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ふくとアクア部の日常  作者: たんすい
第3章:黒いフードの翡翠色
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アベニーパファーお迎えの日

 水槽の濾過を立ち上げるために、先輩と約束した一週間が――ついに過ぎた。


 そして今朝。


 パチッと目が覚めた瞬間、脳裏に浮かんだのはただ一つ。


(今日、あのアベニーパファーをお迎えできるんだ!)


 ベッドから跳ね起きる。窓から差す朝の光さえ、今日は祝福みたいに見えた。


「アベニー、アベニー、まっててねっ♪」


 即興のメロディを口ずさみながら階段を駆け下りる。


 リビングにはパンの焼ける香ばしい匂い。

 お母さんが振り向き、嬉しそうに目を細めた。


「今日は一段と早いじゃない」

「だって今日なんだよ! アベニーが来るの!」


「そう。ずっと楽しみにしてたもんね。……お祝いに“アベニーパン”、焼こうかな」

「え!? 本当に!? 先輩にも見せたい!」


 パンを頬張り終える頃には、胸の高鳴りがもう抑えきれなかった。


「いってきます!」

「いってらっしゃい。気をつけてね、彩花」


 その声を背に、私は玄関を飛び出した。


 この日のために、先輩と二人。

 あのちょっぴり埃っぽいけど秘密基地みたいな部室で、来る日も来る日も、水槽の神様のご機嫌をうかがいながら準備を重ねた。

 今日という日は、私にとってまさしく“運命の記念日”だ。


 放課後のチャイムが鳴り終わるのを待ちきれず、部室へ駆け込む。

 まだ誰もいない。

 主役の登場を待つ舞台のように静まり返った『ふくの城』が、コポコポと命の産声みたいな泡を立てていた。


 やがて、部室のドアがゆっくりと開く。


「――よし、行くか」


 鼓膜を震わせたのは、低くて静かな、それでいて不思議な安心感を与えてくれる先輩の声だった。

 夕陽が埃っぽい机の列の向こうから淡く差し込み、先輩のシルエットを黄金色に縁取っている。


 水槽から聞こえるコポコポという水の音が、私の高鳴る鼓動とシンクロするようだった。


「海月先輩っ! 早く行きましょう! アベニーパファーたちが、私たちを待っていますよ!」


 逸る気持ちを抑えきれず、私は先輩の袖をちょんちょんと引っ張る。

 先輩は、そんな私を面白がるように目を細め、気だるそうに――でもその声色には確かな優しさを乗せて言った。


「焦るな、ふく。楽しみで仕方ないのは分かるが、逸る気持ちはフグにも伝わるぞ?」


「だって、本当にフグが好きになってしまいました! 世界で一番!」


 胸を張って即答すると、先輩は「知ってるよ」とでも言うように小さく笑った。

 つられて私も笑い返すと、その無防備な笑顔に胸の奥が、きゅんと甘く締めつけられた。


(こ、これって……いやいや、気のせいだよねっ!?)


 先輩と一緒にたどり着いたアクアショップは、何度来ても圧倒される別世界だった。

 壁一面に並ぶ水槽、水槽、水槽!

 色とりどりの熱帯魚たちが優雅に舞い泳ぎ、店内に響く無数の水音が、まるで心を洗い流すヒーリングミュージックのようだ。


 私は他の魚には目もくれず、一目散にアベニーパファーの水槽へダッシュした。


「はぁ……よかったぁ……まだ、いました……!」


 小さなガラスケースの中で、豆粒みたいな子たちがちょこまかと泳いでいる。

 その姿を見た瞬間、安堵のため息が漏れた。


「慌てるな。ちゃんと元気そうな個体を選べよ」


 先輩が、いつもの落ち着いた声で背後からアドバイスをくれる。

 私は水槽に顔をぐっと近づけ、目を皿のようにして一匹一匹を観察した。

 二十匹ほどが小さな群れを作って泳いでいる。


(ああ、どの子も可愛くて選べない……)


 すると、先輩がすっと水槽のガラスを指さした。


「ほら、あれがオス。で、こっちがメスだ」


「えっ!? 先輩、オスとメスって見ただけで分かるんですか!?」


 まるで魔法使いみたいだ。

 私の尊敬の眼差しに気づいたのか、先輩は少しだけ口角を上げて、ほんのり自慢げに解説してくれた。


「まあな。オスは目の周りに、こう、白いシワが多い。体の斑点が尾びれの方までくっきり伸びてる。

 メスは見ての通り、全体的にまるっとして、側面のスポットが丸いんだ」


「やっぱり先輩って凄い! 何でも知ってるんですね!」


 私が素直に感嘆の声を上げると、先輩はふっと視線を遠くに向け、少しだけ寂しそうに呟いた。


「……といっても、俺も凛に教えてもらっただけなんだ」


 その言葉に、胸がちくりと痛む。


 やがて、私は意を決して指をさした。


「こ、このキリッとした目のオスの子と、この丸くておっとりしてそうなメスの子がいいです!」


 こうして――我が『ふくの城』の最初の住人、オスの「あべ」とメスの「まめ」が決定した!


 店員さんが手際よく二匹をビニール袋に移してくれる。

 袋の中で、少し不安そうに、でも元気に泳ぐ姿を見て、私は心の中でそっと囁いた。


(あべ、まめ。これからよろしくね)


 ビニール越しの水が光を受けてきらりと揺れ、

 その小さな命たちは、まるで新しい世界への扉を、今まさに開こうとしているように見えた。

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