赤い目のフグ
イルカショーの興奮がまだ冷めないまま、私たちは館内の順路に戻った。
青く照らされた巨大な回遊水槽を通り過ぎ、アマゾンの淡水魚エリアへと足を踏み入れる。
幻想的な光に満たされた空間は、どこか現実離れしていて、
隣を歩く先輩との距離まで、いつもと違って感じられた。
あまりに楽しくて、つい、心の声が漏れた。
「これってミーティングじゃなくてデー……」
「デ?」
「デ、デ、デ……デカい魚いますよ先輩! ほらっ!」
指さした先には、巨大なピラルクが悠々と泳いでいた。
「うん。でかいな、ピラルク」
(よ、よかった。これは誤魔化せた……
完全に“デート”なんて言いかけたのバレてな──)
「ふく。」
先輩が、水槽からふと視線を外し、まっすぐ私を見た。
「“デート”って言いかけたろ?」
「っ……!?」
(うわああああああああああああああ!!!)
(誤魔化せてない……! 全然誤魔化せてない……!!)
私は、ピラルクの真似みたいに、口をぱくぱくさせるしかなかった。
でも先輩は、笑わなかった。
からかいもしなかった。
ただ、ほんの少しだけ、目元がやわらかかった。
「別に、俺はどっちでもいいけどな」
「…………っ」
(“どっちでも”って、そういう言い方、ずるい)
水槽の中で光がゆれて、胸の奥まで静かに波が寄せてくる。
心臓の音まで、水面に落ちて広がっていくみたいだった。
「そんなこと言って、先輩、彼女いるんですか?」
視線は水槽のまま。それでも確かに届く言葉。
「いないよ。そんな余裕、今までなかったしな」
先輩の声は、さっきより少しだけ柔らかかった。
「ふくは?」
「私だっていませんよっ!」
(なんで今、そんな勢いよく言ったの私……?)
先輩が、ようやくこちらを振り向いた。
ほんの一瞬、目が合う。
その一瞬が、心臓に触れた。
「そっか」
たったそれだけなのに、
言葉よりちゃんと伝わるものがあった。
水槽の青い光が、二人の間に静かに揺れた。
会話が、ふっと止まる。
声を出そうとすると、胸の奥がくすぐったくて、何も言えない。
並んで歩いているだけなのに、
空気が少しだけ、近くなる。
その時——
「……あれ」
先輩が、展示ホール奥のひときわ大きな個別水槽を指差した。
私も視線を向ける。
水槽の中で、ゆっくりと赤い目が揺れた。
「先輩、あれ、サリバトールですよね!?」
思わず駆け寄る。
黄色と黒の虎模様。鋭い嘴。堂々とした命。
「間違いない。サリバトールだ」
先輩の声に、微かな震えが混じっていた。
「うわ、本物! 生で見ると、こんな……」
言葉が追いつかない。
ただ、息だけが熱くなる。
近くにいた飼育スタッフの人に声をかけた。
「すみません、このサリバトール……どうされたんですか?」
スタッフは柔らかく微笑んだ。
「ああ、あの子ですか。フグに詳しい方からの寄贈なんです。
とても大切に飼育されていた個体で」
「……寄贈?」
先輩が、少しだけ低い声で聞き返す。
「寄贈された方の名前は?」
「申し訳ありません。プライバシーもありますので」
スタッフは首を振った。
——だけど、その一瞬の躊躇が、もう答えになっていた。
「……翠川。翠川 凛、ですよね」
スタッフの目が、かすかに揺れた。
「知り合い、なんですか?」
「はい。同じ学校のアクア部でした」
「翠川さんは、『もうフグは飼わない』と。
だから、引き取らせていただきました」
「そんな、あの凛が……」
その声は、驚きでも怒りでもなかった。
消えていく最後の光を、そっと見つめるような声だった。
水槽の中で、サリバトールは静かに泳ぎ続けていた。
まるで、何もかもを知っているみたいに。




