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『尊い5歳児たち』シリーズ【電子書籍発売中・コミカライズ決定】

【6月25日電子書籍配信】尊い5歳児たちが私に結婚相手を斡旋してきます【コミカライズ決定】

いつもお読みいただきありがとうございます!


☆6月25日コミックシーモアから先行配信

「尊い5歳児たちが私に結婚相手を斡旋してきます~捨てられ令嬢の私に紹介されたのはなんと宰相補佐~」(リブラノベル)


電子書籍化にあたりサブタイトルがつきました。尊い表紙は仁藤あかね先生です!

約3万5千字加筆、シーモア限定SSもあります。

挿絵(By みてみん)

「アガシャはけっこんしないのか?」


 五歳。それはなんと無邪気で恐ろしい。


 令嬢としての結婚適齢期を過ぎて仕事に生きます!という雰囲気が駄々洩れの侍女である私、アガシャにこんな問いを投げかけられるのだから。普通の人なら怖くて聞けないはずだ。そんなタブー中のタブーな質問。


 この国の令嬢の結婚適齢期は十代後半。私はすでに二十一歳、立派な行き遅れである。


 ほら、後ろの護衛騎士が止めようか迷ってオロオロしている。ついてきている侍従は……こちらは四十年以上生きている年の功だろうか、冷静である。あ、口元ぴくぴくしてる。


「殿下。私は義理の妹に婚約者を寝取られまして。家から勘当され、それ以来結婚は諦めたのです。男なんて浮気と仕事しかしないのですから。あ、仕事さえしない男もおります」


 侍従が素早く重要なポイントだけ殿下の耳を塞いだ。


 五歳にこの話は早かったか。有名な話だからいずれ耳に入るのだし五歳でもいいかなんて思った私の判断はよろしくなかった。せめて「寝取られた」のところだけは隠すべきだった。それに性別もあるわよね。お嬢様は興味津々ですぐ理解して奥様とぶーぶー言っておられたもの。


「なぜ、けっこんをあきらめたんだ?」


 ほら、重要なところで耳を塞ぐからこんなことになる。そんなキラキラしたアメジストのような目で聞かれてもこのお話は十八禁とします。十三年後に出直してくださいませ、殿下。


「殿下はお嬢様と結婚できるのが嬉しいから私のことも気にしてくださるのでしょうか?」

「そうだ! とゆーか、アガシャはいつもダリアといっしょではないか。アガシャがけっこんすればダリアもアガシャ、アガシャとおまえの話ばかりしないだろう!」


 五歳だけど王族だけに偉そうな口調でも可愛い。そして殿下、それは嫉妬ですね!

 五歳は嫉妬も可愛い。にやけそうになる口元を根性で引き締めながら質問する。


「殿下は、お嬢様と結婚できるのが嬉しいのですね?」

「あたりまえだろう! あんなにダリアはかわいいんだぞ!」


 金色のくるくる巻き毛をふるりと振って力説するのは、クリスティアン第三王子殿下。五歳。生意気だけど超可愛い。もちろん口には出さない、相手は王族だ。

 

 このタイミングでお嬢様がお茶会の席に戻ってこられた。私が仕えるガルシア公爵家の一人娘でダリア様だ。御年五歳。銀色の髪に日光が反射して妖精にしか見えませんね。


 お嬢様は先ほどの会話をしっかり聞いていたようで、頬が赤く染まって可愛い。


 殿下もお嬢様が戻ってきたことに気付いて、先ほど大声で口にした言葉を思い出して頬を染める。


 何この尊い光景。画家はどこ。あ、今日はエマがお茶会の当番で立っているわ、彼女絵がうまいから後でスケッチ描いてもらおう。エマ、口を押えてプルプルしてないで。お二人が可愛いのは分かるけど目をかっぴらいて見といてよ。瞬きも禁止。


「でんか、わたしもでんかと結婚できるのはうれしいです」

「そうか、おそろいだな!」


 事件です。

 私も含めて控えている公爵家の侍女・護衛騎士、そして王家の護衛騎士・侍従の全員のハートが撃ち抜かれました。何人か天に召されているかも。


 なんだ、お揃いって……可愛い。殿下、胸張って堂々とお揃いって。

 そしてお嬢様、殿下の前で人見知りをやめたんですか。ずっと殿下の前でモジモジモゾモゾしてたのに。お嬢様、人見知りタイムが終わったら大変よく喋る方だから。


「じゃあ、でんかじゃなく名前を呼ぶように!」

「……はい、クリスティアンでんか」


 頬を染めつつ、上目遣いでそっと殿下を見るお嬢様。あざとい! でも可愛いからOK。


「クリスでいいぞ! ダリアは特別だから」

「えっ! じゃあ、わたしの名前は……えっと」

「ダリアの名前はきれいだからダリアのままがいい」


 侍女が数人、あまりの尊い光景に鼻血を出しかけている。私も出ているかもしれないが、結婚適齢期を過ぎているのでもう気にすることもない。この尊い光景を見るのに必死なので鼻血など構っていられない。


 殿下は第三王子なので、お嬢様と結婚してガルシア公爵家に婿入りするのだ。王太子殿下はすでに結婚されていて子供もいらっしゃる。第二王子殿下は他国に婿入りしている。つまりスペアは十分。


 現在はガルシア公爵邸にて、一カ月に一度の婚約者としての交流のお茶会の真っ最中。

 時折難しい言葉を使おうとして舌足らずになる可愛さ爆発の会話が進んでいたと思ったら雲行きが怪しくなってきた。空模様ではない、会話の。


 これまでのお茶会でお嬢様がやたら私をチラチラ気にしていたせいだろうか。会話に困ったら私の話をしてしまっていたからだろうか。殿下は唐突にまた恐ろしいことを口にした。


「アガシャにはぼくたちのようにしあわせなけっこんをしてほしいんだ。アガシャはダリアのたいせつなじじょだろう?」

「はい。でも、アガシャがやめちゃったらかなしいです……」


 お嬢様にそう言っていただけて私もほくそ笑む。

 殿下は一瞬面白くなさそうな顔をしたが、すぐに輝く笑顔を作った。


「アガシャがやめないような人とけっこんしたらいい。けっこんしてもここではたらいている人はいるんだから」


 殿下ってまだ五歳だからか、たまに偉そうな口調になったり柔らかい口調になったり可愛いよね。私の心の声が貴族令嬢らしくないのは仕方がない。


「そうですね」

「ダリアはアガシャのけっこんしきに出たいとおもわないかい?」

「わぁ、みたいです。でたいです」

「じゃあ、アガシャにはけっこんをしてもらわないと」


 おい、殿下。自分が頼られる男にまだなれていないからって私を結婚させて排除しようとしているな。そんなに手っ取り早く人間関係と恋愛がうまくいくと思うなよ、この五歳児。もっと信用と信頼を勝ち得なさい。


