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ふくとアクア部の日常  作者: たんすい
第3章:黒いフードの翡翠色
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導入の儀式 ― 水面の誓い ―

 部室に戻ると、いよいよ“導入の儀式”が始まった。


 水槽の前に立つ海月先輩が、真剣な表情で言う。


「いいか、ふく。購入したフグをいきなり水槽に入れたりしたら、ショック死することがある。命を迎えるには、段取りが必要なんだ」


 その言葉に、私は思わず息を呑んだ。

 たった今、自分が“命を預かる側”になったことを、改めて実感する。



 先輩の手には、あべとまめの入ったビニール袋。

 それをそっと水槽に浮かべると、袋はぷかぷかと揺れながら、水面に馴染んでいく。


「これが水温合わせ。水槽の水と袋の中の水温を、ゆっくり同じにしていくんだ」


「魚って……大変なんですね。私なら熱い風呂にでもドボンって入れちゃいますけど」


 先輩は苦笑して、静かに首を振った。


「魚は急激な変化に弱い。特に熱帯魚は、常に一定の水温で暮らしてる。人間とは違うんだ」


 その声音には、命に対する確かな敬意があった。


「だから、水温合わせ。そしてその後の“水質合わせ”は、絶対に手を抜くな」


 私はゴクリと唾を飲み込み、背筋を伸ばした。


「は、はいっ! 気をつけます!」


「水温合わせは、ビニールのまま三十分。浮かべて待つだけだ。……それまで、好きなことでもしていろ」


 私は水槽の前にしゃがみ込み、袋の中で揺れるあべとまめをじっと見つめた。


 小さな体が、ビニール越しにくるくると泳ぐ。

 その姿が、まるで新しい世界を覗いているみたいで、胸の奥がじんわりと温かくなった。


「……大丈夫かな。怖くないかな」


 思わず漏れた独り言に、隣から静かな声が届く。


「お前がここまで準備したんだ。きっと、気に入ってくれるさ」


 気づけば、先輩がすぐ隣に腰を下ろしていた。

 水面に反射した光が、二人の頬を淡く照らす。


 水槽の中では、リムノフィラ・インディカが静かに揺れていた。

 そのふくふくとした葉の影は、まるでフグたちのためのベッドのようで――。


 私はそっと囁いた。


「ようこそ、あべ。ようこそ、まめ。あなたたちの、おうちだよ」


 * * *


「三十分経ったな。次は“水合わせ”だ。」


「水合わせ? 水温だけじゃないんですね?」


「当然だ。水には“水質”ってものがある。酸性とか中性とかアルカリ性とか。

 この水槽だと――だいたい酸性、pH6.5くらいだな。」


「また、新しい知らない言葉が出てきましたね……。ぺーはーって、なんです?」


 私の質問に、先輩は苦笑しながらも、丁寧に説明を始めてくれた。


pHペーハーってのは、水の性質を表す値だ。中性が7.0、これを基準にして、

 それより下がると酸性、上がるとアルカリ性になる。つまり――」


 先輩は、軽く指で水面をなぞりながら言葉を続けた。


「数字一つで、水の世界は、まるっきり変わるんだ。

 フグにとっては、それが生きるか死ぬかの境界線にもなる。」


「水の世界って……奥が深いですね」


 私が感心している間に、先輩はプラスチックのカップを手に取り、水槽の水を少しすくった。


「このカップで少しずつ、水槽の水を袋に入れていく。

 いきなり全部変えるとショックが大きいから、五分おきに少しずつ――。

 フグたちが新しい水に慣れていくのを、ゆっくり見守るんだ。」


 そう言いながら、先輩は慎重に――一杯、また一杯と水を注いでいく。

 その手つきはまるで、何かを育てる園丁のようだった。


 私は横で見ながら、思わず息を呑む。


(先輩って、本当に生き物に優しいんだ……)


 静かな水音。

 袋の中で、あべとまめが新しい水に触れ、少しずつ動きを変えていく。

 最初は慎重に、やがて好奇心を見せるように、小さく尾を振った。


「……あ、動いた! なんだか嬉しそうです!」


「うん、いい反応だ。もう少ししたら――彼らの新しい家だな。」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がふわりと温かくなる。


「次は、私にもやらせてください!」


 私は祈るような気持ちで、カップを手に取った。

 水槽の水を、ほんの少しずつ袋の中へ。

 ゆっくり、ゆっくり。

 まるで、壊れやすいガラス細工を扱うみたいに。


 時間が止まったように、静かだった。

 ただ、水が混ざり合う音だけが、私たちの間を満たしていた。


 ――水槽と袋の境界。

 そこは、ふくとフグの世界を繋ぐ、ほんのわずかな“境界線”だった。



 そして、ついにその瞬間が来た。


 袋をそっと傾け、あべとまめを「ふくの城」へと解き放つ。


 指先が少し震えていた。

 でも、袋の中の水が水槽に溶けていくのを見ていると、不思議と心が静かになった。


 豆粒よりも小さな二つの命が、広々とした水槽の中を――少し戸惑いながらも、元気に泳ぎ始めた。


 その瞬間、私は改めて息を呑んだ。

 あまりの小ささ。

 あまりの儚さ。

 こんな小さな体で、一生懸命に生きているんだ……!


「おめでとう、ふく」


「ありがとうございます、先輩!」


 先輩の声には、どこか誇らしげな温もりがあった。


 ――それからの日々は、夢のように過ぎていった。


 冷凍アカムシをピンセットでつまんで水槽に入れると、あべもまめも、小さな口をもぐもぐ動かして食べてくれる。


「か、可愛い……! 意外と飼育って簡単かも!」


 私はすっかり安心しきっていた。

 一週間も経つ頃には、私が水槽の前に立つだけで、二匹そろって「餌くれダンス」を踊りながら近づいてくるようになった。


「あべ、まめ、おはよう! 今日も元気いっぱいだね!」


 水槽に話しかけるのが、いつしか私の日課になっていた。


 そんなある日の放課後。

 海月先輩が、悪戯っぽい笑みを浮かべて、小さな容器を差し出してきた。


「ほら、ふく。俺の水槽で増えすぎた厄介者だが、お前のチビたちにはご馳走だ。

 サカマキガイ、入れてみろ。面白いことになるかもよ」


「サカマキガイ……? 貝ですか?」


 半信半疑で、その小さな巻貝を水槽にポチャンと落とした――次の瞬間。


 あべの目が、獲物をロックオンしたスナイパーみたいに、きゅっと中央に寄った!

 そして、小さな口をもぐもぐ動かしながら、ゆっくりと貝に忍び寄っていく。


「きゃーっ! 寄り目になってる! なにこれ、すっごく可愛いっ! 先輩も見てください!」


 フグって、こんな表情するんだ……!

 小さな命の中に、こんなに豊かな感情があるなんて。


 私は思わず手を叩き、水槽に顔をくっつけて、その一挙一動を見守った。


「ほらな、言っただろ?」


 先輩が、したり顔で小さく笑う。


「まあ、アカムシが主食なのは変わらんが、たまにはこういう“生餌”も喜ぶんだ。

 食生活に変化をつけるのも、飼育の醍醐味の一つだ。色々試してみるといい」


 気だるそうに言いながらも、その声には確かな知識と経験が滲んでいる。


「先輩って、魚のこと、なんでも知ってるんですね! 尊敬します!」


 私が目を輝かせて言うと、先輩はぶっきらぼうに肩をすくめた。


「まあ……これくらいはな」


 その口元には、ふっと優しい笑みが浮かんでいた。

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