわけじゃない!」
声が、思っていたより強く出た。
水槽の青い光が反射するガラスに、息が白くかかりそうになる。
「きっと……見るたびに思い出してしまうからです。
守れなかった子のこと。失った悲しみを。
好きだったからこそ、もう触れられなくなってしまったんだと思います」
言葉が、水槽の中の光のように、ゆっくりと沈んでいく。
先輩は黙り込んだ。
「あいつは……そんなやつじゃない。あいつは……」
そこで言葉が、途切れた。
否定の続きがもう出てこないのを、
自分で、感じてしまったんだ。
「……俺、何も知らなかったんだな」
先輩の声は、ただ静かだった。
悔しさでも、怒りでもなく。
届かない場所にいた誰かを、ようやく見つけた人の声だった。
「でもそれは、嫌いになったからじゃなくて……
好きすぎて、怖くなったからです」
言葉にした瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
あの時の自分が、まだどこかに残っている。
「大切にしたいって思えば思うほど、失うのが怖くなって。
だから、手放したんです。自分から」
先輩は、水槽の中のサリバトールから目を離せないまま、何も言わなかった。
けれど、その横顔は、ほんのわずかに揺れていた。
「凛先輩も、きっと……
嫌いになったわけじゃないと思います。
大切だったからこそ、手放したんじゃないかって」
サリバトールがゆっくりと旋回する。
その動きは、まるで誰かの記憶をなぞるようだった。
「……ふく」
海月先輩が、私を見た。
迷いでも、揺らぎでもなく。
ただ、ひとつの答えを求めるまなざし。
「……会いたいな。凛に」
「……私も、です」
アクア・リュミエールを出る頃には、夕方の光がガラスに淡く反射していた。