「でもけっこんって二人でするものでしょう?」


 素直なお嬢様の純粋な疑問ってたまにものすごく心を抉るよね。恐らく、私の心が濁りきっているからだけど。はい、結婚は一人ではできません。いや、神との結婚なら一人でできるだろうか。


「あぁ、だからアガシャににあうおとこをさがしてくればいい!」

「うーん、でもこうしゃくけにアガシャのあいては……」

「ぼくがさがしてくるよ。おしろにはいっぱいいるから」


 恐ろしい会話が進んでいるけど冗談よね? お嬢様の後ろで控えながら口の端が引きつりそうになる。


「すごいです、でんか! めいあんです!」

「ねぇ。アガシャはけっこんするでしょう? そうしたら……ダリアはぼくの一番だからダリアもアガシャじゃなくてぼくを一番にしてくれる?」


 へい、殿下。ちょっとそこは距離の詰め方おかしい。もう少しゆっくり。うちの大切なお嬢様はそこでほいほい頷くような安いお嬢様ではない。ほら、お嬢様が怪訝な顔をしていらっしゃる。


「アガシャもクリスでんかも一番ではいけませんか? じゅんばんなんてつけられません」


 なんでしょう、この可愛い会話は。拳を天に突き上げてもいいですか。

 侍従が殿下に何か耳打ちしている。


「うん、わかった」


 これは分かってない。きっと後ろの侍従に言い含められたんだ。その証拠に唇がややとんがっている。


「ひとまずアガシャのけっこんしきのためにいろんな男をしょーかいしよう」


 五歳児の言うことだから本気じゃないだろうな~、次のお茶会ではしれっと忘れてるんだろうな~と思っていた私がバカでした。



 私、アガシャ・リードはリード伯爵家の長女だった。もう勘当されているから厳密にはリード姓は名乗れない。あのお花畑で中年太りの激しい父は書類ちゃんと出してるわよね?


 よくある話だ。母が亡くなって、父が半年経たないうちに継母とその娘を連れて来た。私より一つ年下の義妹で父によく似ていたのでもうお察しどころではない。そんで見事に私の婚約者は義妹にたぶらかされたわけだ。厳密に言えば寝取られたんだけど。やさぐれたくもなる。


 学園の卒業式が終わったすぐ後、継母と父そして義妹と腕を組んだ婚約者がやって来た。後継ぎは義妹にする、学園卒業まで面倒を見たんだからもう家には帰ってこないように、お前とはもう他人と言われたのよね。


 学園は成績が良かったから特待生で実家のお金かかってないんだけど、通じるか怪しいので仕方がない。


 父の仕事だって学園の休みの間は手伝っていたし、一応後継ぎになる予定だったから就職活動をしていなかった。これが義妹たちの最後で最大の嫌がらせかと軽く絶望したものだ。後継ぎの座と婚約者を一気に失って、しかも平民になったわけだ。


 王城の文官試験を受けられるのは半年後。それまでどこに住んで食いつなぐか。どうしよう、学園の寮も一週間以内に出て行かねばいけない。


 驚きすぎて頭が正常に働かず、むしろ三周回って冷静になった私。騒動を見ていた同級生がひどく同情してくれて、色々コンタクトを取ってくれた結果ガルシア公爵夫人に拾われたのだ。「あなた、うち来る?」と子ネコのような拾われ方であった。


***


「いいかおりのする男の人が好きだってじじょがいってました」

「じゃあ、バターとはちみつをぬるのはどうだろうか!」


 確かに男性の香りは重要だ。あの人の臭いダメ、無理絶対となっては結婚は無理である。汗臭いのも嫌だし、体臭がキツイのも無理だ。


 単なる男性の好みの話かと思っていたら。

 お茶会の日に目隠しをされてお嬢様に手を引かれ、引き合わされたのは殿下の護衛騎士。

 なんと彼はお二人によって肌にはちみつとバターを塗られて私の前に突き出されたのだった。これがお二人の考えた最もいい匂いである。


 結婚式のために男を紹介するという殿下の言葉は本当だった。


「どう、アガシャ。いいかおり」

「おなかが空いたな」

「おいしそう」

「どうだ? アガシャ。いい男か? けっこんしたくなったか?」


 これって五歳児じゃなかったら犯罪では……? 侍女に結婚を強要するなんて。しかも護衛騎士の方に一体何を……。


 ただ、騎士の両脇でクンクンスンスン香りを嗅いでお菓子を連想しにやけている二人が可愛すぎて、騎士の顔など見ている暇がない。


 あ、殿下! 殿下が口をパクパクさせてはっとして口を閉じた! はちみつとバターの香りの空気を食べていた! 何いまの可愛さ、みんな見たわよね??

 同意を求めて振り返ると侍女たちが尊さに表情を崩さないために拳を握りしめている。護衛騎士ははちみつとバターを塗りたくられて、侍女たちは尊い光景に表情を崩して叫び出さないように、お二人以外の全員が忍耐を強いられた。


 我に返って騎士を見ると、騎士も子供が好きなのかお二人のことが好きなのか困りつつもにやけていたので、バターとはちみつよりも同士の香りがする。あなた、将来いい父親になりそうね。丁重にお湯で濡らしたタオルを差し出しました。はちみつなかなか取れないと思う。


 またある時は。


「今日はアガシャにコノエで一番いい男をしょーかいしようと思った! どの男が一番か、おねーさまに聞いたんだ」


 コノエ? あぁ、近衛騎士のことか。そしておねーさまとは……王太子妃殿下ですね。一体何をしていらっしゃるのか。面白がってませんか。可愛い年の離れた末っ子第三王子のために王族全員で面白がってませんか?

 お嬢様と殿下の仲がこの件で妙に縮まっているからと皆で何かしていませんか。


「でもダメだった! あいつ、歯にホーレンソウがついてた!」

「まぁ、ほうれん草が」


 一番の騎士の方はご飯を食べた直後だったのか。


「ハミガキもできない男はイイ男になれないと聞いた!」

「はい。その通りでございます」

「だからあいつは連れてこなかった。そのかわり、二番目をつれてきた! 歯にホーレンソウはついてないぞ!」


 笑ってはいけない。

 きっと殿下は家族か侍従に歯磨きについて厳しめに言われているのだろう。近衛の二番目のモテ男さんごめんなさい。殿下が可愛すぎて顔が見れません。

 というかお嬢様、なぜ後方でその通りよねというお顔をされて仁王立ちしていらっしゃるのでしょうか。お嬢様も歯磨きをよく嫌がってらっしゃいますよね?


