【プロローグ ―現在―】
【プロローグ ―現在―】
誠二君へ
久しぶり。急に私から手紙が届いて、びっくりしたでしょ。こうして誠二君と話すのも(と言っても私が一方的に喋るだけだけど)、七月以来かな。この三か月近く、元気にしてた? ごめんね、今まで音信不通になってて。多分何度も連絡をくれたんだろうけど……お察しの通り、もう誠二君の連絡先は消しちゃった。だからこうして、手紙っていう古典的な手段で最後の会話をしようとしてるの。たまに書く手紙って、手は疲れるけど悪くないね。小学生の時、好きな子の下駄箱にラブレターを忍ばせたのを思い出す。まぁ、この手紙はそんなトキメキとは無縁だけど。
前置きが長くなっちゃった。ごめんね、下書きもなく思いつくままに書き連ねてるから、もしかしたらこの先も話が脱線したり冗長な文章になったりするかも。でも最後だし、我慢して読んでほしいな。
さて、本題に入るね。話したいことはいっぱいあるけど……誠二君も薄々(というより濃々?)気付いてるだろうから、結論を先に述べます。
私たちの関係は、もう終わりにしましょ。
え、今更? って思ったかもしれないね。確かに、カップルが三か月も連絡を取り合ってなかったら、いわゆる自然消滅ってことになるのかも。まぁでも、私は有耶無耶なまま終わるのが好きじゃないから、ちゃんとピリオドを打ちます。本当は対面で伝えた方がよかったんだろうけど、文章で許してください。最近の私は忙しくて会う時間がなかったし、なにより会っちゃうとしつこく食い下がられるのが目に見えてるから、手紙で一方的に突き放す方が楽だったの。性根の悪い女でしょ。でも、ここまで言わないと私のことを嫌ってくれない気がするから、あえて酷いことを言うね。誠二君はもうすぐ三十二歳だし、結婚願望も年々増してるようだから、私のことは忘れて他の良い女の子を見つけてほしいな。誠二君は銀行員ってだけあって給料が良いし、真面目で浮気しないタイプだから、割とモテると思うよ。結婚を意識した女が行き着くのって、結局そういう男だから。
それはさておき、誠二君が本当に聞きたいのってこんなことじゃないよね。誠二君が聞きたいのは、別れの理由でしょ。そもそもどうして俺は三か月近くも無視され、連絡先を消され、挙句の果てにこんな手紙を受け取らないといけないんだ、ってことでしょ。確かに少し前まで凄く仲の良いカップルだったし、突然のことに戸惑うのも無理はないと思う。
そうだね、別れを決心した理由は、二つある。逆に言えば、この二つだけ。それ以外は、本当に良い彼氏だった。それに二つの内一つは私の我儘みたいなものだから、誠二君に非があると言えるのは一つだけかな。でもその一つは私にとって決定的だったし、正直誠二君も自覚してるんじゃない? だってあの時、やっちゃった、って顔してたもん。
そう、あれは私たちが最後に会った日のこと。七月の下旬だね。お互いの仕事終わりに、呑みに行った。その時も会ったのが久々で、二人共やけに高揚してたのを覚えてる。誠二君、普段はそんなにお酒呑まないのに、あの日はテンション上がっちゃってがぶ飲みしてたよね。あー、今思えば楽しかったな。居酒屋の個室で、下らない話で大盛り上がりだったもんね。いつになく饒舌だった誠二君が可笑しかった。
でも、いつになく饒舌だったからこそ、あんなことが起こっちゃったのかな。
居酒屋を出て、いつも通り誠二君の家へ行く流れになって、夜の繁華街を並んで歩いてた時。前から歩いてくる中年男三人組に、突然声を掛けられた。声を掛けられたのは、誠二君の方。誠二君は一瞬怪訝な顔をして、そしてすぐに目を見開いて背筋を伸ばした。「か、課長!」と言ったから、三人組の内の一人が誠二君の上司なんだって察した。
誠二君は気まずそうにしてたけど、隣にいた私もかなりきまずかった。彼氏の上司と遭遇したんだから、当然だよね。でも、ほんの少しだけ、期待もあった。誠二君は会社の上司に、私のことをどんな風に紹介してくれるんだろう、って。「俺の彼女」なんて言われるの、ちょっと憧れるし。
実際その上司は、誠二君と言葉を交わしつつ、横目に私のことをチラチラ見てきた。私もその度に会釈した。その上司も酔いが回ってたから、殆ど躊躇いなく、「彼女か?」と茶化すように訊いた。誠二君はへらへらと照れながら、「ええ」と首を縦に振った。
ここまでは良かったの。でも、上司が次に何気なく発した言葉が、風向きを変えた。
「ん、なんだ……街灯の影になってるだけかと思ってたけど……」
上司は私の顔をまじまじと覗き込むと、そう呟いた。そして誠二君の方を向いて、「お前、外人と付き合ってたのか」と茶化した。意外にやるじゃないか、と。
そんなやり取りを傍目で見ながら、私はバクバクしてた。槍で胸を突き刺されたような感覚だった。
勿論、私の顔を覗き込んだ上司の目に敵意が浮かんでたわけじゃない。ほろ酔い気分で、もの珍しいものを眺めるような目つきだった。
でも、大人になって耳にする機会が減っていたせいか、私の鼓膜はその言葉を酷く拒んだ。自分でも驚くほど、免疫がしっかりと機能した。思わず布で顔を覆いたくなった。
私があの時、ちらりと誠二君の方を見たの、知ってた?
