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うさぎのたてがみ  作者: 託実植乃
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【うさぎのたてがみ】兎(1)

【うさぎのたてがみ】


〈兎〉


 視界がチカチカと明滅したような気がして、僕は目覚める。うっすらと瞼を持ち上げると、真っ白な光が僕を照り付けていた。思わず、首を回転させて避ける。どうやら、屋根の隙間から太陽の光が差し込んできているらしい。昨日の雷雨で、何箇所も雨漏りしていたのを思い出す。

 早いところ、屋根を修復しないとな。そんなことをまどろみながら考えつつ、寝床から上体を起こす。寝床と言っても、ただ藁を敷き詰めただけだ。左隣に視線を遣ると、弟のフィコが寝息を立てて気持ちよさそうに眠っている。右隣に目を向けると……いつも通り、姉の姿はなかった。

「おう、目覚めたか」

 僕の気配を感じたのか、父が声をかけてきた。どうやら朝食を摂っている最中らしい。父は生まれつき足が悪く、一日中室内で腰を下ろしている。そのためか、腹回りが普通よりも肥大していた。

「あいつはとっくの前に出て行ったぞ」

「……そうみたいだね」

「ウラロも早く行きなさい」

 僕は渋々立ち上がる。家の外に出ると、昨日の悪天候が嘘だったかのように、綺麗な青空が広がっていた。全方位に映える緑が、太陽の光に照らされて煌めく。どこかで鳥の鳴く音がする。早朝だからか、まだ村内に皆の姿はない。木で作った同じような家が、静かに並んでいる。

 僕は足を前に出し、ある場所へ向かう。その場所とは、丘だ。僕たちの村の中央には、一つ、小高い丘がある。村を斜め上から覗くことのできる丘に、姉はいるはずだ。

 そして案の定、いた。

 誰もいない丘の頂上で、姉が黙々と腕を振り回している。両手に持っているのは石斧だ。腕を振り下ろす速度、両腕の連動性、肢体のしなやかさ。どれを取っても、僕とは比べものにならない。

 彼女が空中で身体を反転させたところで、僕の姿に気付く。訓練を中止し、「おはよう」と口角を上げた。立っている両耳が凛々しい。僕たちは暑いと感じた時、こうして長い耳を風に当てることで、体温を下げる。

「フィコは?」

あんなに激しい動きをしていたのに、姉は疲れを一切見せない。

「まだ寝てる」

「そう。ウラロ、朝ご飯はどうしたの?」

 訊かれて、僕は足を曲げる。足下に生えていた草を摘もうとする。すると頭上から、「あー、また草なんか食べようとしてる。そんなんじゃいつまで経っても強くなれないよ」という声が飛んできた。反射的に、地面に伸ばした右手が停止する。

「……動物なんかを食べてるの、姉ちゃんくらいだよ」

 僕が弱々しく反駁すると、姉は大きな溜息をつく。「ムファンブさんは毎日のように動物を食べてたって、お父さん言ってたじゃない」

「ムファンブさんは僕たちと違う」思わず、語気が強くなる。「ムファンブさんは、別の生き物だったんだよ」

 ムファンブさんとは、アンス・カルル史上最強の戦士だ。この村で、その名前を知らない者はいない。まさに伝説のお方だ。

「何言ってんの。私たちは、ムファンブさんと同じ血を受け継いでるんだよ」

 そう。にわかには信じられないが、僕はそのムファンブさんと同じ一族に産まれた。ムファンブさんの兄こそが、僕たちの父なのだ。つまりあのお方は、僕たちの叔母にあたる。

 でも僕には、ムファンブさんほどの強さは全くない。肉食動物と対峙した瞬間、内なる本能が疼いて、足腰が全く動かなくなってしまう。それはあの一件で証明された。だから、自分がムファンブさんと同じ力を秘めていると言われたって到底信じられないし、実際そうは思わない。あのお方は、異常だったのだ。神様が間違って、あのお方にありえないほどの力を与えてしまったのだ。