「殿下。この方は歯にブラックペッパーがついています」

「む! ダメじゃないか! ハミガキをきちんとしないと虫歯になるぞ!」


 殿下が可愛い。五歳児に歯磨き指導される近衛で二番目のモテ男。

結婚相手の斡旋は困るのだが、二人が可愛すぎて正直紹介される男はどうでもいい。


「今日はぶーかんをつれてきた! アガシャのこのみはむずかしーな!」

「文官のお方ではないですか。職務妨害では?」

「おねーさまがいいって」

「アガシャはきしはあんまり好きじゃなさそうだもの」


 殿下は職務妨害の意味を分かっていらっしゃるのね。そしておねーさまとはやはり、王太子妃殿下のことですね。いいんでしょうか、仕事中の文官さんをこんな行き遅れ平民侍女のために連れ出して。もういっそ殿下の行動力が恐ろしい。そしてお嬢様に私の好みがバレかけている。あまり大柄で屈強な男性は好きではありません……。



 他の侍女たちもお嬢様と殿下にメロメロだ。突然始まった私への結婚相手の斡旋に困惑していたはずなのに、最近では一カ月に一回のお嬢様と殿下のお茶会にどの侍女がつくか本気のじゃんけん大会が行われている。外野が一番楽しいそうだ。もちろん、私はお茶会に強制参加なのだけれど。


 そして殿下の侍従といえば、お嬢様と殿下の距離が私の結婚相手を相談することで着実に縮まっているので毎回親指をぐっと上げて帰る。彼は既婚者で愛妻家として有名だ。

 もうね、愛妻家として有名ってところでお察しじゃない? 有名になるってことは愛妻家が珍しいってことなのよ。つまり浮気する人は一定数いる。


 今のところ皆で殿下とお嬢様による斡旋を面白がっている。なにせ可愛いお二人が見られるので癒ししかない。男は正直どうでもいい。本当にどうでもいい。どうせ浮気と仕事しかしないのだから。



 そしてある日、殿下はとうとう連れて来た。

 運命の人ではない。何それおいしいの? そんなおとぎ話、私は信じません。


「かれはサイショーホサだ! このねんれーで一番のシュッセガシラだと聞いた。それにアガシャのドーキューセーだろう。どうだ、まいったか」

「おしごとのできる男の人はかっこいいですよね、でんか」


 殿下は最後のセリフが言いたかっただけだろう。そしてお嬢様、そのセリフはぜひ旦那様に。


 しかし、護衛騎士や文官では飽き足らず宰相補佐まで連れて来たとは……呆れ半分で立っている人物を見て驚いた。学園時代にほのかに憧れを抱いていた同級生がいたのだから。


「久しぶりだね。リード嬢……でいいのだろうか」

「ダンフォード様。ご無沙汰しております。もう実家からは勘当されましたので単なる平民です」

「カンドウ? なぁ、カンドウとはなんだ?」

「殿下、後でご説明します」


 殿下の不思議そうな声が途中で入って来て侍従が止める。お嬢様は私のわずかな表情変化を見逃さなかったのだろう、期待で目がキラキラしている。


 殿下が連れてきたのは、学園で同級生だったカルレイン・ダンフォード。名門ダンフォード伯爵家の次男で、学園の成績はいつも良かった。城に就職が決まったと聞いていたがすでに宰相補佐官だったとは。本当に出世頭だ。

 その日は懐かしさを感じながら、お互いお嬢様と殿下の後ろに立ったままポツポツ会話をしただけだった。



「アガシャはカレイが好きなの?」


 寝る前にお嬢様は興奮気味に質問してくる。殿下もお嬢様も「カルレイン」の発音が難しいようで「カレイ」だの「カーレーン」だのと呼んでいた。


「お嬢様、歯磨きをしてからにしましょう」

「はやくききたいのに~」

「殿下も歯磨きは大切だと」

「はぁい」


 大人しく歯磨きをする様子を監督して、お嬢様が寝る支度を整える。


「学園時代に憧れていた方です。勉強もできて教え方もとてもお上手な方でした」

「あこがれと好きはちがうの?」

「違います」

「どうちがうの?」

「そうですね……お嬢様は鳥みたいに空を飛びたいと思いますか?」

「えぇ、思うわ!」

「それが憧れに近いと思います」

「ふぅん?」


 お嬢様は納得していないご様子だったが、殿下と会って興奮してはしゃいでお疲れだったので早々に眠ってくれて誤魔化せた。



 カルレイン・ダンフォードは学園の同級生の中で一番モテるというわけではなかった。伯爵家の次男で跡取りではないし、アガシャが美醜について語るなんておこがましいがとんでもない美男というわけではない。


 しかし、密かに憧れていた女性は多いはずだ。

 常にトップ10に入る成績、名門伯爵家なのに偉そうではない態度、珍しい赤茶の髪にたれ目で黙っていると色気があるのに笑うと茶目っ気があった。


 特待生で入学したものの、継母と義妹のせいで冷遇され明らかに貧乏貴族であったアガシャにも彼は親切だった。数回、図書室で会って課題を一緒にやった。たったそれだけがアガシャにとっては大切な青い春のような記憶だ。

 あの頃は「カルレイン様」と呼ばせてもらっていた。そう呼んでいいと言われたから学生の間だけと思い呼ばせてもらったが、今はもうそんな風に呼べるわけがない。


 もう来ないだろうと思っていたのに、殿下はカルレイン以外の男性を紹介してこなくなった。しかも、カルレインをお茶会に毎回伴ってやって来る。

 カルレインに失礼であるし忙しいのだからと殿下や侍従に訴えたのだが、殿下はニヤッと笑うだけで状況は改善されない。


 ある日、お茶会の最中にお二人はかくれんぼをしたいと言い出し「鬼はアガシャとレインだ!」と二人でリネン室に閉じ込められてしまった。カルレインと言いづらいので「レイン」になっている。


 きゃははと子供特有の甲高い笑い声が遠ざかるのを聞きながら顔を見合わせた。


「閉じ込められたようだ」

「扉の前に何か置いてあるみたいで開きません。『すぐ見つかりそうだからこの部屋で百数えて』と言われた時に殿下は企んだような顔でしたから、あの時気付けば良かったですね」


 ガチャガチャと扉を押してみるが開かない。五歳らしい悪戯だ。


「では、そこの窓から出ましょうか」


 さすが五歳児。されど五歳児。この部屋は一階に位置しており、窓があるのだ。殿下とお嬢様は五歳で扉から必ず出入りするものと信じて疑っていない。あるいは、リネン室にお嬢様が来ることなどないので窓があると知らない。


