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ふくとアクア部の日常  作者: たんすい
第4章:冷たい家、温かい朝
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ご褒美じゃなく、心で

 朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでくる。

 目覚ましが鳴るより先に、私は目を覚ました。


 布団の中で、昨日選んだ服のことを思い出す。

 白のブラウスに、淡いグレーのスカート。

 カーディガンは、やっぱりやめた。ちょっとだけ、勇気を出して。


「……よしっ!」


 鏡の前で髪を整えながら、何度も深呼吸。

 前髪、よし。リップ、よし。笑顔……よし?


 玄関で靴を履きながら、お母さんがひょっこり顔を出す。


「いってらっしゃい、彩花。あら、今日はポニーテールじゃないのね?髪下ろすと、ちょっと大人っぽくて素敵よ」


「い、いってきますっ!」


 顔が熱い。絶対赤い。

 でも、今日はそれでもいい。


 * * *


 駅前の時計は、9時58分。

 私は、ちょっとだけ早く着いてしまった。


 人の流れを眺めながら、スマホをちらちら確認する。

 でも、通知はなし。


(……先輩、来るかな)


 不安と期待が、胸の中でくるくる回る。

 その時――


「お待たせ」


 振り返ると、そこには――


 黒のシャツに、ベージュのパンツ。

 その上に軽く羽織ったジャケットが、風にふわりと揺れていた。

 シンプルなのに、なんだかすごく“先輩らしい”感じがした。


「せ、先輩っ!」


 声が裏返った。

 でも、先輩はふっと笑って言った。


「……髪、変えたんだな。一瞬、誰かと思ったよ。すごく似合ってる」


(えっ、今、「似合ってる」って言った!?

 落ち着け、私……いや、落ち着けるわけないでしょ!)


「えっ……あ、ありがとうございますっ!」


(声、震えてなかった?

 平常心、平常心……。

 ……無理。絶対に無理。

 なんでそんな普通の顔で言えるの。)


 熱がこもって、視界までふわっと霞んだ。


 先輩は、そんな私の混乱なんて気づいていないように、

 いつもと同じ……でも、どこか柔らかくて、少しだけ特別な笑顔。


「じゃあ、行こうか。アクア・リュミエール」


「は、はいっ!」


 並んで歩き出す。

 駅の改札を抜けると、電車のホームに春の風が吹いていた。


 今日の目的は、部の未来を話すこと。

 でも、私の心は――


 ちょっとだけ、違う未来を夢見ていた。


 * * *


 アクア・リュミエール。

 水族館とアクアショップ、レジャー施設に飲食街まで揃った複合施設。

 その一角のカフェで、私たちは向かい合って座る。


「……顧問の件だけど」


 先輩はアイスコーヒーを静かに揺らしながら言った。


「どの先生も引き受ける気がなくて、校長も動いてるけど難航してる」


「そうなんですか……」


 私は、カップのふちを指でなぞりながら、そっと息を吐いた。


「それに、昔の部員も誰も戻る気はない。

 凛も……まあ、あいつは別としても、他の連中はもう完全に離れてる」


 胸が、少しだけきゅっと痛む。

 でも、そこで俯いている場合じゃない。


「じゃあ……私、クラスの友達に声かけてみます!」


「そうだな。新入生を狙うのもいい。頼んだぞ、ふく」


「任せてください! あと、ポスターもっと貼りましょう!

 あのポスター見て、私入部したんですから。

 みんなが“入りたい”って思えるやつ!」


 言いながら、胸の奥がじんと熱くなる。


 ――あの赤い目の、虎模様のフグ。

 あのポスターが、私の世界を変えたのだから。

 今度は、私が誰かの世界を変えたい。


「そうだな。あとは何か成果を出せれば、勧誘ももっと楽になるかも」


「じゃあ……アクア部をフグだらけにするってのはどうです? 絶対楽しいですよ」


「それ、お前が楽しいだけだろ」


「はい。めちゃ楽しいです」


 そこで、先輩はふっと息を漏らすように笑って、しばらく私を見つめた。

 その瞳の奥に、淡い光が揺れた気がした。


「お前が来てから、アクア部は変わったよ。

 俺ひとりじゃ、こんな風に考えられなかったと思う」


 その言葉が、胸の真ん中で、やさしく広がる。


 窓から差し込む陽の光が、先輩の横顔を柔らかく縁取っていた。


「私、アクア部が好きです。なくしたくないから」


「……ああ。俺もだ」


 私は、カップに残った甘いミルクティーを飲み干して、そっと微笑んだ。


 部の未来は、まだ不確か。

 でも――こうして同じテーブルで未来の話ができる今が、とても嬉しかった。



 * * *



 イルカショー開始のアナウンスが、館内に明るく響いた。

 人の波がゆっくりと動き、私と先輩もその流れにまぎれる。


「……イルカショー、見てみるか? ここ、結構人気らしいぞ」


 海月先輩がそう言って、私の方を振り返る。


「……あ、はい……」


 返事は、どこか歯切れが悪かった。

 先輩はその横顔をちらりと見て、ほんの少し首をかしげる。


 ショーが始まる。

 合図に合わせて、イルカたちが水面から弧を描きながら跳び上がる。

 拍手と歓声。

 弾ける水しぶき。


「……ふく、イルカ嫌いなの?」


「いえ、好きなんです。すごく……でも、ちょっと可哀想かなって」


「可哀想?」


 先輩の眉が、かすかに動く。


「こんなに狭いところで、毎日ショーして……

 私だったら、嫌だなって」


「……イルカの気持ち考えてるのか? ぷっ……ははははは!」


「ちょ、なんでそこで笑うんですか!?」


 私がむっと頬をふくらませると、先輩は慌てて手を振った。


「いや、悪い。笑うつもりじゃないんだ。

 そう言う人、あんまりいないから。ちょっと意外でさ」


「……意外ですか」


 私は一度視線を落として、再びイルカを見つめる。


「だって、芸をしたら餌もらえるじゃないですか。

 言うこと聞いたら褒められる。

 それって……“餌で仲良くしてる”みたいで」


「ご褒美が欲しいんだろ、イルカだって」


「そうなんですけど……私は、そうじゃなくて。

 心で仲良くしたいんです。

 通じ合って、一緒にいたいんです。……わかります?」


 その言葉は、柔らかいのに、まっすぐだった。


 海月先輩は笑みを消し、真正面から私を見つめた。

 その瞳に宿る真剣さと、どこか痛みを知っているような優しさに――

 先輩が、思わず息を止めたのが分かった。


(……どこか凛に似てる。

 そうか、命のこと、ちゃんと考えてあげてるんだ)

(冷たい水槽の中で失われた命……。

 でも、ふくは違う。 命に、心で触れようとしている)


「……ふくって、ほんと面白いな」


「あれ? 今日は“変”じゃなくて“面白い”なんですね」


「うん。ちょっと見直した。」


 その一言に、私の頬がわずかに赤くなる。


 イルカがくるりと回転し、水面に光の筋を散らす。

 歓声は同じなのに、さっきよりもその背中が少しだけ寂しそうに見えた。

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