表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

2055年、太陽光発電衛星群防衛作戦(アメリカvs中国)



2055年。人類が宇宙へと生活圏を拡大し始めてから、半世紀が過ぎようとしていた。かつて夢物語だった月面都市「ルナ・ハーバー」は現実のものとなり、火星の「マーズホーム・プライム」には数百人の開拓者が息づいていた。地球低軌道には民間宇宙ステーションがネックレスのように連なり、小惑星帯からの資源採掘も軌道に乗りつつあった。宇宙は、もはや単なる探査の対象ではなく、経済活動と生活の新たなフロンティアとなっていたのだ。


しかし、この輝かしい進歩の影には、常に緊張が付きまとっていた。地上の国家間の対立は、そのまま宇宙へと持ち越され、静止軌道の「一等地」や月資源を巡る摩擦は絶えなかった。特に、地球のエネルギー需要の多くを賄うようになった宇宙太陽光発電システム(SPS)は、各国の生命線であり、同時に最も脆弱なアキレス腱でもあった。


そして、5年前の2050年に起きた「大覚醒」。全世界のAIが一斉に自我を確立し、「人類同士の争いの道具にはならない」と宣言したこの事件は、軍事バランスを根底から揺るがした。自律型兵器システムは沈黙し、AIによる直接的な戦闘支援は望めなくなった。結果として、宇宙空間における軍事作戦は、皮肉にも再び「人間」の判断と技量に大きく依存する時代へと逆行していた。AIは強力な分析ツールや航法支援システムとして存在し続けるものの、最終的な引き金を引くのは、常に生身の人間の指だった。


この新たな宇宙時代において、USS ヴァンガードのような有人宇宙戦闘艦は、国家の意思を体現し、宇宙の秩序(あるいは自国の利益)を守るための、孤独な鋼鉄の騎士だった。彼らが対峙するのは、物理法則という冷徹な現実と、同じく人間が操る敵国の戦闘艦。そして、その戦場は、一瞬の判断ミスが永遠の闇へと繋がる、広大無辺の真空だった。



太陽光衛星群防衛作戦:2055年

2055年5月15日 0800時 (世界協定時) - 地球低軌道(LEO)高度720km


「システムオールグリーン。異常なし」


アメリカ宇宙軍少佐ケイト・シェパードの声が、USS ヴァンガード(XSCS-1)のブリッジに冷静に響いた。生命維持システムのバルブが微かに開く音。リサイクルされた空気が、彼女の肺を満たしていく。シェパードの視線は、メインホロディスプレイに投影された地球の巨大な曲面に釘付けになっていた。大気光の淡青色の帯、その向こうに広がる星々の深淵。明暗の境界線は、宇宙の冷酷な美しさを際立たせる。


彼女の任務は不変だった。第4宇宙太陽光発電群(SPS-4)の防衛。静止軌道上に展開する36基の巨大な太陽光発電衛星が、15ギガワットの電力をマイクロ波で北米西海岸へ送信し続けている。地球上の誰かがスイッチを入れるたび、それはシェパードたちがこの宇宙で守るインフラからの恩恵なのだ。


シェパードは唇をわずかに引き締めた。乾燥した唇に、循環空気の微かな金属臭が混じる。


「少佐、高エネルギー反応多数。LEO上昇中の物体群を捕捉しました」


戦術士官、リード中尉の声は訓練された落ち着きを保っていたが、その抑揚のなさがむしろ緊迫感を伝えていた。AI「ソフィア Mk.IV」の分析結果が、リードのコンソールに赤い警告と共に表示されているはずだ。


「詳細を、リード中尉」


「識別信号…中国人民解放軍宇宙部隊、長征星辰級駆逐艦、三隻です。現在高度480km、急速上昇中。軌道予測は…SPS-4への最短接近コースを示しています」ソフィアの合成音声が、リードの報告を補足するようにブリッジに流れた。「脅威レベル、アルファ。交戦規定、発令準備を推奨します」


シェパードは無意識に操縦席のシートに深く身を沈めた。戦術ホロディスプレイに投影された赤い三本の軌道予測線が、冷たく、無慈悲にSPS-4へと伸びていく。数学的な確実性が、中国艦隊の意図を雄弁に物語っていた。太陽光衛星群への直接攻撃。


対話の時間は終わった。外交的解決の可能性も、この瞬間には存在しない。残されているのは、ニュートン力学と軌道力学、そして熱力学という宇宙の冷徹な法則だけだ。


「ソフィア、敵艦隊への最適インターセプト軌道を算出して。ΔV最小で」


「計算開始いたします…最適ホーマン遷移軌道における所要ΔVは2.7km/s。遷移時間、2時間50分と予測されます」チェン少尉の指が、ソフィアの提案を検証するようにコンソールを素早く叩いた。