「ちょ、俺がやるから!」


 窓に近付いて鍵を開け、足を上げようとすると慌ててカルレインが止めに入った。

 彼の手が私の手に一瞬触れたが、スルーする。そんなことで胸が高鳴るような年齢でもない。慌ててパッと手を引っ込めるなんて自意識過剰な行動などできない。


「俺が外に出てすぐ扉の前にあるものをどかすから」

「……そうするとお二人からブーブー言われそうなので、窓の外と内で話しながらお二人が飽きるのを待っていましょうか」

「あぁ、そうだな。簡単に抜け出すと次からもっと変なことをされかねない」


 公爵邸内といえど未婚で部屋に二人きりというのも外聞が良くない。もちろん彼の外聞だ。こんな私と閉じ込められて災難だろう。


 しかしこの部屋からいとも簡単に脱出してしまうと、あのお二人は次にどこに閉じ込めようとしてくるか分からない。一瞬でもそう考えたはずなのに、カルレインの「次」という言葉に引っ掛かってしまった。だって、彼はもう来ない可能性の方が高いじゃないか。たまたま数回茶会に来ていただけで。なぜ、次があるなどと私は思ってしまったのか。


「宰相補佐のお仕事がお忙しいでしょうし、殿下に何度か付き合っているのですからもう来なくて大丈夫ではないですか? 妃殿下にも睨まれることはないでしょう?」

「それは、俺に来るなと言っている?」


 窓をまたいで外にすとんと着地したカルレインはアガシャを見上げてくる。いつもはアガシャが彼を見上げる立場だったから一瞬おかしな気分になった。


「ご迷惑でしょう。お仕事もあるのに」

「俺が来たくて来ているんだけどな。宰相もご存じだ」

「殿下とお嬢様見たさですか? 本当に可愛いですよね、あのお二人」

「そうじゃないけど……そんなことで仕事早く終わらせて来ないから。まぁ、第三王子殿下とガルシア公爵令嬢がこれほど良好な関係というのは驚いたよ」


 途中で聞き取りにくい箇所があったが、お二人の仲の良さはぜひ知っていただきたい。


「でしょうでしょう? このままいけば学園に入ってもあの尊いお二人は引き裂かれません。変な男爵令嬢やぽっと出の隣国王子なんて出てきても目じゃありません」

「あったね、他国でそんな話が。その万が一を考えて王家も早くクリスティアン殿下を婚約させてお嬢様と交流をはかっているんだけれど」

「やはりそうでしたか」

「お嬢様は相当明るくなったね。ガルシア公爵令嬢は暗くて何を喋っているか分からない、下位の者を見下して口も利かないなんて言われていたのに。君がお嬢様付きになったこの二年で変わったみたいだね」

「そんなことはございません。お嬢様が自ら努力し成長なさったのです」


 私は公爵家に拾われたがすぐにお嬢様付きになったわけではない。当時のダリアお嬢様は年齢のわりに発語が遅く、他家の子供たちとの交流はうまくいっていなかった。そのため大変暗いお子様だった。


 そんな現状を憂いた奥様は侍女の中でもお嬢様と年齢の近い私をお嬢様付きにした。結婚・妊娠の予定が皆無で、辞める予定もなかったからだ。私だってここを辞めたら他に行くところなんてない。


 うまく会話ができないお嬢様は暗く、口を開いたら「何言ってんの?」「はやくしゃべったら?」と同年代に馬鹿にされ続けた経験から口数は極端に少なくなっていた。公爵令嬢という身分もあって「下位の者とは喋らないらしい」なんて悪意のあるウワサもこっそり流されていた。


 恐れ多くもお嬢様と自分を重ねた。

 元婚約者の去り際の言葉は鏡で自分の顔を見るたび、三回に一回は思い出してしまう。「頭でっかちで不細工な君のような女とは結婚したくなかった」と。私はあんな奴の言葉で傷つく必要なんてないのに。義妹にたぶらかされるようなあんな最低な男に。分かっているのに反芻される。


 そのこともあって、私はお嬢様を褒めまくった。お嬢様が口を開くまで辛抱強く待って会話した。絶対に急かさない。主にやったのはこれだけ。私が一番誰かにやって欲しかったこと。それをお嬢様にしただけなのだ。それでお嬢様は変わっていった。最初は人見知りを発動してしまうものの、打ち解ければ同い年の殿下よりも語彙が豊かでよく喋る。殿下ともよく打ち解けて、最近は手をつないで一緒に歩くので尊すぎて辛い。心臓がもたない。


「君が結婚相手を探してるって聞いていたんだけど。護衛騎士たちはお眼鏡にかなわなかったって」

「殿下の嫉妬です」

「え?」

「殿下がお嬢様の一番になりたいがために、私を結婚によって排除しようとしているのです」

「君を辞めさせるってこと?」

「そこはお嬢様が阻止してくださいましたが……とにかく私を結婚させればお嬢様の一番になれるとお考えのようで、そこから殿下はお茶会のたびにお嬢様と相談して男性を紹介してくるのです。私に結婚願望はありません」

「そうだったのか。てっきり君が結婚相手を積極的に探しているのかと」

「断じて違います。私は平民ですし、そんな恐れ多いです。お嬢様のために私は生きます。一生お仕えします。尊さを拝み倒します。私の中でお嬢様が一番です」

「そう宣言されると大変言いにくいんだが……君は平民じゃない」

「はい?」


 カルレインは目をそらして頬をかいた。


「調べたら君はまだリード伯爵家のご令嬢だ。君を除籍したという書類が提出されていないんだ」

「う、嘘ですよね?」


 焦って声が上擦った。卒業式の日に全員で私の元に押しかけてきて、あれだけ言っておいて除籍がまだなんて勘弁してほしい。確認していなかった私も悪いけれど。


「宰相補佐官として調べたから嘘じゃない。後継ぎは君の義理の妹になっていたが」

「提出忘れでしょうか……」

「その可能性もあるが、君はもう成人しているから自分で出せるよ。当主のサインがいらないから」

「じゃあ、次の休みに書類をもらって提出しないと!」

「次の休みはいつ?」

「明後日です」

「俺も休みなんだ。それなら一緒に行こう」

「は……はい?」


 勢いで返事をしそうになって我に返る。危ない、実家が絡んで詐欺に遭いかけた気分だ。


「除籍書類の提出ってよく分からないだろう? 俺と行けば時間短縮になるよ。流れも部署も全部わかるし。何か不備があってもう一度呼び出されるのは面倒じゃないか」


 しばし効率を考えて私は頷いてしまった。

 なんといっても憧れの人のお誘いだ。中身は除籍書類の提出だが、一生に一度の思い出くらい持っていてもいいだろうなんて思ってしまった。



 そして二日後。

 久しぶりの外出を同僚たちに奇異の目で見られ「除籍の書類を出しに行く」と告げれば「まだだったの!?」と驚かれ。お嬢様には「アガシャがこのわんぴーすをきてくれないとやだ! じゃなきゃはみがきしない!」と朝から私の服装についてダメだしされて泣かれ。


