アクア部の日常(其の一)
アベニパファーの水槽の濾過を立ち上げるまでの1週間…
1日目:気まずいおはようと、ピンク色のシグナル
昨日の出来事が、まだ瞼の裏に焼き付いている。
先輩の寂しそうな横顔。こらえきれずに溢れた私の涙。そして、困ったように差し出された、温かいハンカチ。
(……どんな顔して会えばいいんだろう)
翌日の放課後、部室の扉の前で、私は大きく深呼吸をした。心臓が、昨日とは違う意味でドキドキと音を立てている。意を決して扉を開けると、静かな水音と共に、いつものように窓際に立つ先輩の姿が目に入った。
お互い目があったもののすぐに言葉が出てこない。
「……や、やあ、ふく」
「……せ、先輩っ……あ、あの、昨日は……っ」
先に声をかけてくれたのは先輩だったけど、その声はいつもより少しだけ硬い。私も私で、緊張のあまり声が裏返ってしまった。気まずい沈黙が、埃っぽい空気に重くのしかかる。
何か、何か話さなきゃ。そう思った私は、洗い立てのハンカチをぎゅっと握りしめ、先輩の元へ駆け寄った。
「せ、先輩!これ、ありがとうございました!ちゃんと洗って、アイロンもかけました!」
差し出されたハンカチを見て、先輩は少しだけ目を丸くすると、ふっと息を漏らすように笑った。
「……あ、ありがとう。別にそこまでしなくてもよかったのに」
その、ほんの少しだけ和らいだ表情に、私もようやく肩の力が抜けていく。
「さて、と。……感傷に浸るのは昨日までだ。やるぞ、ふく」
「はいっ!」
先輩が指さしたのは、私が立ち上げるはずの水槽だった。
「まずは水質検査も覚えないとだな。そのシートの、色が変わる部分を水に浸してみろ」
言われた通り、まだ空っぽのガラスの世界にシートを浸すと、紙片は瞬く間に鮮烈なピンク色に変わっていく。
「わっ……ピンク色に変わりました!綺麗な色ですね」
背後から覗き込んだ先輩が、静かに頷いた。
「……アンモニア値、振り切ってるな」
「えっ……アンモニアってどうしてです? それってそんなにヤバことなんですか?」
「そうだな、入れたらフグが星になるかもだな」
私は思わず目を丸くする。
「ええええええ!?星になるって……死んじゃうってことですか!?」
私の狼狽ぶりに、先輩は「だから焦るなって」と、呆れたように、でもどこか優しい声で言った。
「まだ1日目だ。ここからバクテリアが仕事をして、水槽の神様のご機嫌が直るのを待つんだ」
「水槽の神様、はやくアベニーが飼える環境になって下さい!!」
私の変なお願いにもふっと微笑む海月先輩。
その不意に見せた柔らかな表情に、胸の奥が微かに熱を持つ。
水槽の危機を示す鮮やかなピンク色よりも、すぐ隣にある先輩の横顔の方が、よほど私の心を乱す危険なシグナルだということに、私は気づいてしまった。
2日目:甘くて危険なふぐの罠!?
その日の部室の扉を開けると、甘い香りがふわりと鼻孔をくすぐった。見れば、先輩が水槽の横で、コンビニの袋から取り出したであろうシュークリームを頬張っているではないか。
「せ、先輩!それはいったい……!?」
「ん?ああ、これか。新作が出たんだ。楽しみにしてたんだよ」
先輩はもぐもぐと口を動かしながら、気だるそうに答える。その姿は、いつものクールな先輩とは少し違って、なんだか可愛らしく見えてしまう。
「奇遇ですね、先輩!実は今日、私もとっておきのスイートなウェポンを持ってきたんですよ!じゃじゃーん!『ふぐのお汁粉』ですっ!」
私は得意げにカバンからピンク色の可愛らしいパッケージを取り出した。その瞬間、シュークリームを咀嚼していた先輩の動きがピタリと止まった。
「……は?ふ、ふぐの……お汁粉って、そんなのあるんだ……」
先輩が、かつてないほど目を丸くして絶句している。その反応が面白くて、私はさらに畳み掛けた。
「ふふふ、実はあるんですねー、これが!甘くてとってもデリシャスなんですよ?先輩も一口いかがです?」
「い、いいのか?……。そこまで言うなら、試してみようかな……」
先輩は若干引き気味ながらも、未知なるスイーツへの好奇心には抗えなかったようだ。私は早速、給湯室でお湯を注ぎ、準備を始める。
「いいですか、先輩?このお汁粉の真髄はですね、こうやってお湯を注いだ後、ふぐの形をした最中のお腹をですね……優しく、こう……ぐさっと!」
私がスプーンでふぐの最中を勢いよく潰すと、
「ちょ、ヤバイって、潰すのかよ!?」
先輩の鋭いツッコミが飛んできた。
「はい!そうすると中から、とろ~りとした魅惑のあんこが出てくるんですよ!」
「……なんか、ちょっとエグいな、それ」
先輩は若干引きつった笑みを浮かべている。しかし、一口食べると、その表情はすぐに驚きへと変わった。
「……ん!美味しいです!このあんこの甘さと、ほんのり塩味が絶妙で!」
私が満面の笑みでそう言うと、先輩も恐る恐る一口。
「……まあ、悪くないな。意外といける」
そう言って、先輩も小さく笑った。二人で並んで、世にも奇妙な「ふぐのお汁粉」を頬張る。窓から差し込む西日が、私たちの影を長く伸ばしていた。なんだか、秘密を共有した共犯者のような気分だった。