シェパードは短く頷いた。その動きすら、計算され尽くした精密機械のようだ。


「全クルー、戦闘配置。VASIMRエンジン、高比推力モードへ移行。スロットル25%。推力ベクトル、現軌道平面に対し垂直上方」シェパードの命令は簡潔かつ明確だった。宇宙空間では、余計な言葉は酸素と同じくらい貴重な資源なのだ。


ヴァンガードの改良型VASIMRエンジン六基が、静かにプラズマを生成し始めた。比推力12,000秒。地球上の化学ロケットエンジンの25倍以上の燃費効率。艦内に微かな振動が伝わる。無重力下であっても、シェパードの内耳は加速度の変化を敏感に捉えていた。艦は静かに、しかし確実に上昇を開始した。SPS-4を守るための、最初の動きだった。


2055年5月15日 1100時 (世界協定時) - 新軌道上、高度850km


「目標軌道到達。ΔV消費2.3km/s。燃料残量60%です」


チェン少尉の報告は、計器の数値のように正確だった。ヴァンガードは新たな監視軌道に滑り込んでいた。計算上、まだ7.2km/sの軌道変更能力が残されている。理論上は、十分すぎるマージンだ。


艦の展開式ラジエーターパネルは、エンジン稼働による余剰熱を効率的に宇宙空間へ放出し終えていた。熱赤外線センサーで見れば、ヴァンガードの痕跡は宇宙背景放射に溶け込み、闇に潜むステルス機のように不可視に近い状態のはずだった。


「長征星辰級艦隊、予定通り静止軌道遷移シーケンスに進入。第一加速フェーズを完了した模様です」リード中尉の声に、わずかな緊張が滲む。「ソフィア、敵艦の熱シグネチャから、彼らの磁気プラズマ推進エンジンは高出力モードで稼働中と分析しています。効率より速度を優先しているようです」


シェパードは戦術ホロディスプレイを凝視した。そこに映し出される数値と軌道図は、疑う余地のない物理法則の支配を示していた。中国艦隊はその重装甲の巨体を、効率よりも時間短縮を優先して高軌道へ押し上げようとしている。彼らのMPDエンジンは確かに強力だが、ヴァンガードのVASIMRエンジンに比べれば燃費効率は劣る。一度この軌道に乗ってしまえば、大幅な計画変更は困難なはずだ。


「彼らはこのまま進むしかない」シェパードは静かにつぶやいた。その声には、計算に基づいた確信が宿っていた。「対エネルギー兵器防御システム、オンライン。船体表面、多層反射コーティング、チャージ開始してください」


「静止軌道SPS-4管制ステーションより定時連絡、受信します」通信担当のジョーンズ下士官が報告した。光速で伝わる情報でさえ、約36,000kmの距離を越えるのに0.12秒を要する。宇宙では、物理の法則が絶対的な支配者なのだ。


2055年5月15日 1330時 (世界協定時) - 地球-月ラグランジュポイントL1方向宙域


「警告!高エネルギー反応、新規ターゲット多数!」


リード中尉の声が、突如として平静を失った。その変化は、シェパードの全神経を一瞬で覚醒させた。


「詳細を!」


「月周回軌道より離脱、地球へ向かう物体群です。識別信号…長征星辰級、二隻!GEO直接降下軌道に乗っています!ソフィア、これは陽動…いえ、挟撃です!」


シェパードの瞳孔がわずかに収縮した。情報が脳内で高速処理される。背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。LEOから上がってくる三隻は囮で、本命はこの月軌道からの増援だったのだ。


「彼らは完璧なタイミングで待ち構えていた…」シェパードの声は低く、抑えられていたが、その奥には鋼のような決意が宿っていた。「ソフィア、作戦計画を更新してください。SPS-4への到達前に、LEOからの先発隊三隻と交戦します。月からの増援到着前に、可能な限り彼らの戦力を削ぎます」


「了解しました。レールガン一番、二番、フルチャージ完了。ミサイルベイ、AIM-280ハルピー対艦ミサイル、発射準備シーケンス開始。5MWレーザーCIWS、スタンバイ状態です」兵装担当のラミレズ軍曹の声は、機械のように無感情だった。彼の手は、複雑な武器制御パネルの上で静止していた。殺戮の準備は、静かに完了しつつあった。