 王城に到着する頃にはすでに疲れていた。


「大丈夫? 除籍となるとやっぱり緊張してる?」

「いえ、朝から除籍の話を同僚にしたら驚かれてしまいまして説明が大変でした」


 いつも制服で会っていたので、今日のように私服で会うのは初めてだ。王城に用があるためそれほどだらけた格好はお互いしていない。


「いつもお仕着せだから今日は新鮮に感じるな。いつもそんな感じなの?」

「これはお嬢様に泣き落としをされました。お嬢様はオシャレに敏感ですので服装チェックされたんです」

「そうなんだ? グリーン、良く似合ってる。お嬢様は君の目の色と合わせて選んだのだろうね」

「……ありがとうございます」


 さらりと言われて、はしたなく胸が高鳴るが顔には出さない。そんな初心な反応はもうできない。


「こちらの保証人欄にサインをお願いします」

「あ……」


 書類を順番に埋めながらある箇所で止まってしまった。成人すれば親のサインは必須ではないが、第三者のサインは要るのか。知らなかった。


「一旦持ち帰って……」

「俺がするよ」


 一旦帰ってから公爵夫人にサインをお願いしようと思ったが、カルレインが書類を奪ってサラサラとサインしてしまった。相変わらず、綺麗な流れるような字だ。


「戻ってまた来るのも面倒だろう?」

「ご存じだったんですか、保証人のサインが要るって」

「借金の保証人じゃないんだから俺がしても問題ないよ。自棄を起こして除籍書類出したわけじゃありませんって念のための措置だから。さ、これで終わり。お腹空いてない?」


 書類を提出して来た道を戻る。


「いえ、公爵邸に戻ります」

「今日は休みなんだろう? 書類提出に付き合ったから俺にランチを奢ってくれない?」


 彼はこんな軽いノリの人だったのか。学園時代から交友関係も広かったから私のような根暗な人間でも誘ってくれるのかもしれない。


「分かりました」

「いい加減、敬語はやめて欲しいんだけど。同級生なのに」

「私はいい店を知らないので、お店選びはお任せします」

「じゃあ、あそこがいいかな」


 彼は宰相補佐官なので、道すがらいろんな人に声をかけられる。その度に私は数歩後ろに下がって、俯いたり他の方向を眺めたりしながら話が終わるのを気配を消して待った。さすがに書類提出まで付き合ってもらってズンズン先に歩いて行くのはよろしくない。


「あれ? もしかしてリード嬢? あ、ごめん。なんて呼べばいいかな……」


 カルレインと話していた男性に目を向けると、彼も学園の同級生だった。成績が良く、子爵家の令息だったはず。そして、卒業式の日に一番近くで運悪く我が家の醜態を目撃してしまった人だ。それほど親しくなかったのに懸命にいろんな人に声をかけガルシア公爵家につなげてくれた恩人である。


「ご無沙汰しております。その節は大変ありがとうございます」

「いやいや、せっかくの卒業の日にあんなことは酷いよ。子爵家だとやっぱり声かけてもなかなか。でもガルシア公爵家に勤めてるんだろう? 良かったよ、なんとかなって。ほんとに」

「本当にありがとうございます。アビントン様があの場にいてくださらなければ路頭に迷っていたと思います」

「いや、そんなことないよ。成績が良かったんだから役人として城勤めもできたはずだ」

「すぐに受験できるわけではありませんから」


 恩人と少しばかり往来で会話をし、まだ除籍されていなかったと説明すると大層ここでも驚かれた。


「え、あれだけのことを言っておいて? おかしくないか。気を付けた方がいいよ。除籍の書類は手続き完了までに一カ月かかるから。担当部署に知り合いがいるから急ぐように言っとく」

「何から何まで本当にありがとうございます」

「同じクラスだったんだから。でも除籍が完了するまでは本当に気を付けた方がいい。もしかしたらわざと除籍しないで残しておいたのかもしれない」


 成人していても除籍していなければ無理矢理誰かと結婚させることはできるから、と言われて思わず身震いする。


「おい、あんまり変なこと言って怖がらせるなよ」

「悪い。でもカルレインがついてるなら心配ないよな」


 彼はカルレインの肩を叩くと爽やかに笑って去っていく。彼の背中にも深々と礼をした。


「じゃ、行こうか。あいつは文官なんだよ、よく会うんだ」

「そうなんですね」

「宰相補佐官といってもまだまだ雑用下っ端だから」


 そんな話をしながら歩いていて、曲がり角から急に出て来た誰かにぶつかりかけた。慌ててよけたのはいいが、よろめいて倒れかけ間一髪で横からカルレインに腰を抱きかかえられた。


「うわ、すみません! ってダンフォードじゃないか。あれ、女性と一緒? 珍しいな。婚約者か?」

「いや、口説いてる最中」

「あ! あー、もしかしてガルシア公爵家の? へぇー、頑張れよ。ってか俺いい仕事したかも? 悪い、ちょっとこれ急ぎなんだ。もう行くわ」


 カルレインの胸に抱き寄せられ、ぶつかりかけた相手の顔は最後まで見えなかった。腰に添えられた手は熱いのに、心と頭は急速に冷えていく。


「あいつ、せっかちなんだ。足捻ってない? 大丈夫?」


 腕に力を込めて彼から距離を取る。


「大丈夫です」

「良かった」

「ダンフォード様は私をからかっていらっしゃるんですか?」

「いや……もしかしてさっきのあいつが言ってたこと気にしてる? 俺が仕事を抜けるのも半休取るのも珍しいからそれで」

「賭け事かなにかされているんですか」

「何を言ってるんだ? そんなことしてない」


 城をカルレインと歩いていて周囲の反応を見て分かっていたじゃないか。みんな「あれ?」とばかりに奇異なものでも見る視線を向けてくる。

 私の知らないところで結婚相手の斡旋の話はどんな風に広がって言われているのだろう。現にさっきぶつかりかけた男性も知っていたじゃないか。


 そのことが不快なのか、怖いのか。自分でも良く分からない。しかし、頭に響くのは元婚約者の言葉だ。


「私のことを口説いているなどと冗談でも口にしないでください。私のような頭でっかちで不細工な女があなたに口説かれているなんておかしいでしょう。釣り合いません。あなたは出世頭で宰相補佐官なんですよ。ご自分を大切にしてください」


 すぐに返事はなかった。

 鞄から財布を出そうとごそごそしていると、震える声が降ってくる。


「……誰かにそう言われたのか」


 彼は珍しく怒っているような表情だが、返事もしたくない。


 卒業式の日に、元婚約者からそう言われた。それを聞いていたのはさっきのアビントン様だけ。彼はとても優しい。私がどんな風に罵られたか、面白おかしく吹聴もできるのにしないのだから。なんていい人なのだろう。彼だけは禿げず、太らず、病気にもならず好きな人と一生添い遂げて欲しいなんて祈ってしまう。


「今日はありがとうございました。ランチ代はこれで」


 財布からいくらか紙幣と硬貨を抜いて彼に押し付ける。適当に掴んだ硬貨は床に落ちた。カルレインは律儀に拾おうと身をかがめる。その隙に彼のジャケットのポケットに紙幣を突っ込んで逃げるように走り出した。あのお二人と遊んで足は鍛えられているのだ。いくら彼でも追いつけないだろう。