多分、本能的に助けを求めたんだと思う。この菌から守ってほしかったんだと思う。誠二君っていう大切な人に。
でも誠二君は、そんな私の気持ちを裏切った。
「実はそうなんですよー。国際結婚も悪くないかなって」
こんな言葉が隣から聞こえてきた時の私の気持ち、想像できる? 私を守るどころか、更に突き放したのよ。
確かに、誠二君の心境も分からなくはない。相手は上司だから、無難に話に乗っかっただけかもしれないし、何か面白いことを言って喜ばせようとしたのかもしれない。
それに、変な話、上司や誠二君の言葉は可愛いものだった。これまでの人生で浴びてきた数々の誹謗中傷を思い浮かべればね。
でも、やっぱり、あの時の惨めさは自分の中で決定的だった。深く信頼してた人に裏切られるって辛いし、今まで私は騙されてたのかなって気にもなった。
私は外国人じゃない。日本で生まれて日本で育った、日本人。知ってると思うけど、改めて言っておくね。本当は、誠二君の口から、あの上司に言ってほしかったんだけど。
そんなわけで、私は誠二君に失望しちゃった。あの後結局誠二君の家に行ったのかは覚えてないけど、もう誠二君のことを今までのような目では見れなくなった。
たったそれだけのことで? って思うかもしれないね。でも、今だから言うけど、誠二君と結婚してもいいかな、って思ってたからこそ、私の負った心の傷は大きかった。既に古傷が沢山あったから、余計に出血量も多かったの。「普通」の日本人で、そんな痛みを受けたことのない誠二君には、分からないかもしれないけどね。
これが一つ目の理由。
二つ目の理由なんだけど、実は一つ目の理由よりも前から私の中にあったんだ。二つ目の理由が私の中で充満してる時に、今書いた出来事が起こったって感じかな。
何かって? 確かに誠二君には言ってなかったこと。でも、全く言ってないわけでもなかった。誠二君は気付いてないだろうけど、一回ジャブを打ったんだよ。
覚えてるかな。去年の冬くらいに、どこかのカフェで、「人魚って存在すると思う?」って訊いたこと。
誠二君は、「そんなわけないじゃん」って一蹴したよね。別に驚かなかったよ。二年も付き合ってれば、誠二君の思考や言動が手に取るように分かるもん。やっぱりね、って感じ。そして予想通り、ちょっとがっかりした。誠二君のような、悪く言えば頭の固い人には、何を言っても通じない気がするから。
その時はもうそれ以上食い下がらなかったけれど、実は私、人魚は存在しても全然不思議じゃないと思うんだよね。だって考えてみてよ。地球ってこんなに広いんだよ? 人類未踏の地なんてまだまだあるんだよ? 人間が把握してる生物は一部にすぎないって言うし。今まで誰も見たことがないから存在しない、っていう言い分は暴論だと思うんだよね。
おいおい待ってくれよ。人魚が存在するか否かで意見が割れたから、別れを意識し始めたって言うのか?
そんな誠二君の声が聞こえた気がする。まぁ確かに、人魚が破局の原因だなんて可笑しな話だし、多分世界で私たちだけよね。……いやいや、世界は広いから、そんなこともないのかも。
それはさておき、話の続きがあるから最後まで読んで。そもそもどうして人魚の話をしたのか説明するから。
実は、人魚そのものは私にとってどうでもいいの。あくまでも例というか……こういうの、換喩って言うんだっけ? 意味違ったっけ。まぁいいや。
書面だし、最後だし、勇気出して言うね。別に笑ってくれてもいいよ。ただ、あくまでも私は大真面目だから、あいつ頭がおかしくなったんじゃないか、なんていう心配は無用だよ。
……私ね、存在すると思うんだ。人魚じゃなくて、ハイエナ人間が。
ハイエナ人間なんて、初めて聞いたでしょ。でも意味は分かるよね? 人魚が半分人間・半分魚なら、ハイエナ人間は半分人間・半分ハイエナ。
なにも、私の荒唐無稽な空想ってわけじゃないよ。ちゃんと目撃者がいるんだ。
それが、私のひいおじいちゃん。もう亡くなってるけどね。だから直接目撃譚を聞いたわけじゃないんだけど、まぁ、我が家に受け継がれてる伝承みたいなものなんだ。
ひいおじいちゃん、生物学者だったんだよ。格好良くない? だから世界中を飛び回って、陸生動物を観察してたんだって。
それで、アフリカでのフィールドワーク中に、見たんだよ。夜、草原を歩いてたら、岩陰で休むハイエナ人間を。そりゃあ腰が抜けそうになったみたいだけどね。食べられるんじゃないか、って思ったらしい。まぁ当然だよね。私だったら気絶するもん。でもね、ひいおじいちゃん曰く、食べられるどころか仲良くなったみたいだよ。言葉は通じないけど意思疎通も図ったって。……多分だけど、誠二君絶対この話信じてないよね。そんな馬鹿な、って呆れてるよね。おめでとう、貴方は正常です。流石の私も、伝承の過程で尾鰭が付いてることくらい察してるよ。なんたって、ひいおじいちゃんの若かりし頃だから、もう八十年くらい前の話だからね。一九五〇年代か。
ただ、さっきも言ったけど、ハイエナ人間っていう存在自体はありえなくもないと思うんだ。もっと言えばハイエナだけじゃなくて、例えばシマウマ人間とか、サイ人間とか、それこそ人魚だっているかもしれない。私たちの目を盗んで、こっそり生きてるかもしれない。そう考えたら夢あるでしょ?