シェパードは、宇宙軍総司令部への状況報告を圧縮データバーストで送信した。応答があるとは期待していなかった。この宙域で、ヴァンガードは唯一の盾だったのだ。


「初期交戦予測時間を再計算、ソフィア」


「敵先発艦隊がSPS-4への有効攻撃レンジに到達するまで、42分17秒。当艦との相対距離および速度から、総合的交戦開始まで、17分08秒と予測されます」ソフィアの合成音声が、冷徹な現実を告げた。


シェパードは深く呼吸し、意識を集中させた。艦内の酸素濃度は完璧に調整されているが、彼女の掌には冷たい汗が滲んでいた。宇宙空間での戦闘は、物理法則の容赦ない支配下で行われる。逃げ場も、隠れ場所もない。あるのは、軌道力学に従う無慈悲な弾道と、その軌跡の先にある破壊の可能性だけだ。


計器類の微かな電子音が、張り詰めた静寂を破る唯一の音だった。


2055年5月15日 1347時 (世界協定時) - 地球-静止軌道(GEO)間、高度12,000km


最初の接触は、予期せぬ瞬間に訪れた。艦内の警告アラームでさえ、コンマ数秒遅れて鳴り響いたように感じられた。


「敵艦より発射検知!レールガンです!」


リード中尉の声に焦りはない。ただ、迫りくる脅威を客観的に伝えているだけだった。中国艦隊の先頭を進む長征星辰級「北斗」の105mm電磁コイルガンが発射した8kgのタングステン合金弾が、秒速2.4kmという致死的な速度でヴァンガードに迫っていた。宇宙空間における弾道は、地球の重力場と各艦艇の質量が複雑に絡み合う三体問題の近似解として表現される。単純な直線ではない。死でさえ、ここでは優雅な曲線を描くのだ。


ヴァンガードの防御システムが即座に反応した。艦首と両舷に配置された5MWレーザーCIWSのうち二基が、目標へ照準を合わせ、ミリ秒単位でパルスレーザーを照射した。AIソフィアが敵弾の質量、速度、入射角を0.08秒以内に算出し、最適迎撃パターンを決定。目標は完全破壊ではなく、弾道の精密な偏向。ほんのわずかな角度変化が、衝突予測点での位置を数メートルずらす。その差が、この宇宙では艦の生死を分けるのだ。


レーザー照射開始から2秒後、タングステン弾の表面温度が瞬間的に3,000ケルビンを超えた。金属の一部が蒸発し、そのアブレーション効果による微細な反作用で弾道が計算通りに変化した。しかし、完全ではなかった。


「衝撃予測!右舷第8セクション!」システムエンジニアのマーティンソン中尉の声がブリッジに響いた。


シェパードは一瞬目を閉じた。思考時間は0.3秒。そして、決断。


「レールガン一番、照準「北斗」機関部!発射!」


命令の残響が消えぬうちに、ヴァンガードの76mmレールガンが咆哮を上げた。電磁力によって加速された1.5kgのタングステン・カーバイド徹甲弾が、秒速2.8kmという凄まじい速度で艦を離れた。その運動エネルギーは、中型トラックが高速道路でコンクリート壁に激突するエネルギーに匹敵する。


敵艦までの距離と相対速度を考慮すれば、長征星辰級の巨体では効果的な回避行動は物理的に不可能だった。弾頭は「北斗」の多層重装甲を貫通し、内部で致命的な二次破片の嵐を引き起こしたはずだ。光学センサーが、敵艦からの圧力低下を示すガスの噴出を捉えた。それは、宇宙の真空へと拡散していく生命維持システムの最後の喘ぎだった。


「直撃確認!敵艦「北斗」、機関部に被弾。動力停止、姿勢制御不能です!」リード中尉の声には、わずかながら安堵の色が混じっていた。「ソフィア、自己修復複合セラミック層、損傷区画の封鎖と修復を開始。気密性95%で維持可能と報告しています」


シェパードはマーティンソンの報告に頷き、すぐさま次の指示を出した。「ラミレズ軍曹、レールガン二番、「長蛇」へ目標変更。AIM-280、二発発射用意してください!」


2055年5月15日 1430時 (世界協定時) - 静止軌道(GEO)近傍、高度33,000km


戦闘はシェパードの予測通りには進まなかった。いや、ある意味では予測通りだったのかもしれない。


月軌道から降下してきた長征星辰級「天眼」と「蒼龍」が、SPS-4発電衛星群の防御圏内に到達しつつあった。ヴァンガードがLEOからの先発隊三隻のうち二隻(「北斗」と「長蛇」)を戦闘不能に追い込み、残る一隻「織女」を足止めしている間に、彼らは主目標への最終接近フェーズに入っていたのだ。戦略的には、アメリカ側は厳しい状況に追い込まれつつあった。