「アガシャ!」


 彼にそうやって名前を呼ばれたのは学園の図書室以来だ。でも、振り返らない。彼と私は絶対に釣り合わないし、今日みたいな軽率なことをしてはいけなかったのだ。私のような頭でっかちで不細工な女が。


***


「レインとけんかしたのか?」


 約束していたお茶会の日ではないのに殿下がいらっしゃった。除籍書類を提出しに行った二日後である。馬車から下りるなり、殿下は私に飛びついて聞いて来た。おそらく来る前にカルレインを誘ったのか、カルレインが先に話したのか。


「はい。私が勝手に怒っているだけです」

「けんかしたら仲直りしないといけないぞ。おしりぺんぺんだぞ」

「殿下がおしりぺんぺんしてくださるのですか」

「おかーさまがする」


 高貴で美しいあの王妃殿下がそんなことをなさって……子育ては大変だ。


「仲直りするために殿下が私のおしりをたたいてくださるのですか?」

「うーん。おしりぺんぺん痛いから」


 痛いんだ……。あまりの可愛さに鼻血を出しそうになりながら耐える。


「レインはアガシャのことががくえんのときからすきだっていってたのに、どうしてけんかしたんだ? すきなのにけんかするのか?」

「殿下」


 侍従が止めるが、五歳の殿下の口は止まらない。口を塞ぎたいのだろうが、殿下にそんなことはできない。


「レインはそういってた」


 カルレインは優しい。きっとそれは友人として好きの意味だろう。


「私が悪いのです、殿下。私がもっと綺麗で朗らかだったら勇気を出せたかもしれません。ということで来世に期待してくださいね」

「アガシャはきれいだぞ? しせいも字もきれいだし、よくあそんでくれるしうそもつかない」


 おおぅ、私、今死んでもいいかも。卑屈で涙がでかけていたが殿下の純度のみの言葉に涙は引っ込んだ。


「アガシャのかみのけだってきれいだぞ」

「よくカラスみたいな陰気な色と言われます」

「カラスはかしこいからすきだ。それに、アガシャのかみはつきのないよるみたいないろだ」

「新月の夜ですか」

「ぼやけたつきがでていてもきれいじゃない。よるがくるとあんしんする」

「殿下は夜がお好きなのですか?」

「そうだぞ。あしたはどんなたのしいことがおきるか空をみながらわくわくする。アガシャのかみのけはそんな空のいろだ。あ! もちろん、一番きれいでかわいいのはダリアだ」

「その通りでございます」


 殿下、よく分かっていらっしゃる。そしてなかなかロマンチックなことも。


「レインと仲直りしろ。しごとがすすまないとコショーがいっていた」

「コショー? 宰相ですか?」

「あのヒゲがくろいコショーだ。レインがつかいものにならないって」


 うん、きっと宰相様だな。宰相様は黒い立派なヒゲをお持ちだ。殿下はあのヒゲを触ったことがあるらしい。


「殿下がおしりぺんぺんしてくださったら仲直りします」

「えー。あれ、いたいんだよ。アガシャにはこれ」


 書類を出してもらうのに付き合ってもらってあの態度はなかったとは自分でも思う。謝ってそれきりにしよう。私は勘違いなんてしていない。ただ、殿下にお尻でも叩いてもらわないと卑屈な私は元気が出ない。

殿下の目線でしゃがんで会話していると、殿下は指でペシっと私の額を叩いた。


「なんでしょうか、これは。殿下」

「デコピンだ」


 ちょっとやり方が違うような。


「でんか! アガシャをいじめてはいけません!」

「ダリア!」


 お嬢様が来てしまった。殿下と会えるのが嬉しいのだろう。いつもなら庭で待っているのに走ってここまで来てしまったようだ。

 お嬢様はててっと近付くと私に抱き着いた。役得。多分、私は殿下に対してどや顔を披露していることだろう。


「アガシャ、いたい?」

「いたくないですよ、お嬢様」

「ほんとう? あかくなってる」


 お嬢様は顔を近付けて私の額にちゅっとキスを落とした。え? 私、今これで死んでもいいんですけど。額を一生洗わなくていいのですけれども。


「なっ! いじめてないのにどうしてアガシャにチューするんだ!」

「アガシャがいたそうだからです」

「お嬢様、殿下は私をいじめていません。私をはげましてくださったのですよ」

「そうなの?」

「しょうだ!」


 殿下が噛んだ。なんと可愛い。

 お二人の誤解はちゃんと解けた。「つぎはレインをひきずってくるからな! 仲直りだぞ!」とお茶会をして帰って行った。



 次に殿下が来られる頃には除籍は済んで平民になっているだろう。

 そんなことを考えながらある日、お使いに出たところで事件は起きた。尊い事件ではない、本当の事件だ。


「アガシャ」

「まぁ、リード伯爵。王城はあちらです。ここは女性に人気の菓子店でございますが目でも悪くなったのではないでしょうか」


 お使いを済ませて店を出たところで待ち構えていたのは父だった。場違いが服を着て立っている。


「本当に可愛げのない娘だ」

「もう娘ではありませんから」

「ついてこい。ついてこなければガルシア公爵家まで行って娘を出せと騒ぎ立てる」

「それは貴族どころか大人としてどうなのでしょうか」


 五歳児でもやらないと思うけど。


「あそこのお嬢様と王子の婚約に影響が出ないといいな?」


 この人が公爵邸前で騒いだところでしょっ引かれるだけだ。リード伯爵家の評判は地に落ちるが、ガルシア公爵家も足くらいは引っ張られてしまう。


「分かりました」


 仕方がなく伯爵についていく。私の帰りが遅ければ皆が不審に思って探してくれるだろう。店の前を通って通りを抜けて止まっていた馬車に強制的に乗せられた。


「それで、わざわざ何の御用ですか?」

「リード伯爵家が危ない」

「あら、人間は危篤になりますけど家も危篤になるのですね」


 向かい合せの座席から睨まれたが仕方がない。体勢は向き合っていても心は向き合っていない。継母と義妹を連れて来てから父との会話なんてほとんどなかったのだ。今更何を話せと。


「妹が後継ぎでいるではないですか。その婚約者も。彼らはどうしたのですか」

「提案された新規事業に手を出したらうまくいかずに借金だけが残った」


 それって詐欺案件だったのでは?


