導入の儀式 ― 水面の誓い ―
部室に戻ると、いよいよ“導入の儀式”が始まった。
水槽の前に立つ海月先輩が、真剣な表情で言う。
「いいか、ふく。購入したフグをいきなり水槽に入れたりしたら、ショック死することがある。命を迎えるには、段取りが必要なんだ」
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。
たった今、自分が“命を預かる側”になったことを、改めて実感する。
先輩の手には、あべとまめの入ったビニール袋。
それをそっと水槽に浮かべると、袋はぷかぷかと揺れながら、水面に馴染んでいく。
「これが水温合わせ。水槽の水と袋の中の水温を、ゆっくり同じにしていくんだ」
「魚って……大変なんですね。私なら熱い風呂にでもドボンって入れちゃいますけど」
先輩は苦笑して、静かに首を振った。
「魚は急激な変化に弱い。特に熱帯魚は、常に一定の水温で暮らしてる。人間とは違うんだ」
その声音には、命に対する確かな敬意があった。
「だから、水温合わせ。そしてその後の“水質合わせ”は、絶対に手を抜くな」
私はゴクリと唾を飲み込み、背筋を伸ばした。
「は、はいっ! 気をつけます!」
「水温合わせは、ビニールのまま三十分。浮かべて待つだけだ。……それまで、好きなことでもしていろ」
私は水槽の前にしゃがみ込み、袋の中で揺れるあべとまめをじっと見つめた。
小さな体が、ビニール越しにくるくると泳ぐ。
その姿が、まるで新しい世界を覗いているみたいで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「……大丈夫かな。怖くないかな」
思わず漏れた独り言に、隣から静かな声が届く。
「お前がここまで準備したんだ。きっと、気に入ってくれるさ」
気づけば、先輩がすぐ隣に腰を下ろしていた。
水面に反射した光が、二人の頬を淡く照らす。
水槽の中では、リムノフィラ・インディカが静かに揺れていた。
そのふくふくとした葉の影は、まるでフグたちのためのベッドのようで――。
私はそっと囁いた。
「ようこそ、あべ。ようこそ、まめ。あなたたちの、おうちだよ」
* * *
「三十分経ったな。次は“水合わせ”だ。」
「水合わせ? 水温だけじゃないんですね?」
「当然だ。水には“水質”ってものがある。酸性とか中性とかアルカリ性とか。
この水槽だと――だいたい酸性、pH6.5くらいだな。」
「また、新しい知らない言葉が出てきましたね……。ぺーはーって、なんです?」
私の質問に、先輩は苦笑しながらも、丁寧に説明を始めてくれた。
「pHってのは、水の性質を表す値だ。中性が7.0、これを基準にして、
それより下がると酸性、上がるとアルカリ性になる。つまり――」
先輩は、軽く指で水面をなぞりながら言葉を続けた。
「数字一つで、水の世界は、まるっきり変わるんだ。
フグにとっては、それが生きるか死ぬかの境界線にもなる。」
「水の世界って……奥が深いですね」
私が感心している間に、先輩はプラスチックのカップを手に取り、水槽の水を少しすくった。
「このカップで少しずつ、水槽の水を袋に入れていく。
いきなり全部変えるとショックが大きいから、五分おきに少しずつ――。
フグたちが新しい水に慣れていくのを、ゆっくり見守るんだ。」
そう言いながら、先輩は慎重に――一杯、また一杯と水を注いでいく。
その手つきはまるで、何かを育てる園丁のようだった。
私は横で見ながら、思わず息を呑む。
(先輩って、本当に生き物に優しいんだ……)
静かな水音。
袋の中で、あべとまめが新しい水に触れ、少しずつ動きを変えていく。
最初は慎重に、やがて好奇心を見せるように、小さく尾を振った。
「……あ、動いた! なんだか嬉しそうです!」
「うん、いい反応だ。もう少ししたら――彼らの新しい家だな。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がふわりと温かくなる。
「次は、私にもやらせてください!」
私は祈るような気持ちで、カップを手に取った。
水槽の水を、ほんの少しずつ袋の中へ。
ゆっくり、ゆっくり。
まるで、壊れやすいガラス細工を扱うみたいに。
時間が止まったように、静かだった。
ただ、水が混ざり合う音だけが、私たちの間を満たしていた。
――水槽と袋の境界。
そこは、ふくとフグの世界を繋ぐ、ほんのわずかな“境界線”だった。
そして、ついにその瞬間が来た。
袋をそっと傾け、あべとまめを「ふくの城」へと解き放つ。
指先が少し震えていた。
でも、袋の中の水が水槽に溶けていくのを見ていると、不思議と心が静かになった。
豆粒よりも小さな二つの命が、広々とした水槽の中を――少し戸惑いながらも、元気に泳ぎ始めた。
その瞬間、私は改めて息を呑んだ。
あまりの小ささ。
あまりの儚さ。
こんな小さな体で、一生懸命に生きているんだ……!
「おめでとう、ふく」
「ありがとうございます、先輩!」
先輩の声には、どこか誇らしげな温もりがあった。
――それからの日々は、夢のように過ぎていった。
冷凍アカムシをピンセットでつまんで水槽に入れると、あべもまめも、小さな口をもぐもぐ動かして食べてくれる。
「か、可愛い……! 意外と飼育って簡単かも!」
私はすっかり安心しきっていた。
一週間も経つ頃には、私が水槽の前に立つだけで、二匹そろって「餌くれダンス」を踊りながら近づいてくるようになった。
「あべ、まめ、おはよう! 今日も元気いっぱいだね!」
水槽に話しかけるのが、いつしか私の日課になっていた。
そんなある日の放課後。
海月先輩が、悪戯っぽい笑みを浮かべて、小さな容器を差し出してきた。
「ほら、ふく。俺の水槽で増えすぎた厄介者だが、お前のチビたちにはご馳走だ。
サカマキガイ、入れてみろ。面白いことになるかもよ」
「サカマキガイ……? 貝ですか?」
半信半疑で、その小さな巻貝を水槽にポチャンと落とした――次の瞬間。
あべの目が、獲物をロックオンしたスナイパーみたいに、きゅっと中央に寄った!
そして、小さな口をもぐもぐ動かしながら、ゆっくりと貝に忍び寄っていく。
「きゃーっ! 寄り目になってる! なにこれ、すっごく可愛いっ! 先輩も見てください!」
フグって、こんな表情するんだ……!
小さな命の中に、こんなに豊かな感情があるなんて。
私は思わず手を叩き、水槽に顔をくっつけて、その一挙一動を見守った。
「ほらな、言っただろ?」
先輩が、したり顔で小さく笑う。
「まあ、アカムシが主食なのは変わらんが、たまにはこういう“生餌”も喜ぶんだ。
食生活に変化をつけるのも、飼育の醍醐味の一つだ。色々試してみるといい」
気だるそうに言いながらも、その声には確かな知識と経験が滲んでいる。
「先輩って、魚のこと、なんでも知ってるんですね! 尊敬します!」
私が目を輝かせて言うと、先輩はぶっきらぼうに肩をすくめた。
「まあ……これくらいはな」
その口元には、ふっと優しい笑みが浮かんでいた。