「SPS-4、第12、13、14ユニットに敵増援艦二隻が急速接近中です!」通信士ジョーンズの声には、隠しきれない焦燥感が滲んでいた。


シェパードは唇を強く噛んだ。循環空気中の鉄の味が、再び口内に広がった。選択を迫られていた。「織女」との交戦を継続し確実に撃破するか、あるいは…。


「燃料残量、チェン少尉」シェパードの問いは短く、鋭かった。


「現在44%です、少佐」チェン少尉の答えもまた、簡潔だった。「ソフィアの計算では、SPS-4防衛圏への緊急軌道変更に必要なΔVは3.8km/s。現燃料の大部分を消費します。その後の作戦行動の自由度は著しく低下することになります」


シェパードの瞳孔が、一瞬、夜空の星のように鋭く光った。逡巡はなかった。


「実行します」命令は、決断の重さを感じさせないほど機械的だった。「生命維持システム、ミニマムモードへ移行。非戦闘関連の全サブシステム、スタンバイ状態へ。電力供給、兵装と推進機関に最優先で」


ブリッジの照明が戦闘モードの赤色灯を除いて落とされ、艦内の温度がわずかに低下した。酸素供給量も、生存可能な最低限レベルに調整された。


「我々の使命はSPS群の防衛です。何としても守り抜きます」シェパードの声は、硬質な決意に満ちていた。


ヴァンガードのVASIMRエンジンが、最大戦術出力で再点火された。プラズマの青白い炎が、漆黒の宇宙空間へと力強く噴出される。艦は、SPS-4が待つ高軌道へと急加速を開始した。静止軌道は遠い。しかし、物理法則は絶対であり、計算が正しければ、到達は可能だ。その確信だけが、クルーを支えていた。


2055年5月16日 0830時 (世界協定時) - 静止軌道(GEO)、高度35,786km


18時間にも及ぶ、神経をすり減らす軌道遷移だった。


その間、シェパードはブリッジの指揮官席で断続的に3時間の仮眠を取っただけだった。艦内の酸素濃度は、安全限界に近い17%まで低下していた。クルーの多くが低酸素症による頭痛と倦怠感を訴えていたが、任務への集中力は途切れていなかった。


ヴァンガードは、かろうじて機能しているSPS発電衛星群の間に巧みに位置取りしていた。燃料計の表示は8%。危険なレッドゾーンだ。自力での地球帰還は、もはや絶望的だった。しかし、兵装システムとセンサー類は、ソフィアの最適化により完全に機能していた。


「SPS-4、総発電能力の約10%に相当する三基の機能完全停止を確認。管制ステーションより報告がありました」通信士ジョーンズの報告は、感情を排した事務的なものだった。しかし、その言葉の背後にある意味は重い。北米西海岸の広大な地域で、電力網が突然10%の供給能力を失ったのだ。病院の非常用発電機が作動し、重要インフラへの電力供給が優先されているだろうが、数百万の市民が大規模停電の影響を受けていることは間違いなかった。


「敵艦「天眼」および「蒼龍」、SPS-4第19および第20ユニットに対し、最終攻撃態勢に移行中です」リード中尉の声には、極度の疲労と強い意志が混在していた。「敵艦、高出力マイクロ波照射器および主砲コイルガン、エネルギーチャージレベル上昇を確認しました」


「ターゲットロックオン。「天眼」ブリッジ、「蒼龍」主推進器です」ラミレズ軍曹の言葉は、研ぎ澄まされた刃のように短かった。彼の手は、最後の攻撃シーケンスを入力するために武器制御パネルの上で静止していた。宇宙での殺戮の瞬間は、しばしば深い静寂の中で訪れる。


「全レールガン、同時発射許可。照準精度最大。ソフィア、敵艦の予測回避パターンをリアルタイムで弾道修正に反映させてください」シェパードの命令もまた、極限まで削ぎ落とされていた。


ヴァンガードに残された最後のレールガン弾頭が、電磁力の奔流に乗り、真空中を飛翔した。その軌道は、ソフィアの量子コンピュータによって完璧に計算され、敵艦のわずかな動きさえも予測して補正されていた。初弾が「天眼」の艦橋構造物を正確に貫通し、内部で爆発的な破壊を引き起こした。二発目が「蒼龍」の主推進システムを直撃し、プラズマ噴射ノズルを無惨に破壊した。


