鬣犬(1)
〈鬣犬〉
綺麗な三日月の下で、突風が吹いた。草木が揺られ、周囲が騒がしくなる。勿論、揺られるのは植物だけではない。首元の美しい毛並みも、一斉に斜めに倒れる。
「涼しいわね」
出し抜けに女王様が振り返る。その首元を眺めていた私は、内心ではっとした。慌てて表情を作り、「そうですね」と返す。その返事を聞いて、女王様の口角がぎゅっと上がった。その愛らしい笑顔に、私の胸は安寧を得る。女王様の傍にいられることがどれほど幸せか、切に感じる。
「ただ風が止むと、夜とは言え蒸し暑いわ」
「昨日の大雨が影響してるのでしょうか」
「ニェンガはそのお面、暑くないの? 何度も言ってるけど、そんなの着けなくていいのよ」
女王様がその華奢な手を私に向ける。私も自らの格好を確認する。全身は衣服に包まれ、頭部も面で覆われていた。胴体を隠すのは雌もすることなので珍しくないが、顔まで隠しているのは確かにこの村で私だけだろう。しかしこれは、女王様に仕える私にとって、必要なことだ。顔を女王様に見せるなんて畏れ多い。
「……いえ、女王様に仕える者として、お見苦しい姿は見せられません。これが正装と考えております」
これまで何度もした説明を、今度もする。女王様はそれを聞いて、「律義ね」と笑った。その美しい瞳をこの距離で見られるのなら、多少暑くても動きにくくても、我慢することができる。
「今日は天気がいいから、皆の様子がよく見えるわ」
辺りを散歩していた女王様が、卒然と立ち止まる。そして、女王邸のある小高い丘から、アンス・フィシーの村を見渡した。星空の下、松明の火が至るところに煌めいていて壮観だ。目を凝らしてみると、昨日の雷雨で壊れた家を修復する者もいれば、じゃれ合って転げ回る子供もいる。
「皆、元気そうですね」
「それが私の幸せ」
「……女王様は本当に、アンス・フィシーの皆を愛されてますよね」
思わず言葉が漏れる。すると女王様は不思議そうな顔をして、「悪い?」と聞き返す。私は慌てた。
「悪いなんて、とんでもない。ただ、まるで花を愛でるかのように村を見渡す女王様の横顔を見て、感心しただけでございます」
「あら。何故それだけで感心するの?」
「世の中にはどうやら、民をぞんざいに扱う君主もいるようで」
女王様はますます不思議そうな顔をする。「どうしてそんなことを知ってるの?」
「あ、いや、あくまでも、物語で聞いた話にすぎませんが」
「物語?」
「ええ。……子供の頃、近所の親父がよく物語を聞かせてくれたのです。その話の中では、全てとは言いませんが、稀に酷い王様もいました」
私がそう説明すると、女王様の顔が綻ぶ。「それなら私も聞いたことがあるわ。でも、現実にそんなことがあるのかしら」
「物語というのは、意外と的を射ているものです」
「私には考えられないわ。どうして民を大切に思わないのか」
「それは女王様が素晴らしき人柄をお持ちだからです。王と言えど、全員がそうとは限りません。寧ろ王であるからこそ、傲慢になってしまうのかと」
なるほど、と女王様が納得したような表情を見せる。そして表情を引き締めた。
「皆の上に立っているからと言って、ふんぞり返るのは馬鹿のすることよ。たまたま王家に産まれただけで、その人自身は何も偉くないわ」
その言葉を聞いて、私は自然と微笑む。「アンス・フィシーの皆は、さぞかし喜んでいるでしょう。このようなお方が女王の座に就いて」
「さぁ、どうかしら。それだといいけど」女王様は苦笑する。「そもそも私は、本来なら女王にならなかった立場だから。傲慢になれるはずないわ」
私は返答に窮する。実はこの女王様は次女で、本来であれば姉にあたる長女が女王になるはずだった。が、長女は残念ながら、あることで命を落とした。それで王位がこの女王様に回ってきたというわけだ。残酷ではあるが、自然界に生きる我々は、いつどこで絶命してもおかしくない。
女王様が続ける。「まぁ、とにかく、私の願いは皆が平穏に暮らせること。それこそが最大の幸福であり、それ以上は望まない。望むべきじゃない」
「そうですね」私は首肯する。このような気高いお方に仕えていることが、この上なく光栄であると何度も実感させられる。私には、あの月と同じくらい女王様が輝いて見える。
「……そろそろ、食事に致しますか」
私がそう提案すると、「そうね」と女王様が答える。そして、「ではいただくわ」と足を曲げ、その辺に生えている植物を何本か引き抜いた。見慣れた光景ではあるが、やはり私は溜息をつきたくなる。
「女王様。たまには、肉をお食べになってはいかがですか。草を常食とするハイエナなど、見たことがありません」
私の諫言にも関わらず、女王様は摘み取った草を口に運ぶ。「私はハイエナじゃないわ。アンス・フィシーよ」
