静かなる正義
部室を一緒に出ると、夕方の風がひやりと頬を撫でた。
「ごほ、ごほ……」
横を歩く海月先輩が、小さく咳き込む。
マスクの奥の表情はよく見えないけれど、体調がいいとはとても言えなかった。
「先輩、熱……?」
気づいたら、私は背伸びして、先輩のおでこに手を伸ばしていた。
じんわりと、掌に熱が伝わる。
(熱い……!)
「先輩、すごい熱ですよ!」
「このくらい平気だって。水槽も見たし、もう帰るだけだろ」
いつもの調子で言うけれど、その声もどこか掠れている。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「平気じゃないです。これ、絶対無理しちゃダメなやつです」
私は慌ててスマホを取り出し、母に電話をかけた。
「お母さん? 今、大丈夫?」
『どうしたの、彩花』
「先輩が、まだ熱あって……。私、先輩の家まで送っていってもいい?」
『えっ、海月くん? 大丈夫なの、その子』
「全然大丈夫じゃないよ。マスクしてるけど、さっきおでこ触ったら、すごく熱くて……」
横目で先輩の横顔を見る。
ふらつかないように、わざとゆっくり歩いているのがわかった。
(全部、私のせいだ。)
電話の向こうで、母が小さく息を吐く音がした。
『わかった。暗くなる前にちゃんと送っていきなさい。
途中で寄り道しないこと。それから、またあとで様子教えて』
「うん。ありがとう、お母さん。ごめんね」
通話を切ると、海月先輩が少しだけ申し訳なさそうに、こちらを見た。
「いいよ、ふく。大丈夫だから。一人で帰れる」
「大丈夫じゃないです」
思わず、語尾が強くなる。
「無理しないでください。……私のせいで、本当にごめんなさい」
(これ以上、先輩に心配かけちゃダメ。
――電話のことは、今は……話せない)
喉の奥に、言葉にならない何かがつかえていた。
* * *
先輩を家まで送り届けて、自分の家の玄関を開けると、
いつものあたたかい匂いがふわっと漂ってきた。
夕飯のスープと、焼いたパンの香り。
玄関の灯りは柔らかくて、靴箱の上には、昨日と同じ家族写真。
「おかえり、彩花〜。大変だったわね。
海月くん、大丈夫だった?」
「うん」
「今朝作った“アベニーパン”……先輩、食べてくれた?」
その声は、何も知らない世界の声だった。
胸の奥が、ぎゅうっと縮む。
「……うん。今日は……無理だった」
「風邪だもんね。仕方ないわよ。
え? どうしたの? 彩花、何かあった?」
気づかれたくない。
言いたくない。
言ったら、また迷惑かけそうで。
「な、なんでもないよっ。ご飯できたら呼んで。
部屋で課題するから……」
「あ、ちょっと彩花――」
母の声を振り切って、階段を駆け上がった。
せいいっぱいの強がりだった。
ドアを閉めて、ベッドに身を投げる。
うつ伏せになったままシーツに顔を押しつけると、息が詰まりそうで、胸の奥がじんじん痛む。
耐えきれず仰向けに転がる。
天井の白さが目に刺さり、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。
(……なんで。
なんで私、言えないんだろう)
電話番号を聞かれたこと。
気持ちの悪い笑い方。
逃げたかったのに、逃げられなかった自分。
「……お母さんには言えないよ。
心配、かけたくないよ。こんなの、家で話したくないよ」
そう言い訳した言葉が、
自分を縛る鎖になっていた。
電話の通知音が怖い。
スマホの電源を切って、タオルケットを体に引き寄せる。
あたたかいはずの部屋なのに――
どうしようもなく、寒かった。
* * *
次の日、海月先輩は部室に来なかった。
代わりに近藤先生が来るんじゃないかと、少しだけ怖かったけれど――
その日は誰も来なかった。
そしてその翌日、放課後の部室。
水槽の前に座っていても、今日は
あべとまめの動きが、どこか遠くに感じた。
いつもなら「あべ〜」「まめ〜」と呼びかけていたはずなのに、
最近は、水面を見つめるだけ。
その瞳は、魚ではなく、遠くの何かを見つめているようだった。
「……ふく、休んでて悪かったな」
その声に、はっと顔を上げた。
海月先輩が、マスク姿で立っていた。
「せ、先輩……! もう大丈夫なんですか?」
「まあな。熱は下がった。……それより」
先輩は、まっすぐ私を見た。
指先は膝の上で固く結ばれ、肩はすぼまり、呼吸が浅い。
海月先輩は、ゆっくりと近づいて、水槽の隣にしゃがんだ。
「ふく。本当のことを言ってくれ。
俺に出来ることなら、何だってするから」
その言葉に、胸の奥の、ほどけかけた糸が震えた。
顧問の近藤に番号を聞かれたこと。
拒めなかったこと。
怖かったこと。
家でも言えなかったこと。
言葉にしていくほどに、喉が痛くなって、
うつむいた拍子に涙が落ちた。
でも先輩は、遮らなかった。
叱らなかった。
慰めの言葉すら言わなかった。
ただ——聞いてくれた。
全部、最後まで。
「……大丈夫だ。これは、お前が悪いんじゃない」
その言葉は、大きくなりすぎていた痛みを、そっと包むように沈んだ。
海月先輩はしばらく目を閉じ、
ゆっくり息を吸い込んだ。
「全部、俺に任せてくれ。俺が何とかするから」
その声は、静かで、確かだった。
* * *
――あとで先輩から聞いた話。
次の日の昼休み。
校長室の前で、海月は深く息を吸った。
「どうぞ」
ドアの向こうから校長先生の声がした。
「失礼します。少し、お時間をいただけますか」
海月は、静かに、しかしはっきりと話した。
「顧問の近藤先生が、部員の女子生徒に対して、
個人的な連絡先を強引に聞き出しました。
さらに“呼び出す”などの発言もあり、本人は強い不安を感じています」
校長先生は、眉をひそめた。
「……それは、事実かね?」
「はい。本人は証言できます。ただ、証拠が曖昧です。
先生の方から“直接メールを送るように”誘導していただけませんか。
もし不適切な内容があれば、それが証拠になります」
「……もし、近藤先生が何も送ってこなかったらどうするのかね?」
「生徒を利用する形にならないか?」
「……それでも、“学校が見ている”という事実が残ります。
それだけで、彼女は一人にならずに済みます。」
校長先生は、しばらく黙ってから、頷いた。
「わかった。私のメールアドレスを渡しておきなさい。 “連絡が取れないときは、こちらに”と伝えればいい」
* * *
その日の放課後。
私は、近藤先生に言った。
「……あの、もし電話に出られないときは、こちらに連絡してください」
差し出した紙には——
校長のメールアドレス。
(……怖い。でも、もう逃げない)
近藤先生は、何も疑わなかった。
「おう、助かる。
パン食べて悪かったな。
じゃあ後で送っとくな〜」
軽い声。
軽い笑い。
その“軽さ”が、全てを決めた。
* * *
その夜。
校長のスマホが震えた。
届いたのは——
女生徒に送るには相応しくない文面だった。
校長は、静かに画面を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
「……これは、学校として、見過ごすわけにはいかないな」




