見守る手
放課後の部室。
水槽のポンプ音だけが、静かに響いていた。
あべとまめが、ゆらゆらと水草の間を泳いでいる。
でも、私の心は、どこか遠くにあった。
その時——
ガラリ。
部室の扉が、乱暴に開け放たれた。
「……っ!」
びくっと肩が跳ねる。
振り返るまでもなく、誰が来たかは分かった。
近藤先生だった。
缶コーヒーを片手に、気だるそうな顔。
でも、その目だけは、まっすぐ私へ。
「福原、ちょっと来なさい」
その声は、顧問が部員に向けるものではなかった。
ねっとりと絡みつくような響きに、足元がすくむ。
行きたくない。
でも、声が出ない。
――その時。
「待ってください」
海月先輩が、すっと私の前に立った。
まるで、盾みたいに。
「……何のご用ですか」
静かな声。
でも、確かに怒っていた。
「あ? 海月には関係――」
『――近藤先生。体育科、近藤先生。至急、校長室までお越しください』
校内放送が、部室の空気を切り裂いた。
近藤先生の眉が、ぴくりと動いた。
「……ちっ、タイミング悪いな」
舌打ちして、私たちを睨みつけて、部室を出ていく。
乱暴に閉められた扉の音が、やけに大きかった。
カツ、カツ、カツ……
靴音が廊下を遠ざかっていく。
私の膝は、今にも折れそうだった。
先輩の背中が、視界の中で揺れた。
* * *
校長室。
近藤先生は、校長の前に立っていた。
校長は、無言でスマホの画面を差し出した。
「……これは、どういうことですか」
画面に映るのは、近藤先生が送ったメールの文面。
件名はなく、本文にはこうあった。
――『明日の放課後、部室で二人きりで会計の確認しよう。忘れずに来るんだぞ』
女生徒に送るには、あまりにも不適切だった。
近藤先生は、しばらく言葉が出なかった。
「……いや、その……誤解で……」
苦しい言い訳は、空気に溶けていく。
* * *
「そろそろ、俺たちも行こうか」
海月先輩が立ち上がった。
「えっ……?」
私は、何が起きているのか分からないまま、先輩の後を追った。
校長室の扉を開けると——
もう、近藤先生の姿はなかった。
「海月君、君の言ったことは本当だったよ」
校長先生の声は、静かで、でも確かだった。
「福原さん、もう安心していい。近藤先生は、顧問から外した」
息が、震えた。
怖かった。
言えなかった。
でも今、ちゃんと――守られた。
校長先生は、そこで言葉を切った。
「ただ、アクア部は顧問が不在となった。
それに……部として認められるには、部員が最低三人は必要だ。
今のままでは、……存続は難しいかもしれないな」
「……!」
守られた。
でも、失うかもしれない。
そんな現実が、胸に刺さった。
「顧問も、部員も。
俺たちでなんとかします」
海月先輩が、まっすぐ言った。
その声は揺れていなかった。
「……そうか。行きなさい」
校長先生は、それ以上何も言わなかった。
* * *
二人で戻る廊下。
夕焼けが差し込む床が、長く、長く伸びていた。
張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。
「……っ、う……」
ダメ。
こんなところで。
「……う、うわぁ……っ」
一度溢れた涙は、止まらなかった。
怖かったこと。
先輩が守ってくれたこと。
顧問がいなくなったこと。
部活がなくなるかもしれないこと。
全部がごちゃ混ぜになって、私はただ、子供みたいに声を上げて泣いた。
「……先輩、ごめんなさい、私、私のせいで……部が……っ」
しゃくり上げる私の頭に、 そっと、温かいものが乗せられた。
「……違う。ふくのせいじゃないよ」
先輩は、私の頭をやさしく撫でた。
「よく頑張ったな、ふく」
涙で視界が滲んで、
私は先輩の胸に顔を埋めた。
夕陽が、少しだけ優しく見えた。