「私にはもう関係ないことです」

「まだお前の除籍はしていない」


 うわぁ、除籍していないのはわざとだったのか。呆れた表情で父という名の塊を見る。除籍が済めばもうすぐ元父の塊になる。


「卒業式の日に『もう他人だ』とおっしゃいましたよね。ボケたのでしょうか。いい医者を紹介しましょう」

「他人だといくら言葉で言ったところで血のつながりが消えることはない」


 父に似ていなくて良かったと今ほど思ったことはない。私は母似だから冷遇されていたということはある。


「で、お話は以上でしょうか。仕事に戻らないといけないのですが」

「お前にはこのままボーマン男爵家に嫁いでもらう」


 ボーマン男爵って成金男爵家の? 成金はなにも悪くないのだけれど、ボーマン男爵が若い女の子を複数囲っていることは問題だろう。女性たちの入れ替わりはあるが、数は減らないそうだ。ついでにいえば私はもう若くない。


「とうとう頭がおかしくなったのですか」

「ボーマン男爵にできた借金を清算してもらう代わりに娘を渡す契約を結んだ。セアラは後継ぎだからお前が嫁ぐ。セアラのためにもなるから決定事項だ」


 セアラは義妹の名前だ。そういえばそんな名前だった。


「なんですか。そのふざけた契約は」

「仕方がないだろう! 借金が期日までに返せなければ先祖から受け継いできた伯爵邸を手放さなければいけない。お前はまだ除籍しておらずリード伯爵家の娘。娘は家のために政略で結婚するのが当たり前だ」

「この国は一夫一婦制ですよ? 男爵は奥様がすでにいらっしゃいますから結婚ではないですよね? なんですか、愛人ですか」

「愛人でも妾でも何でもいい。お前のような不細工でも引き取ってくれると言うんだ。借金額くらいお前に価値があったのは良かったじゃないか」


 契約の件は本当だろう。この父はおかしな行動力だけはあるのだ。喪が明ける前に愛人と義妹を連れてきて、卒業式の日にあんなことをするくらいだから常識もない。


「なぜ私が今更家のために尽くさなければいけないんですか。それは大切に育てられた人にかけるべき言葉でしょう」

「お前を育てるのに金は出した。その金を男爵家に行くことで返せ」


 これが親なのか。というかこんなことを言う親がいるのか。そもそも義妹の方に金がかかっているだろう。あの子、学園では特待生じゃなかったもの。ドレスもよく新調していた。そもそも、リード伯爵家は詐欺に遭おうともそんなにすぐ傾く財政ではなかったはず。


 義妹のことを言えば「あの子は六歳まで一緒に住めなかったんだ」とか言うに決まっているから面倒なので言わない。結局、政略結婚した母よりも愛人とその娘の方が可愛いのだ。それは仕方がない。親にとって可愛がれない子供だっているだろう。私もお嬢様と殿下以外の子供は苦手だし嫌いだ。

 でも、帰って来るなと言った長女に対して男爵家の愛人になれと命じるのはお門違いだ。


 私は愛が分からないなりにお嬢様に愛を出したつもりだ。そうしたらお嬢様も徐々に愛を返してくれた。この間のでこちゅーとか。それでやっと分かったのだ、これが愛だったのかと。

 なんだ、この父は私のことを全く愛していなかったのだ。どうして私は後継ぎになるからと途中までいろんなことを頑張っていたのだろう。


 ポケットを探るとちゃんとソレは入っていた。侍女は全員持っている護身用のソレである。黙り込んだ私に勘違いした父がニヤッと笑った。


「どうせもう男爵家に向かっている。助けが来る頃にはすでにお前は」

「私はお嬢様のところに帰ります、今すぐに」


 顔を背けてソレを父に向かって噴射する。


「がああ!」


 贅肉たっぷりだからもっと獣らしい声が出るのかと思ったら、予想よりも人間らしい叫び声だ。獣に対して失礼だった。唐辛子たっぷりのスプレーはガルシア公爵家の侍女の嗜みアイテムである。


 目の痛みでのたうち回っている父の塊を、邪魔なので蹴りあげてから馬車の扉をわずかに開ける。もちろん馬車は走行中だ。


「うわ、もう街から出かけてるじゃない」


 賑やかなのは王都の中心部のみだ。少し馬車で走れば当たり前だが、農地農地そして農地。むしろ飛び降りて人を巻き込まないのでありがたい。


 縋りついて体重をかけると大きく扉が開き、扉と一緒に馬車の外で土の香りと外気に晒される。このまま飛び降りるべきか、それとも馬車の後ろまでつたって行って柔らかい地面を探して飛び下りるべきか。

 当たり所が悪くて気絶して男爵家に連れて行かれたら目も当てられない。


 馬車の中から聞こえるうめき声が小さくなってきたので、ひとまず御者でも脅して馬を奪おうというプランで馬車の先頭へ向かう。お嬢様と殿下に付き合わされ木登りだのなんだのしていたおかげで走行中の馬車をつたって移動できている。


「アガシャ! どこだ!」


 父が喚きながら開いた扉からきょろきょろと顔を出すが、スプレーのおかげで目が見えていないようだ。


 気合を入れ直して移動を再開するが、道が悪いので思うように進まない。ガタンという衝撃で手を一度離しかけて焦った。


「アガシャ!」


 父ではない声が聞こえて振り返ると、騎馬が後ろから近づいてくる。


「つかまって!」

「ダンフォード様? なんでここに?」

「いいから早くつかまって! 危ない!」


 ぎりぎりまで近づいてくれたカルレインの伸ばした手に掴まって、馬に乗せられる。カルレインが馬の速度を落とすと騎士たちの馬が次々と追い抜いて行き馬車を停止させた。


 父が騎士たちによって馬車から引っ張り出される様子を、カルレインと二人で少し離れたところから見守る。

 先ほどまで自分は冷静だと思っていた。でも、いざ助け出されると体が震えている。小刻みの震えに彼は気付いたのか、アガシャをさらに抱きしめてくる。


「ダンフォード様、大丈夫です」

「こんなに震えてるのに?」

「馬車に掴まったので筋肉痛でプルプルしてます」

「筋肉痛が出るのが早いな」


 抱きしめられたままなので声がこもる。


「どうしてダンフォード様がここに?」

「ちょうど視察で出てきていたんだ。そうしたら菓子店の前にいた中年太りの不審者がお仕着せの女性を脅して連れて行ったという通報が詰め所にいる時に入ってね」


 不審者ね、確かにあんなところに立っていたから目立っていたもの。


「特徴を聞いたら君じゃないかと思って。王太子殿下が行けと許可をくれたから」

「王太子殿下までご一緒だったのですか!?」

「殿下は視察を続けているよ。よし、馬車もこれから騎士団が回収するみたいだ。このまま公爵邸に戻ろう。事情聴取は後日にしてもらってるから」

「あの、離してください」

「まだ震えてるじゃないか。それに落ちるかもしれないからしっかり掴まって。自分を大切にしろとランチ代を押し付けて走り去ったのは君だろう?」


 そういえば、そんなこともあった。殿下に仲直りしろと言われていたのだった。可愛いデコピンまでしてもらって。


「書類提出に付き合っていただいたのにあのような態度をとってすみませんでした」

「いや、ごめん。謝らせるつもりじゃなくて。あの日に君が気分を害したのは当たり前だと思う。好き勝手ウワサされたら気分がよくないだろうし。でも、あんな捨てセリフを吐くわりに君が一番自分を大切にしてないからちょっと腹が立った」