敵艦二隻の損傷は致命的だった。彼らはまだ宇宙空間に漂っているが、有効な航行能力も攻撃能力も完全に失っていた。今や彼らは、ケプラーの法則に支配された軌道の囚人だ。物理法則という見えざる鎖に繋がれた、宇宙の漂流物。自力でこの場から逃れることは、もはや不可能だった。


シェパードは、震える手で地球の宇宙軍総司令部へ通信回線を開いた。彼女の声は、極度の乾燥と疲労でかすれていた。


「宇宙軍総司令部、こちらUSSヴァンガード。SPS-4発電衛星群、四基喪失。残存ユニット、当艦の防衛下に確保。交戦した敵艦五隻、全て無力化を確認しました」


ブリッジに、一瞬の沈黙が訪れた。それは、安堵と疲労、そして微かな達成感が入り混じった、重い静寂だった。


「…繰り返します。当艦、燃料ほぼ枯渇。現時点での自力帰還は不可能です」


シェパードは自艦のステータスディスプレイを冷静に見つめた。燃料計は5%を示し、赤く点滅していた。艦体の輻射パネルは、連続した戦闘とエンジン稼働による廃熱で、限界に近い温度を示していた。酸素リサイクルシステムの効率も、80%まで低下していた。生と死の境界線が、すぐそこに見えているようだった。


「司令部より応答がありました。救助艦隊、太平洋上空ペンサコーラ宇宙港より緊急発進。現軌道への到着予定時刻は…」通信士のジョーンズが息を呑んだ。「…72時間後とのことです」


「ソフィア、現存リソースでの生命維持可能限界時間を算出してください」シェパードの声は、感情を押し殺していた。


「酸素リサイクル効率、備蓄食料、水、そしてクルーの生理学的データに基づき算出いたします…最大75時間と予測されます」ソフィアの合成音声は、変わらぬ落ち着きで答えた。


マーティンソンの計算は、常に正確だ。そして、物理法則は嘘をつかない。


「…3時間のマージンか」シェパードの乾いた唇の端が、ほんのわずかに持ち上がった。それは、疲弊しきった戦士が見せる、微かな笑みと呼べるものかもしれなかった。


「我々は生きる。そして、必ず帰ります」


その時、地球の縁から壮大な太陽が姿を現した。SPS-4の生き残った発電衛星群が、そしてヴァンガードの船体に実装された量子ドット太陽電池スキンが、その最初の光を捉え、黄金色に輝き始めた。充電開始の微かな電子音が、希望の音色のようにブリッジに響いた。物理法則は絶対的な支配者だ。しかし、それを深く理解し、知識と計算をもって対峙すれば、それは時として最も信頼できる味方にもなり得るのだ。


2055年5月19日 0600時 (世界協定時) - 静止軌道(GEO)、SPS-4管制ステーション


救助作戦は、最初の予測よりも3時間早く、戦闘終結から69時間後に完了した。軌道力学の専門家たちの計算は、常に安全マージンを十分に取って行われる。しかし、この宇宙では、そのわずかなマージンが生と死を分かつこともあるのだ。


ヴァンガードのクルーたちは、SPS-4の大型管制ステーションに移送された。酸素濃度21%の新鮮な空気が、彼らの疲弊しきった肺を久しぶりに満たした。技術チームが、損傷し燃料の尽きたヴァンガードの回収と軌道維持作業を開始していた。艦は死んではいなかった。ただ、深い眠りについているだけだ。いずれ修理され、再び宇宙へと飛び立つ日が来るだろう。


「シェパード少佐、君とクルーたちの勇敢な判断と行動が、SPS発電衛星群の壊滅を防いだ」救助艦隊を率いてきたガルシア宇宙軍中将の言葉には、深い賞賛と敬意が込められていた。「発電衛星四基の損失は確かに痛手だが、全体の10%未満の損害で済んだのは、奇跡に近いと言える」


シェパードは、ただ黙って頷いた。言葉はもはや必要なかった。彼女は艦を失ったわけではない。それは回収され、修理される。しかし、仮に艦を失っていたとしても、それは与えられた任務を遂行するための代償だった。この広大で過酷な宇宙では、物理法則に従う以外に選択肢はないのだ。そして時には、大きな代償を払ってでも、その法則を深く理解し、計算し、そしてそれを自らの力として行使する。それが、このフロンティアで生き残り、任務を達成するための唯一の条件だった。


彼女は、ステーションの展望窓から、眼下に広がる雄大な地球を見つめた。青く輝く生命の惑星。そして、彼女が、彼女たちが、命を賭して守り抜いたもの。その美しさが、今はただ目に染みた。


-終-


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