缶コーヒーのカチリ
放課後。アクア部の部室。
海月先輩は風邪で欠席。
私は一人で水槽の掃除をしていた。
コポコポと泡の音だけが響く。
静かな水槽の中で、あべとまめがゆっくりと泳いでいる。
「……あべ、まめ。今日も元気そうだね」
誰もいないはずの部室。
でも、誰かに聞かせたくなるような声で、つい話しかけてしまう。
ガラスに映る自分の顔が少しだけ笑っていた。
なんだか、この静けさも悪くない――そう思った、そのとき。
――カツ、カツ、カツ。
廊下の向こうから、ゆっくりと近づいてくる靴音。
(あ、先輩だ……!)
胸がふわっと軽くなる。
今日は休みって言ってたけど、やっぱり気になって来てくれたのかな――
そんな期待が、勝手に膨らんでいく。
「先輩!」
嬉しさのあまり、勢いよく振り返って扉へ駆け寄った。
がらり。
開いたドアの向こうに立っていたのは、ジャージ姿の男。
缶コーヒーの缶が、カチリと鳴る。
その音が、部室の静けさを乱すように響いた。
缶コーヒーを片手に、だらしなく立つ――近藤先生。
「――お、いたいた。福原」
瞬間、胸の中の明るい熱が、すうっと引いていく。
水槽のモーター音が、妙に遠くに聞こえた。
「……先生」
笑顔を作ろうとしたけれど、口元が少しだけ引きつった。
それでも、笑っていれば大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
でも、胸の奥では小さな警報が鳴り始めていた。
「海月は?」
「先輩、今日はお休みです」
「ふーん。じゃあ一人か」
先生は勝手に部室に入り、まるで自分の部屋のように机に腰をかけた。
缶コーヒーを一口啜り、気だるそうに口を開く。
「お前さ、連絡取りたい時あるからさ、スマホの番号、教えといてくれる?」
その言葉に、手がピタリと止まった。
水槽の中では、あべとまめがゆっくりと泳いでいる。
でも、胸の奥で何かがざわりと揺れた。
「……あの、連絡は部活のグループLINEでできると思いますけど……」
なるべく穏やかに、でもはっきりと答えたつもりだった。
先生は笑った。けれど、その笑顔は目元まで届いていなかった。
「いやいや、先生のスマホ、LINE入ってないんだよ。それに、あんまり詳しくないしさ」
(嘘だ。先生が休み時間にSNS見てるの、何度も見た)
でも、言えなかった。
言ったら、空気が変わってしまう気がした。
「……あの……」
言葉が詰まる。
先生は、笑ったままスマホを取り出し、画面を見せてくる。
「ここに入れといてくれればいいから。ほら、早く」
その言い方は冗談のようでいて、どこか強引だった。
私は、断る理由を探した。けれど、見つからなかった。
部室には、私しかいない。
水槽の音だけが、静かに響いている。
私はスマホを取り出し、震える指で番号を打ち込んだ。
ピロン、と音が鳴る。
その通知音が、部室の静けさを切り裂いた。
「そうそう、これから福原、お前が会計頼むわ。これからちょくちょく呼び出すから、ちゃんと来いよ」
冗談めかした口調。
でも、その中にあったのは“命令”の響きだった。
“呼び出す”――その言葉が、胸の奥に冷たい水を流し込む。
“ちゃんと来いよ”という言い方が、逃げ場を塞ぐように聞こえた。
笑おうとした。けれど、口元がうまく動かなかった。
「……あの、会計って、部活の予算とかは先輩が……」
「お前がやればいいよ。これで連絡もすぐ取れるしな」
先生は、缶コーヒーを一口飲みながらスマホを見て、ニヤリと笑った。
その笑顔は、どこか“確認済み”のような、妙な安心感を帯びていた。
私は、何も言えなかった。
水槽の中で、あべとまめが水草の影に隠れる。
私も――そこに隠れたくなった。