 カルレインは手慣れた様子でゆっくり馬を進める。

 彼の言うことはもっともだ。私はずっと自分のことが嫌いで、大嫌いで。自分を大切になんかしたことがない。


「あんなひどいことを君に言ったのは元婚約者?」

「……はい」


 しばらく馬の歩く音だけが周囲に響いた。侍女の嗜みアイテム、馬車の中に落としてきちゃったとどうでもいいことが頭を過ぎる。


「俺は学園の時から君が気になってた。図書室で一生懸命領地経営に役立ちそうな本を読み漁っている君を。話してみたら面白いし」


 否定しようとしたが、察したカルレインが人差し指をそっと唇に当ててくる。


「否定は後で。でも、君は後継ぎで婚約者もいたから何も言わなかった。そうしたら卒業式であんなことが。俺は知るのが遅れて君のために何もできなかった」

「それは仕方がないです」

「それでも知っていれば君のために何かできたはずだ。君は学園の成績が良かったしきちんとしているからガルシア公爵家で雇われた。傷ついているだろうと思ったし、君を養えるか、あるいは君が新しいことに挑戦できるくらいの稼ぎはある男になろうと思った」

「そんなことは」

「反論も後。そうしたら第三王子殿下が君にいろんな男紹介してるって聞いて驚いたよ。慌てて殿下のところに行って次は俺を連れて行って欲しいってアピールしたんだ。最初は断られた。五歳児にだよ? 何あの王族。『がくえんでこくはくもしなかったヘナチョコはアガシャにしょーかいできない』って一丁前に」


 カルレインが殿下の真似をして舌足らずに喋るので思わず吹き出してしまった。殿下は「ヘナチョコ」と言いたかったのだろう。

 お嬢様だけでなく殿下にもこんなに愛されていたなんて。私は知らなかった。


「で、宰相経由で妃殿下にもお願いして連れて行ってもらったのに君には全然結婚願望ないし」

「すみません」

「謝罪も後で。しかもお嬢様と殿下の尊さしか語ってくれない。書類提出にかこつけて休みに出かけようとしたら口説いているのを冗談だと決めつけられるわ、釣り合わないって言われるわ、お金押し付けられるわ」

「ははは」


 乾いた笑いしか出ない。


「しかも今日は誘拐までされかけて。はい、じゃあ否定と反論と謝罪をどうぞ」


 見上げるとカルレインの視線は前方ではなくこちらをしっかり見ていた。理知的な琥珀色の目だ。


「私の除籍がまだでしたので、新規事業に失敗してできた借金のカタにボーマン男爵家で愛人にされるところでした」

「はぁ?」

「ということで助けていただいてありがとうございます」

「いや……ほんと良かった、無事で。すでにリード伯爵は自分で撃退してたっぽいけどそれでも間に合ってよかった」


 もう一度カルレインを見上げると手綱を握ったまま片手で抱きしめられる。腕に彼の胸板が当たっている。お嬢様や殿下の方が体温は高い。でも、大人もこれほど温かいのか。安心する。


「もうすぐ除籍も完了するので実家のことでご迷惑はかけないと思います」

「また他人行儀な」

「平民になる前に言っておきますね。私、ダンフォード様のことが好きでした」

「待って、過去形? 過去形ってなに?」


 彼の慌てる様子が面白い。


「私は頭でっかちで不細工だからこんなこと言ってはいけないと思っていて、公爵邸でも王城でも。ダンフォード様とは明らかに釣り合っていないのだから」

「あの元婚約者、とりあえず殺そうか。君はあいつを大して好きでもなさそうだったのに、どうしてあいつの言葉だけそんなによく聞いて覚えているんだ」

「私が私のことを嫌いだったから。彼の言葉はちょうど良かったんです。勇気をもって自分の殻を破る必要もなかったし、言い訳にちょうど良かった」


 でも、私はあの尊いお二人に勇気と愛をもらったから。父からの愛なんてなかったし、要らなかったのだから。


「私は自分を大切にする方法がまだ分からないけど、やっぱりダンフォード様が好きです」


 彼の手綱を掴む手に力が入る。

 私は先ほどとは別の意味で震えていた。告白とはなんと恐ろしいものなんだろう。これなら片想いで内心キャーキャー言っている方がよほど楽だ。自分の気持ちに向き合って相手に伝える。五歳児が簡単にできることが年を取るにつれできなくなる。


 でも、気持ちを言えた今の私は自分を好きになれそうだ。


「俺と付き合うなら結婚前提だから」

「いいんですか? そろそろ平民ですよ、私」

「言い逃げはもう許さない。今日もし夕飯代を置いて帰ろうとしても追いかけるから」

「今日は、さすがにしません。助けに来ていただいたのに」

「平民とか関係ない。どこかの養女になったっていいんだし。そもそも俺だって後継ぎじゃないんだから」


 片手で抱きしめられて頬にキスされた。


「これは殿下には内緒で。『チューはだめだからな! けっこんしきでだからな!』って言われてる」

「ぶぶっ」


 あまりの殿下の可愛さに私はまた吹いた。


「ずっと好きだった。殿下とお嬢様じゃなくて俺を一番にしてくれる?」

「それはちょっとまだ無理です。あのお二人は別格で尊いので」

「即答は酷くないか」

「信頼と信用を積み重ねていきましょう」


 リード伯爵は私の誘拐で逮捕され釈放されたものの、新たな詐欺に引っ掛かったようでさらに借金を重ね結局リード伯爵家は没落した。父と継母は平民になったようだ。セアラはボーマン男爵家に送られたらしい。元婚約者の行方は分からない。聞いても婚約者となったカルレインは笑っているのでもう聞かないことにした。


***


「殿下、最近は白いポニーにお乗りにならないのですか」

「ダリアがくりげの馬がいいと」

「それはダンフォード様がアガシャ様を栗毛の馬に乗せて公爵邸まで送った姿をご覧になったせいでしょう」

「そうなんだよ、はくばのおーじさまかっこいいっていってくれてたのに」

「ダンフォード様に今度白馬に乗っていただきましょう」

「レイン、かくれてアガシャにチューしてたからポニーはかしてやらない。このまえのおちゃかいでみた。やくそくをやぶる男はダメだ」

「殿下の白いポニーではダンフォード様をお支え出来ないと思いますよ」

「ダリアはけっこんしきのじゅんびにむちゅうだし」

「まだアガシャ様たちはお付き合いを始めたばかりではないですか」

「きがはやいんだよね。でも、よこーれんしゅうだっていってた」

「それはようございました」

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