ハンカチと、お腹の音
語り終えた海月先輩は、窓の外を眺めていた。その横顔は、今まで見たことがないくらい、静かで寂しそうだった。
私は、かける言葉が見つからなかった。
重い沈黙が、部室に落ちる。先輩の悲しみが、空気を通して伝わってくるようだった。
そう思った瞬間、頬を伝わる冷たいものを感じた。
私の顔を見て驚いた先輩が、戸惑ったように名を呼ぶ。
「……ふく?」
次の瞬間、私の目からは堰を切ったように涙が溢れ出していた。
「あれ?どうして…」
一度泣き出したら、止まらなかった。サリバトールのこと、凛さんのこと、そしてずっと一人でこの記憶を抱えてきた先輩のこと。全部がごちゃ混ぜになって、悲しくて、悔しくて、涙が滝のように流れてくる。
「だって、凛さんが……サリバトールが、あまりにもかわいそすぎるから…… うっ、うっ……ずびっ……ぐしゅっ……」
鼻水も涙もぐちゃぐちゃで、もう先輩の顔なんて見られない。ただただ、子供みたいに声を上げて泣きじゃくった。
「お、おい、ふく!? 困ったな……。泣かせるつもりはなかったんだけどな…」
さっきまでの物静かな雰囲気はどこへやら、海月先輩は明らかに動揺して、すまなそうに萎縮している。
「ほら、これ使え」
そっと差し出されたのは、少しだけくたびれた、でも清潔なハンカチだった。
「鼻水で汚れるからいいです…」
「いいから使え」
先輩の狼狽した姿を見て、私は少しだけ、ほんの少しだけ、泣きながらも思った。
(あ、先輩が困ってる……)
涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、私はハンカチを受け取った。先輩の指先がかすかに触れて、思ったよりもあたたかかった。
「……ありがとうございます。ぐすっ……でも、ほんとに鼻水で汚れますよ?」
「いいって言ってんだろ。使えよ。顔ぐしゃぐしゃだぞ」
「ありがとうございます、ちゃんと洗って返しますね」
「ああ……でも、凛のことで泣いてくれて、ありがとうな」
「そんなの、当然じゃないですか……」
「ふくはやっぱり変わってるな」
それは、決して悪くはない『変』だった。
涙の跡が残る頬に、夕陽が優しく差し込んでいた。さっきまで重たかった空気が、まるで水槽の泡みたいに、ぽこぽこと軽やかに弾けていく。
ふくが顔を上げると、夕陽に照らされた先輩の瞳が、ほんの少しだけ潤んでいるのが見えた。
そのことに気づいてしまうと、なんだか急に恥ずかしくなって、私は慌てて俯いた。
「……ひどい顔、見せちゃいました」
「そんなことない……ありがとうな、ふく」
先輩の言葉に、顔がさらに熱くなる。それって、褒めてるんですか?と聞きたかったけど、声にならなかった。
「さて、と。もう暗くなる。そろそろ帰るか」
先輩はそう言って、ぐっと伸びをした。その仕草が、まるで止まっていた時間が再び動き出した合図のようだった。
「はいっ」
私はまだ少し赤くなった目のまま頷くと、急いで自分のカバンを手に取った。
二人で並んで、静かになった放課後の廊下を歩く。オレンジ色の西日が、私たちの影を床に長く、長く伸ばしていた。
バス停に向かう道すがら、私のお腹がぐぅっと鳴った。静かな帰り道に、その音は思ったよりも大きく響いて、私は顔から火が出そうなくらい真っ赤になった。
「……ぷっ」
隣で、先輩が吹き出すのが聞こえる。
「さっきまでのシリアスな涙はどこいったんだよ」
「な、泣いたらお腹がすくんです! これ、生理現象なんです!」
「はいはい」
呆れたように、でもその声は間違いなく笑っていて、私はむっとしながらも、なんだか嬉しかった。
「先輩」
「ん?」
「明日から、もっと頑張ります。私、アベニーパファーをお迎えするために、完璧な水槽、作りますから!」
私の宣言に、先輩は夕陽の向こうでふっと笑った。
「ああ。お前の『豆つぶパファー』、ちゃんと迎えてやらないとな」
その笑顔は、部室で見た寂しそうな横顔とは全然違う、春の陽だまりみたいな笑顔だった。あったかくて、ちょっとまぶしくて、でもずっと見ていたくなるような
私の高校生活は、悲しい涙の跡と、ぐぅ〜っと鳴ったお腹の音と一緒に、また新しいページをめくった。 まるでその音が、未来に向かって笑ってくれているみたいに。
『明日は絶対、お腹の音を鳴らさないようにしないと』