表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ふくとアクア部の日常  作者: たんすい
第3章:黒いフードの翡翠色
19/63

出られなかった電話

 家に帰ると、キッチンからカチャカチャと包丁の音が聞こえてきた。

 甘い香りと一緒に、なんだか安心する匂いが漂ってくる。


「彩花、おかえり。今日はカボチャのグラタンだよ〜」

「え!? ほんと! 嬉しい! それ大好きなんだ」


 エプロン姿のお母さんが笑いながらテーブルを拭いている。

 リビングには父がいて、テレビを見ながらくつろいでいた。


「お、彩花、帰ったか。テレビ面白いぞ。一緒に見よう」

「うん! 着替えてからね」

「おう、早く着替えてこい」


 そんな他愛もないやり取りに、部屋の空気がふんわりとあたたかくなる。

 テレビに夢中なお父さんが、ふとこちらを振り向き、からかうように言った。


「ずいぶん夢中なんだな。将来は水族館の飼育員か?」

「……それもいいかも!」


 笑い声が重なる。

 あの部室の不気味な沈黙が、ほんの少し遠く感じた。


 食後、お母さんが思い出したように手を打つ。


「そうだわ、彩花。明日“アベニーパン”焼いてみようと思ってるの」

「えっ、アベニーパン?」

「ほら、あのフグの名前。あべとまめ? それにちなんで、丸くて小さくて、ちょっと塩気のあるパン。先輩、風邪なんでしょ? 元気出るようにね」

「ほんと!? やったぁ! 絶対喜ぶと思う!」


 胸が弾んだ。

 明日、海月先輩が元気になったら――また、笑って話せる。

 そう思うだけで、嫌な記憶が少しだけ薄れていく気がした。


 お風呂に入り、湯船に浸かると、今日の出来事が頭の中でぐるぐると回り始めた。


(……嫌なことはすぐ忘れる。それが私のいいところなんだ)


 温かいお湯が、強張った心まで溶かしていくようだった。


 お風呂から上がって部屋に戻ると、机の上でスマホが震えていた。

 通知の光が、壁にぼんやりと反射している。


(……先輩かな?)


 画面を見ると、そこに表示された名前に息が止まった。


 ――近藤先生。


 指が、スマホに触れたまま動かない。

 出られない。出たくない。

 でも、無視していいのかもわからない。


 温まっていたはずの手が、急速に冷えていく。

 指先が震えて、画面を押せない。


 頭の中で、あの低い声が蘇る。

「ほら、早く」――そう言われた瞬間の、あの冷たい圧。


(出たら、何を言われるんだろう……)

(“呼び出す”って、言ってた……)


 ブルルル……ブルルル……


 呼び出し音が止まる。

 静寂が戻る。けれど、胸の鼓動だけがやけにうるさい。


 私はスマホを伏せ、布団に潜り込んだ。

 まぶたの裏で、あべとまめが静かに泳いでいる。

 その姿だけが、私を守ってくれている気がした。


 翌朝。

 重たい気分のまま学校に着くと、海月先輩はまだ風邪で休みだった。


(先輩、今日もお休みか……)