「僕には無理だって」気を取り直して草をむしり取る。それを口の中へ運んだ。「ムファンブさんどころか、姉ちゃんにもなれない」

 姉は僕と違って、本気でムファンブさんの後継者になろうとしている。だから今のように、一人で早起きして、一人で訓練を積んでいるのだ。そしてそんな努力が着実に実を結び、今では例えライオンと対峙したって負けない。ムファンブさんと同じくらいの強さを誇れるかはさておき、今のアンス・カルルでは唯一アンス・フィシーとやり合えるだろう。まだ若いから、これから肉体的にも充実していく。

「だって私は、肉を沢山食べてるもん」姉が破顔する。空は青いよ、とでも言うような趣だった。「ウラロも肉を食べたら、石斧を振り下ろす速度が上がる。走りも速くなる」

「前にも言ったけど、動物を食べるなんて野蛮だよ。そんなウサギ、見たことない」

 半ば自棄になってそう言うと、姉は苦笑する。「だって私たちは、ウサギじゃないもん。二本足で立って、武器を振り回すウサギが、どこにいる?」

 目の前にある彼女の肢体を眺める。茶色の体毛や長い耳にその面影はあるものの、一見すると人間に近い。外見だけでなく、例えば寿命も、一般的なウサギとは大きく異なる。自分という存在の中で蠢く「人間」が、日に日に大きくなっているような錯覚を覚えて気持ち悪い。認めたくなかったが、実はここ最近、動物の肉というものに興味を持ち始めている自分がいた。草が物足りなく感じるのだ。

「私たちはアンス・カルルなのよ。ウサギでも人間でもない」

 姉が、毅然と言葉を発する。温かい風が吹き抜ける。

「そしてそんなアンス・カルルを守るのは、私たち一族なの。それがこの一族に課せられた使命なの。……お母さんも、それを期待してるはず」

 お母さん。あの人は、僕がもっと幼い頃に死んだ。辛うじて顔を覚えているが、弟のフィコは全く記憶にないだろう。

 不意に、彼女は僕の右手首を掴む。いつの間にか、石斧を握らされている。

「ウラロはまだ幼い。パワーもスピードも、私より劣って当たり前だって。でもそこでいじけて諦めたら、弱いままだよ。毎日の訓練が、ウラロを強くするの。そして万が一のことがあった時、この村を守らないといけない。例えば、ロタちゃんとか」

 ロタ。その名前が唐突に出てきて、僕ははっとする。そして一輪の花のような感情が、僕の胸に広がる。と同時に、あの一件を思い出して、誰かに心臓を握り潰されたような気になる。目を背けたくなる。

「ロタちゃんは村長の孫だからね。もし危険から守ってあげたとなれば、村中から感謝される。なにより、雌っていうのは、自分のことを守ってくれる雄に否応なく惹かれるものなのよ。これはウサギも人間も同じ」

 姉がニヤリと笑う。それに乗せられるのも癪に障ったが、それが原動力であることも事実だ。僕は渋々、彼女からもう一つの石斧を受け取る。

 石斧を扱うのは、アンス・カルルで僕たちの一族だけ。守備隊の隊員たちは皆、弓と槍だ。だからこの武器を手にすること自体、特別なのだ。

 そう、何度も説明されてきた。

 ぎゅっと持ち手を握り締める。姉が行っていた動作を反芻して、武器を構える。

 凶暴な肉食動物の影を、目の前に映し出す。


 ムファンブさんがこの村の伝説になったのは、僕や姉が産まれる前のことだ。

 彼女は、アンス・カルル最大の危機を、その身一つで防いだ。

 最大の危機とは何か。それは、アンス・フィシーによる侵攻。アンス・フィシーが、この村を征服すべく、突如攻撃を仕掛けてきたのだ。

 アンス・フィシーは、僕たちアンス・カルルと同じく、半分動物、半分人間の種族だ。けれどやつらは、その動物の部分がハイエナという点で、僕たちとは意を異にする。体格も身体能力も、ウサギがルーツとなっている僕たちより秀でているし、草食動物を片っ端から狩っていくなど、性格もかなり荒い。そのためアンス・フィシーは、言わばこの界隈の王様だ。実際、クワラおじさんに聞いた話だと、シマウマにルーツを持つアンス・ムビジは、既にやつらに征服されてしまったという。普通に考えると、僕たちアンス・カルルも、アンス・ムビジと同じ道を辿る運命だ。

