アベニーパンと作戦会議
部室の窓から、夕陽が差し込んでいた。
水槽の中では、あべとまめがゆらゆらと泳いでいる。
でも、私はずっと、扉の方を見ていた。
先輩は「ちょっとだけ遅れる」と言っていた。
それだけのはずなのに、胸の奥がそわそわして落ち着かない。
カツ、カツ、カツ……
廊下から足音が近づいてくる。
その音に、私は反射的に肩をすくめた。
「……っ」
心臓が、跳ねる。
喉がひゅっと狭くなる。
――あの時のことが、まだ身体に残っている。
近藤先生の声、目、空気。
足音が部室の前で一瞬止まり——
そのまま通り過ぎていった。
私は、そっと息を吐く。
「先輩、はやく来ないかな」
水槽の中で、あべがふわりと泡を吐いた。
まるで、私の気持ちを代わりに言ってくれたみたいに。
その時――
カチャリ。
扉の鍵が回る音。
ゆっくりと扉が開いた。
「お待たせ、ふく」
顔を上げる。
マスクを外した海月先輩が、夕陽に縁取られて立っていた。
その目も、声も、息づかいも――全部、“いつもの先輩”だった。
「先輩」
声は震えたけど、ちゃんと笑えた。
先輩は部室に入ってきて、私の隣に腰を下ろした。
「先輩、これ……一緒に食べましょう。アベニーパン、持ってきました」
「えっ、これ、ふくが作ったの?」
「違います。うち、パン屋なので……お母さんです」
「へぇ。ふくのお母さん、器用なんだな」
机の上に置いた小さな丸パン。
オレンジピールとチョコで模様が描かれ、
黄色いヒレはクチナシの砂糖漬け。
「アベニーの模様、ちゃんと再現してあるんだな。すごい」
「食べてください。ほんとに美味しいんですよ」
先輩がひと口、かじる。
「うまい」
胸の奥が、じんわりあたたかくなる。
「ほんとですか?」
「ほんと。ところで、ふくはパン作ったりはしないの?」
「私は、食べる専門ですから」
「はは。ふくらしいな」
むっと頬を膨らませると、先輩はふっと笑った。
その笑いは、そっと心の底に触れるように優しくて。
ゆっくりと、こわばっていたものがほどけていった。
水槽では、あべがくるりと回って、まめの後を追う。
夕陽がパンの表面を照らし、模様がアベニーの背中みたいに光った。
――ああ。
ここが、私の居場所だ。
そう思えた。
ほんの少し、呼吸が戻った。
「あの、先輩」
温かいお茶を飲み、私は意を決して口を開く。
「これからのことなんですけど、顧問の先生もいなくなちゃって、部員も足りなくて……」
「ああ、そうだな」
先輩の表情が、柔らかさから静かな真剣さへ戻る。
何かを言いかけた、その時――
キーンコーンカーンコーン。
校内放送が、下校時間を告げた。
「あ、もうこんな時間」
私たちは片付けをし、夕焼けの廊下を並んで歩いた。
靴音が二つ、響く。
さっきまでの温かさと、近藤先生の恐怖と、これからの不安。
全部が胸の中で混ざり合って、私は隣の先輩の横顔を、ただ盗み見るだけだった。
校門の前で、先輩がふと立ち止まった。
「ふく」
「はい?」
「さっきの続きなんだけどさ。明日、日曜だけど……時間、あるか?」
「に、日曜日……?」
「『アクア・リュミエール』って知ってる? アクアショップと水族館が一緒になってるとこ」
心臓が跳ねる音が、自分でも聞こえそうだった。
「あっ、知ってます! 私、行きたいって思ってて!」
先輩が少し照れたように笑う。
「そこで、ちゃんと話そう。部のこと。これからのこと」
(アクア・リュミエール)
(絶対フグいる! いるよね!)
(まめと同じ模様の子とか!)
「行きます! 絶対行きます!」
先輩が少し驚いたあと、柔らかく笑った。
「じゃあ明日の朝10時、駅前で」
「はい!」
先輩は手を振って夕焼けの中へ歩いていく。
私は弾む足取りで家へ向かった――が。
バス停に着き、一人になった瞬間。
(あれ?)
(明日って、日曜日、だよね?)
(先輩と、二人きりで?)
(私服で、水族館?)
「…………」
頭の中で単語が点滅する。
日曜日
二人
水族館
私服
かああああっ、と顔が燃える。
「こっ、これって……」
「デートのお誘いだったりするのおおおおお!?」
誰もいない帰り道に、私の叫びが響いた。
いやいやいや! 落ち着け私!
これは“部の未来”のための打ち合わせ!
だ、だよね?
胸の奥で、あべとまめがくるくると泳いでいた。
(明日、どんな服で行こう!)