 部室に入ると、あの音が聞こえてきた。


 ――カツ、カツ、カツ。


 がらり。


 ドアが開いた。

 昨日と同じリズムの靴音。


 ゆっくり振り返ると、近藤先生が立っていた。


「――なんで、昨日出なかったんだ」


 低い声が、静かな部室に響く。

 私は、喉の奥がキュッと締まるのを感じた。


「……すみません。ちょっと、気づかなくて」

「大切な部の連絡だったんだぞ。ちゃんと出ろよ」


 机の上に置いていた、母が作ってくれたアベニーパン。

 ラップに包んで、「海月先輩へ」と書いた小さなメモを添えていた。


 先生がそれを見つけた。


「お、パン? もらうぞ」


「あっ、それ……! 先輩に渡そうと思って……!」


 言いかけたけれど、もう遅かった。

 先生は、もぐもぐとパンを頬張りながら、缶コーヒーを開けていた。


「へえ。お前、こんなの作るのか」


 その姿を見て、胸の奥が、じくりと痛んだ。


「……っ」


 喉が詰まって、何も言えなかった。

 言ったらまた、あの目で見られる気がして。


「美味いけど、少ししょっぱ過ぎだな」


 先生は笑いながら、指についたパン屑をぱんぱんとはたいた。

 そのまま、何事もなかったみたいに立ち上がろうとした――そのときだった。


 ――どんっ。


 拳でドアを殴りつけたみたいな、大きな音が部室に響いた。


「えっ……」


 私と近藤先生は、ほとんど同時にそっちを振り向く。


 ドアのところに、海月先輩が立っていた。


 マスクをしたまま、どこかふらついて見える。

 風邪はまだ治っていないはずなのに、その視線だけは真っ直ぐ近藤先生に突き刺さっていた。


「近藤先生。まだ、こんな狡いことしてるんですか」


 低く押さえた声なのに、背筋がぞくっとする。


「う、海月っ……ごほっ、げほっ!」


 近藤先生はあからさまにうろたえて、喉にパンを詰まらせた。

 コホコホと咳き込みながら、慌てて缶コーヒーで流し込む。


「な、何の話だよ。これは、その……ただの、置いてあったパン――」


「じゃあ、そのラップに書いてある文字。なんて書いてあるんです? 読みましょうか?」


 海月先輩は、すたすたと近づき、先生の手からくしゃっと丸まったラップをひったくった。

 指先で広げて、さらっと読む。


「『海月先輩へ』」


 部室の空気が、ぴたりと止まった。


「一年生が、俺への差し入れにしようとしたものを、顧問が勝手に食べた。

 ……それ、“ただの置いてあったパン”なんすか?」


「っ……」


 近藤先生の顔が、さっと引きつる。


 海月先輩は、ラップを持ったまま目を細めた。


「凛のときもだ。散々やらかして、問題になって……本当に懲りない人だな、あんたはっ!」


「な、なんだ、先生をあんた呼ばわりとは……ゆ、許さんぞ!」


「じゃあ、このまま職員室行きましょうか。

 今の話、全部まとめて生徒指導の先生に相談します。

 ついでに“先輩へのパン”の件も」


 さらっと言われた言葉に、近藤先生の喉がごくりと鳴ったのが、ここからでもわかった。


「お、おい、海月。そんな大げさな話じゃ――」


「大げさかどうか決めるのは、生徒じゃなくて、大人側ですよ」


 ぴしゃりと切り捨てるような声。

 その瞬間、私の中で何かがはじけた。


「あのっ……!」


 気づいたら、私は立ち上がっていた。


「それ……海月先輩に渡そうと思ってたんです。

 風邪ひいてるって聞いたから、お母さんにお願いして……」


 涙で視界が滲む。声も震える。それでも、止まらなかった。


「だから、勝手に食べないでほしかったです」


 部室の中に、私の言葉だけがぽつんと残る。


 近藤先生はしばらく黙っていたけれど、やがて観念したようにため息をついた。


「……っち。悪かったよ、福原。

 その……勝手に食べて」


 形だけの謝罪かもしれない。

 でも、ちゃんと「悪かった」と言わせた。


 近藤先生は、逃げるように部室を出ていった。

 足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。


 ドアが閉まると、ようやく私は、大きく息を吐いた。


「ふく。……よく言ったな」


 気づくと、海月先輩がすぐそばに立っていた。


「こ、怖かったです……」

「怖くて当たり前だろ。ああいう大人に、真っ向から物言える高校生なんて、そういない」


 海月先輩は、ふっと目元だけで笑った。


「でも、“嫌だった”って言葉にできたのは、ちゃんと強いことだ。覚えとけ」


 そう言って、私の頭をぽん、と軽く叩くと、くるりと背を向ける。


「近藤のことは、俺も見張っとく。何かあったら、すぐ言え」


 先輩の言葉に、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。

 急に足の力が抜けて、膝ががくんと折れる。


「っ、危ない」


 床に座り込みそうになった私の体を、先輩の腕がぐっと引き寄せた。

 鼻先に触れたのは、制服の生地と、ほんの少しの汗の匂い。


「……悪かったな、ふく」


 頭の上から、悔しそうな声が降ってくる。


「せっかくのパンだったのに……俺が食べたかったよ」


 その一言が、何よりも嬉しかった。

 食べられちゃったけど、私の気持ちは、ちゃんと届いていたんだ。


(本当は、先輩に、食べてほしかったのに)


「先輩っ……うぅ……」


 安堵と嬉しさが一気に溢れて、もう我慢できなかった。

 私は先輩のシャツをぎゅっと握りしめて、その温かい胸の中で声を上げて泣いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