 そして案の定、アンス・フィシーはこの村を征服しようとした。楽勝だと思ったのだろう、たった五人で攻めてきたのだという。

 はっきり言って、やつらの認識は強ち間違いではなかった。いくら僕たちが守備隊を設置しているからと言って、やつらには到底及ばない。矢を一本打ったところで致命的なダメージは与えられないし、二本目を準備している間に距離を詰められてやられてしまう。よってアンス・フィシーの前で、守備隊は無力だ。やつらが五人いれば、アンス・カルルごとき一晩で制圧できる。

 だが、敵にとって思わぬ誤算があった。それが、ムファンブさんという存在だ。

 この村を攻めてきたのはその時が最初だったから、知らないのも無理はない。とにかくやつらは、ムファンブさんを全く警戒していなかった。そして彼女は、たった一人で、五人の敵へ向かっていった。

 その時はまだ、この村の者たちも、ムファンブさんの力に気付いていなかったのだという。勿論非凡であることは共通認識としてあったが、いくらなんでもあのアンス・フィシーを倒すなんて不可能だと思われた。しかも雌が戦の最前線へ赴くなど、常識では考えられない。

 でも、このままでは守備隊が全滅してしまうのも事実。村が占領されるのも時間の問題。皆、藁をも縋る思いでムファンブさんの背中を見つめていた。

 そして、その時起こった光景は、今も鮮烈に脳裏に焼き付いているという。村長も、父も、クワラおじさんも、皆口を揃える。

 ムファンブさんが、五人のアンス・フィシーを、瞬く間に葬り去ったというのだ。

 死に物狂いではなく、圧倒的だった。

 傷一つつけられることなく、敵を一掃した。

 もしかすると、多少の脚色はあるかもしれない。でも事実として、ムファンブさんは敵を全滅させ、この村を救った。

 あのお方がいなければ、僕は産まれていなかった。今僕の隣を呑気に歩く姉も、勿論存在しなかった。

「いやー風が心地いいねー。なんか丘よりこっちの方が涼しくない? 丘に比べて太陽から離れてるからなのかな」

「誤差だってそんなの。単純に、身体を動かしてないから体温が下がっただけでしょ」

 姉の間の抜けた感想を、僕がいちいち訂正してやる。ムファンブさんなら、きっとこんな陳腐な言葉を発さなかったはずだ、と心の中で思う。

「フィコは今何してるんだろ。まだ寝てるのかな」

「寝てるか、友達とじゃれ合ってるか」

「そろそろあの子も、本格的に訓練しなきゃね」

「え、もう?」

 反射的にそう言ってから、僕は思い直す。確かに、フィコも最近身体つきが良くなってきていた。いつまでも幼いと思っていたが、そろそろ頃合いなのかもしれない。

「アンス・カルルの貴重な戦力だからね。不測の事態に備えて、少しでも戦えるようにしておいた方がいいわ」

 姉の言葉に、確かに、と相槌を打つ。戦士が二人しかいないのと、三人いるのでは、五十歩百歩のようで大きな差がある。ただその「不測の事態」が何を指すのか、いまいち実態として掴めなかった。

「フィコは嫌がらないかな、訓練」

「さぁ、どうだろうねー。自分がどういう立場かまだ分かってなさそうだけど、でも訓練は嫌いじゃなさそう」

 これまた、確かに、と相槌を打つ。フィコはまだ幼いが、兄の僕と違って活発だ。道端でも、友達と駆けっこしたり力比べしたりしているのをよく見かける。石斧を持たせても、元気よく振り回してそうだ。

