ご褒美じゃなく、心で
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでくる。
目覚ましが鳴るより先に、私は目を覚ました。
布団の中で、昨日選んだ服のことを思い出す。
白のブラウスに、淡いグレーのスカート。
カーディガンは、やっぱりやめた。ちょっとだけ、勇気を出して。
「……よしっ!」
鏡の前で髪を整えながら、何度も深呼吸。
前髪、よし。リップ、よし。笑顔……よし?
玄関で靴を履きながら、お母さんがひょっこり顔を出す。
「いってらっしゃい、彩花。あら、今日はポニーテールじゃないのね?髪下ろすと、ちょっと大人っぽくて素敵よ」
「い、いってきますっ!」
顔が熱い。絶対赤い。
でも、今日はそれでもいい。
* * *
駅前の時計は、9時58分。
私は、ちょっとだけ早く着いてしまった。
人の流れを眺めながら、スマホをちらちら確認する。
でも、通知はなし。
(……先輩、来るかな)
不安と期待が、胸の中でくるくる回る。
その時――
「お待たせ」
振り返ると、そこには――
黒のシャツに、ベージュのパンツ。
その上に軽く羽織ったジャケットが、風にふわりと揺れていた。
シンプルなのに、なんだかすごく“先輩らしい”感じがした。
「せ、先輩っ!」
声が裏返った。
でも、先輩はふっと笑って言った。
「……髪、変えたんだな。一瞬、誰かと思ったよ。すごく似合ってる」
(えっ、今、「似合ってる」って言った!?
落ち着け、私……いや、落ち着けるわけないでしょ!)
「えっ……あ、ありがとうございますっ!」
(声、震えてなかった?
平常心、平常心……。
……無理。絶対に無理。
なんでそんな普通の顔で言えるの。)
熱がこもって、視界までふわっと霞んだ。
先輩は、そんな私の混乱なんて気づいていないように、
いつもと同じ……でも、どこか柔らかくて、少しだけ特別な笑顔。
「じゃあ、行こうか。アクア・リュミエール」
「は、はいっ!」
並んで歩き出す。
駅の改札を抜けると、電車のホームに春の風が吹いていた。
今日の目的は、部の未来を話すこと。
でも、私の心は――
ちょっとだけ、違う未来を夢見ていた。
* * *
アクア・リュミエール。
水族館とアクアショップ、レジャー施設に飲食街まで揃った複合施設。
その一角のカフェで、私たちは向かい合って座る。
「……顧問の件だけど」
先輩はアイスコーヒーを静かに揺らしながら言った。
「どの先生も引き受ける気がなくて、校長も動いてるけど難航してる」
「そうなんですか……」
私は、カップのふちを指でなぞりながら、そっと息を吐いた。
「それに、昔の部員も誰も戻る気はない。
凛も……まあ、あいつは別としても、他の連中はもう完全に離れてる」
胸が、少しだけきゅっと痛む。
でも、そこで俯いている場合じゃない。
「じゃあ……私、クラスの友達に声かけてみます!」
「そうだな。新入生を狙うのもいい。頼んだぞ、ふく」
「任せてください! あと、ポスターもっと貼りましょう!
あのポスター見て、私入部したんですから。
みんなが“入りたい”って思えるやつ!」
言いながら、胸の奥がじんと熱くなる。
――あの赤い目の、虎模様のフグ。
あのポスターが、私の世界を変えたのだから。
今度は、私が誰かの世界を変えたい。
「そうだな。あとは何か成果を出せれば、勧誘ももっと楽になるかも」
「じゃあ……アクア部をフグだらけにするってのはどうです? 絶対楽しいですよ」
「それ、お前が楽しいだけだろ」
「はい。めちゃ楽しいです」
そこで、先輩はふっと息を漏らすように笑って、しばらく私を見つめた。
その瞳の奥に、淡い光が揺れた気がした。
「お前が来てから、アクア部は変わったよ。
俺ひとりじゃ、こんな風に考えられなかったと思う」
その言葉が、胸の真ん中で、やさしく広がる。
窓から差し込む陽の光が、先輩の横顔を柔らかく縁取っていた。
「私、アクア部が好きです。なくしたくないから」
「……ああ。俺もだ」
私は、カップに残った甘いミルクティーを飲み干して、そっと微笑んだ。
部の未来は、まだ不確か。
でも――こうして同じテーブルで未来の話ができる今が、とても嬉しかった。
* * *
イルカショー開始のアナウンスが、館内に明るく響いた。
人の波がゆっくりと動き、私と先輩もその流れにまぎれる。
「……イルカショー、見てみるか? ここ、結構人気らしいぞ」
海月先輩がそう言って、私の方を振り返る。
「……あ、はい……」
返事は、どこか歯切れが悪かった。
先輩はその横顔をちらりと見て、ほんの少し首をかしげる。
ショーが始まる。
合図に合わせて、イルカたちが水面から弧を描きながら跳び上がる。
拍手と歓声。
弾ける水しぶき。
「……ふく、イルカ嫌いなの?」
「いえ、好きなんです。すごく……でも、ちょっと可哀想かなって」
「可哀想?」
先輩の眉が、かすかに動く。
「こんなに狭いところで、毎日ショーして……
私だったら、嫌だなって」
「……イルカの気持ち考えてるのか? ぷっ……ははははは!」
「ちょ、なんでそこで笑うんですか!?」
私がむっと頬をふくらませると、先輩は慌てて手を振った。
「いや、悪い。笑うつもりじゃないんだ。
そう言う人、あんまりいないから。ちょっと意外でさ」
「……意外ですか」
私は一度視線を落として、再びイルカを見つめる。
「だって、芸をしたら餌もらえるじゃないですか。
言うこと聞いたら褒められる。
それって……“餌で仲良くしてる”みたいで」
「ご褒美が欲しいんだろ、イルカだって」
「そうなんですけど……私は、そうじゃなくて。
心で仲良くしたいんです。
通じ合って、一緒にいたいんです。……わかります?」
その言葉は、柔らかいのに、まっすぐだった。
海月先輩は笑みを消し、真正面から私を見つめた。
その瞳に宿る真剣さと、どこか痛みを知っているような優しさに――
先輩が、思わず息を止めたのが分かった。
(……どこか凛に似てる。
そうか、命のこと、ちゃんと考えてあげてるんだ)
(冷たい水槽の中で失われた命……。
でも、ふくは違う。 命に、心で触れようとしている)
「……ふくって、ほんと面白いな」
「あれ? 今日は“変”じゃなくて“面白い”なんですね」
「うん。ちょっと見直した。」
その一言に、私の頬がわずかに赤くなる。
イルカがくるりと回転し、水面に光の筋を散らす。
歓声は同じなのに、さっきよりもその背中が少しだけ寂しそうに見えた。