で、結局私が何を言いたいのかってことなんだけど。
今の会社辞めて、日本を出ようと思うんだ。
最近、アラサーって言葉がちらつき始めて、人生について考えることが多くなってね。別に今の生活に不満があるわけじゃないんだけど、ただ、あまりにも平凡すぎるというか。勿論平凡であることの幸せも分かるんだけど、たった一度の人生なんだから新しい刺激も欲しいなって思っちゃって。それはやっぱり、私の家族の影響が大きいと思うんだ。父は仕事で海外にしょっちゅう行ってるし、ひいおじいちゃんに至ってはハイエナ人間と遭遇してるんだよ。そういう人が身近にいるから、私の中でも世界を飛び回る生活への憧れみたいなものがずっとあるんだと思う。だから私、旅行会社に就職したのかなって。
そしてその憧れは、自分がハーフであることとも無関係じゃないと思う。
私は日本人。生まれてこの方日本育ちだし、当然、日本語にも不自由しない。なのに、誠二君の上司には「外人」と言われ、頼りの誠二君にも「国際結婚」と笑われる始末(別に皮肉じゃないからね)。でも、そちらの気持ちも分からなくはない。だって事実として、私の肌色は大勢の日本人と違うもん。髪もチリチリだし、明らかに日本人とは別の血が流れてるもん。貴方たちが私を異質なものとして捉えちゃうのはある程度仕方ない。「日本には日本人しかいない」と言われるこの国なら尚更。
勘違いしないでね。日本が嫌いになったわけじゃないんだよ。圧倒的に良い人の方が多いって分かってるから。
ただね。自分は何者なんだろう、自分はどこの国の人なんだろう、いや、そもそも、どこの国の人とかって、それほど重要なのかな。こういう疑問は幼い頃から持ってたし、今でも変わらないんだ。
思えば、父が世界を飛び回ってる割に、私自身は殆ど海外に行ったことがない。父の祖国にも行ったことがないんだよ。意外でしょ。まぁ、遠いしね。行ったことのある国と言えば……旅行で、中国とハワイには行ったかな。あ、タイもだ。まぁでも、旅行なんてしれてるじゃん。もっとこう、長い間滞在したいっていうか。自分が日本人だって思ってるからこそ、一度日本の外で生活してみたいんだよね。そしたらまた、何か自分の中で価値観が変わるかもしれない。心の奥底にずっと潜んでるもやもやしたものが、晴れるかもしれない。
海外での具体的な計画? そんなのは立ててないよ。もしかしたらどこかの国の人と結婚するかもしれないし、数年後にまた日本へ戻ってきてるかもしれない。とりあえず、今ある貯金で一、二年ぶらぶらしようかなって。所謂バックパッカーってやつになるのかも。それも楽しそう。いずれにしても、こんなことができるのは今しかない。結婚したらこんな挑戦はできないし、それに再就職する時、一歳でも若い方がいいだろうから。
……こんな話、どうせ誠二君は、阿呆らしいと思いながら読んでるんだろうな。真面目で堅実な誠二君からすれば、妊娠したわけでもないのに会社を辞めることも、ノープランで海外へ飛ぶことも、考えられないだろうね。
でもね。私は、嘘でもいいから、ハイエナ人間と一晩過ごしたって言えるような生活を送ってみたいな。
この手紙が誠二君のもとへ届く頃には、私はもう飛び立ってると思う。奇跡でも起きない限り、私たちが会うことは二度とないでしょう。改めて、一方的に別れを告げてごめん。こんなこと言われても嬉しくないと思うけど、誠二君なら別の良い人に出会えるはず。
今までありがとう。そして、さようなら。
記念すべき一か国目として、父の故郷、ザンビアへ向かいます。
樹利亜より
ご一読いただき、ありがとうございます!
楽しんでいただけているならば、とてもうれしいです。