「やぁ君たち」と声をかけられたのは、その後暫く村内を歩いていた時だ。

「あ、村長さん。おはようございます」と頭を下げる姉に倣って、僕も挨拶をする。僕からすれば、「村長」というよりは「ロタの祖父」なので、また違った緊張感を抱く。

「どこへ行くんだ?」

 村長が、僕たちの顔を交互に窺う。村長はこの村で二番目に年配で、背は僕たちの方が遥かに高い。よって僕たちが見下ろす形となる。

「ムファンブさんのお墓参りに」と、姉ははきはきと返事した。

「おぉ、そうかそうか」村長の顔が綻ぶ。「殊勝だな」

「毎日の日課なので」姉がはにかむ。「ムファンブさんのお墓へ行くと、力を貰える気がするんです。『聖樹』と合わせて、効果抜群です」

「良い心がけだ。ムファンブはきっと君たちを見守ってくれてるよ」

 その後二、三言葉を交わして、じゃあな、と村長は去っていく。その背中を呆然と眺めていると、やはり村長というだけあって、所々で色んな村民と談笑を始める。ロタはまだ寝ているのだろうか、とふと思った。

 僕たちも再び歩みを進める。また暫く歩き続けて、やがて目的地が近付いてきた。ある程度の距離まで来ると、草木の隙間から「聖樹」が顔を出す。

「聖樹」とは、この村で最も大きな木だ。あまりにも巨大で、その姿が圧巻なため、アンス・カルルの皆はこの大木を神聖視し、村の守り神と考えている。

 そこから更に進むと、「聖樹」の隣にあるムファンブさんのお墓も見えてくる。

 ムファンブさんのお墓を「聖樹」の傍に設置しよう、と村長が提案した時、誰一人として反対しなかったらしい。つまりそれは、村の皆が、ムファンブさんをあの「聖樹」と同等と見なしたということだ。このことがなによりも、ムファンブさんの凄さを体現している。まぁ、皆の命を救ったのだから、当然の評価ではあるが。

「……おぉ、お前たち。おはよう」

「聖樹」とお墓の前には、先客がいた。守備隊隊長のマジュロさんだ。数十人いる守備隊のトップに立っているというだけあって、とても精悍な顔つきをしている。体格も、普通のアンス・カルルと比べれば頗る良い。

「偉いなお前たち。こうやって毎日お墓参りして」

 マジュロ隊長が目の前の石碑を一瞥する。僕たちの身長と大差ないくらいの石碑がそこには建っている。それが、ムファンブさんのお墓だ。普通のお墓と比べものにならないほど立派な外見をしている。

「さっき村長さんにもそう褒められました」姉が無邪気に破顔する。「私たちにとっては当然のことなのに」

「一応、叔母ですからね」

僕がそう付け加えると、「一応って何だよ」と隊長が突っ込みを入れる。

「実感が湧かないんです。このお方と同じ血が流れてるなんて」

 石碑を見つめる。お墓と言っても、それ自体は無機質な物体にすぎない。一度でいいから、ムファンブさんの勇姿をこの目で見てみたいと思う。

「まぁ、会ったことがない上に、ここまで伝説的な扱いをされてたら、自分がその親戚だなんて信じられねぇよな。でも、あれだ。実感がなくても、お前のその身体が、何よりもその事実を証明してる」

 隊長が、僕の胸部に手の平を当てた。そしてぽんぽん叩き、また大きくなったんじゃねぇか、と豪快に笑う。成長段階にある僕と違って、隊長は立派な大人だ。なのに身長は僕の方が遥かに大きい。それは隊長が特別小柄だから、というわけではない。僕が、そういう一族の産まれだからだ。