「しかし、肉を食べないと力が出ないではありませんか。アンス・フィシーと言っても、植物を好んで食べているのは貴女だけです」
「あら、ニェンガもよく植物を食べてるじゃない」
「私は……そりゃ、少しは食べますけど。でも肉もちゃんと食べてます」
咀嚼し終わったのか、女王様がまた腰を曲げる。そして更に草を追加した。ハイエナを起源とするアンス・フィシーが、こんな草を何本食べても満腹にならない気がする。
「何度も言ってるけど、肉は嫌なのよ」女王様が語気を強める。「動物を殺すのは、気分が良くないわ」
「ですがそんなことを言えば、植物だって生命です」
「ええ、そうね」女王様があっさりと首肯し、微笑む。「確かに、私の言ってることは、筋が通ってないかもしれない。でも、動物には親近感が湧くのよ。なんだか共食いしてるみたいで不愉快だわ」
「共食いではないと思いますが」私は苦笑する。「それに、ある程度は仕方のないことだと思います。弱肉強食の世界ですから」
「まぁね。でも、奪う命は一つでも少ない方がいい。そうでしょ? 食べないで済むなら、私は食べない」
「食べないで済まないんですよ」口角は上がっているものの、私は至って真剣だった。「先程も申しましたが、肉を食べないと身体が弱ります」
「あら、別にいいんじゃなくて? 私の身体が弱っても」
「は?」何を言っているのか、理解できない。衰弱していいわけがないだろう。「どういうことですか」
「だって……」
唐突に背後から音がしたのは、その時だった。
不意のことに仰天して、私は瞬時に身体を反転させる。同時に、「女王様、下がって!」と叫んだ。全神経が逆立つ。
が、そこにいたのは、ただの動物だった。「……ジャッカルか」私はほっと胸を撫で下ろす。ジャッカルも肉食だが、我々を襲ってくることはない。もしそんなことがあっても、こちらに軍配が上がる。
案の定、私と暫く睨み合ったジャッカルは、さっと踵を返してどこかへ去っていった。何事もなくてよかった、と改めて安堵する。すると背後から、くすくすと笑い声が聞こえた。私は不思議に思いながら、女王様に向き直る。
「……どうかされましたか?」
女王様は「いや」と首を横に振る。「なんだか可笑しくて」
「可笑しい?」私は眉を顰める。
「ええ。だってニェンガ、たかがジャッカルにあんなにも慌ててたから」
からかうように、女王様が笑う。私は決まり悪く感じて、口を尖らせた。「ジャッカルは、結果論です。音がした段階では、刺客という可能性もありました」
「刺客?」また、女王様は私を小馬鹿にしたような顔をする。「刺客なんて来ないわ。考えすぎよ」
「そんなの、分からないですよ」私は語気を強める。「弱肉強食の世界、何があってもおかしくありません。考えたくはないですが、女王様のお命を狙っている者がいないとも言い切れません」
「私の命なんて、狙っても何の価値もないわ。きっと美味しくもない」
「貴女はアンス・フィシーの王なのです。その地位を欲しがる者もいるかもしれません」
「例えば?」
「例えば……。クムワンバやサンスワなど」
ぱっと思いついた顔を列挙すると、今度こそ女王様は大きな笑い声を上げた。また私は渋面をする。
「彼らが私を殺しに来るなど……今まで考えもしなかったわ。そんなこと、果たしてありえるのかしら」
「例えば、の話です。とにかく私は、もう少し女王様に警戒心を持っていただきたいのです。ジャッカルと分かって笑うのではなく、安堵してほしいのです」
「どうして?」
「どうして、って。今私が散々説明を……」
「守ってくれるんでしょ?」
「……は?」
「仮に私が刺客に奇襲されても、ニェンガが守ってくれる。そうだよね?」
どくん、と心臓が波打つ。全身を巡る血が、ぐっと温度を上げる。
「……まぁ、そう、ですが」
「だったら、私が神経を尖らせる必要はないわ。さっき、私の身体が弱ってもいいって言ったのも、そういう意味」女王様が身体の向きを変え、鼻歌を歌い始める。とても穏やかな横顔だ。「頼りにしてるわよ、ニェンガ。貴方は誰よりも強いんだから」
笑顔の女王様と目が合う。その言葉に、私は身体の奥底から力が湧いてくるのを感じる。
「……守ります、私が。命を懸けてでも。女王様に、傷一つつけさせません」
かつて私は、そう誓った。この方に全てを尽くすと。
女王様がいなければ、今の私はない。
「いつもありがとう、ニェンガ」
私の返事を聞いた女王様は、満足そうな顔をして再度背を向ける。私はその背中をじっと見つめる。
民の平穏が女王様にとっての幸福なら、私の幸せは女王様の平穏だ。
例え何が起こっても、私は女王様を守る。それが私に課せられた宿命なのだ。
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