 何故僕の一族だけ、一際大柄なのか。クワラおじさんによると、遺伝上の何らかの理由で、普通よりも人間に近くなったのではないか、ということらしい。ムファンブさんがアンス・フィシーに勝てたのは、彼女がウサギではなく人間のようなものだったから。石斧を操って近接戦ができるのも、この体躯があるからこそ。逆に、隊長のような一般的なアンス・カルルは、小柄かつ非力ゆえ弓を用いた遠距離攻撃しかできない。

「隊長こそ、毎日ここへ来てるんですか?」姉が尋ねる。

「まぁな」

「偉いですね」

 年上に対して「偉い」という言葉は適切なのか? と思ったが、姉は全く悪びれていない。隊長は苦笑して答える。

「ムファンブさん亡き今、この村を守るのは俺たち守備隊の使命だからな。こうやって、ムファンブさんから力を貰ってるんだ。まぁ、お前んとこの一族ほどの力はねぇけどさ。だけど、雄として、お前らに頼ってばっかりいられねぇだろ。俺たちにも、プライドってもんがあるんだ」

 隊長がまくしたてる。それを受けて僕は、いやいや、と首を横に振った。

「実際、隊長はこの村を守ってくださってるじゃないですか。僕たちが毎晩安心して寝られるのも、守備隊が見張ってくれてるお陰です」

 お世辞でも何でもなく、心の底からの本心だった。僕たちにとって脅威となる外敵、例えばライオンやヒョウなどは、夜行性が多い。そのため、万が一この村へ寄ってきた時に追い払えるよう、一晩中見張り番を配置する必要があるのだ。その役割を、守備隊が交代で担ってくれている。

「俺たちがやってることなんて、初歩的なことだ」僕の言葉に対して、隊長が謙遜気味に言う。「ライオンとかヒョウとか、ただの動物はそこまで脅威じゃない。勿論近接戦になると危ないけどな。大体、そうなる前に弓矢で追い払うことができる。問題は、やっぱりアンス・フィシーだ。やつらが来たら、俺たちは何もできねぇ」

 隊長はそこまで言って、あ、という顔をした。失言をしてしまった、という風に、気まずそうな表情を一転して浮かべる。

「……すまねぇ。ただの動物は脅威じゃないって、どの口が言ってんだって話だよな。お前らんとこの母さんを守れなかったくせに。申し訳ねぇ」

 隊長が項垂れる。僕の母は、確かに、ヒョウに襲われて命を落とした。聞いた話によると、背後からの不意打ちだったそうで、母は一方的にやられてしまったようだ。隊長をはじめとした数人の守備隊が駆けつけたものの、ヒョウの獰猛さの前に成す術がなかったという。隊長はその時の罪悪感が未だに拭えないのか、時折こうして、僕たちに謝罪する。

「いいですよ、もう」僕は目尻を下げる。それほど無理矢理でもなかった。「誰も悪くないですから」実際母が死んだのは僕がかなり幼かった頃で、もうそのことからはとっくに立ち直っている。

「しかしだな。俺が守れなかったのは、お前たちの母さんだけじゃないんだ。俺のことを恨む者も……」

「やめましょう、そういうのは」隊長が続けようとしたのを、姉が遮る。「守備隊は、言葉では表せないほどの活躍をしてます。いくつかの失敗で罪悪感を抱くのは、割に合わないですよ」そう言って、姉はにこりと目尻を下げた。「そんなことより、アンス・フィシーは、また攻めてくるんですか?」

 僕たちが思いの外ケロリとしていたからか、隊長は僅かに面食らう。そして、「あ、あぁ」と我に返ったかのように元の会話に復帰した。

「攻めてくるという確証はない。だが、ムファンブさんがやつらに打撃を与えたのはもう随分前だ。態勢を立て直して再度侵略してくる可能性もゼロじゃない。……万が一攻めてきたら、かなりまずいことは否めん」

「今はムファンブさんがいないからですか?」

 そうだ、と隊長は頷く。「今度は、敵も用心して大軍を送り込んでくるかもしれない。そうなりゃ一巻の終わりだ。ただでさえ劣勢なのに、今はムファンブさんほどの戦士がいないからな。……勿論、お前らが弱いって言ってるわけじゃないんだぜ。ただ、あれだ、お前たちはまだまだ幼いだろ。お前ら三人姉弟が全員成熟してからなら勝算はあるかもしれないがな。今はまずい」

「あのムファンブさんでも、結局やられちゃいましたもんね……」

 村に攻めてきた五人のアンス・フィシーを倒した後、ムファンブさんは一人で遠征に出た。それはやはり、この村へ送り込んだ兵士が全滅したと聞いて、敵が再度大軍を送り込んでくるかもしれないと危惧したからだ。もしこの村に大勢で攻めてこられれば、甚大な被害が出ることは避けられない。だったらこちらから出向いて、機先を制そうという考えだ。

 アンス・カルルの皆は、当然不安に思った。ムファンブさんとて、単独で敵地に乗り込むなど自殺行為に思えたからだ。なにより、ムファンブさんに万が一のことがあれば、それはアンス・カルルにとってなによりの損失だからだ。かと言って、こちらに残された選択肢は多くなかった。言ってしまえば、このまま蹂躙されるのを待つか、一縷の望みをムファンブさんに懸けるかの二択だ。そして結局、ムファンブさんを送り出した。

 結論から言うと、アンス・フィシーが攻めてくることはそれ以降なかった。これが何を意味するかと言えば、一つしかない。つまりムファンブさんは、たった一人で、アンス・フィシーの兵士たちを大量に倒したのだ。二度とこちらに攻めてこられないような打撃を与えたのだ。

 でも、同時に、ムファンブさんが帰ってくることも、二度となかった。

 これが何を意味するかも、残念ながら一つしかない。アンス・カルルにとって受け入れがたい現実がそこにあった。

 けれど、皆はそこまで絶望しなかった。いや、勿論絶望はしたのだが、それよりもムファンブさんの功績を称えた。アンス・カルル最大の危機を救ってくれた彼女を礼賛し、このような立派な石碑を建てた。名実共に、ムファンブさんはこの村の伝説になった。その伝説は今でも頻繁に語られているし、今後僕も子孫に語り継いでいくだろう。

「まぁ、ないものをいつまでも嘆いててもしょうがねぇ。取り敢えず俺たちにできることは、少しでも槍と弓の能力を上げることだ。……もう二度と、目の前で仲間が死ぬのを見たくない」

 隊長が背伸びする。そして手の甲で、僕の胸をぽん、と叩いた。

「お前も、もっと強くなってくれよ。雄なんだから、本来は姉ちゃんよりも強くないといけないんだ。いつの時代も、どんな生き物も、雌を守るのが雄の役目だろ? そしてアンス・フィシーが攻めてきた時、頼りになるのはお前なんだ。やつらから、アンス・カルル全体を守ってくれ。やつら相手に俺たち守備隊ができるのは、あくまでもその援護だ」

 隊長がぎゅっと口角を上げる。

「ムファンブさんを、憧れの対象として見てちゃ困るぜ。今度は自分が、ムファンブさんになるんだ」

 僕はもう一度石碑を見つめる。そしてその隣の「聖樹」に視線を移した。ちょっとやそっとでは決して動じないほどの太い幹。そこから四方八方に伸びるこれまた太い枝と、その先端を覆う緑色の葉。まさしく、守り神に相応しい。

 これほど太い幹に、僕もなれるだろうか。生まれ育ったこの村を、アンス・カルルを、命を賭してでも守り切れるだろうか。

 突風が辺りをざわつかせる。けれど「聖樹」は、葉が揺らめくだけで、殆ど微動だにしなかった。

ご一読いただき、ありがとうございます!

楽しんでいただけているならば、とてもうれしいです。

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