短編 待ち受け画面の人。 わたしとかれの未来。
「おはよう」
「おはよう」
パジャマ姿の彼がベッドから起きてくる。私は彼のお弁当と朝食を作っている。
この平凡なルーティンが好き。
彼は朝日の差し込むテーブルに新聞を広げ、私が入れたほんのりと湯気の立つコーヒーカップに手を伸ばすと、ふぅーと息を吹いてからほんの少し口に含んで、子供のように「う~っ。目が覚めないや」と呟いた後、新聞に目を落とした。
その姿を見ると、私の心は、森の中にたたずむ小さな湖のように静かで穏やかになる。
BGM代わりの無機質なテレビは情報をバラエティーに流していて、キャスターのお兄さんとお姉さんは終始、爽やかに微笑んでいたが、時より繰り返し挟まれる、わずかな政局の情報は私たちの普通の生活に暗い影を落とそうとしていた。
少し不安を感じていた私は、新聞に目を通している彼に向けて「ねぇ。××国の紛争って私達の生活には関係ないよね。」と言うと、「う~ん」と、うなってから、読み終えた本から大切な言葉が書いてあったページをもう一度探すように、
「まぁ・・・・・、今のところは関係ないと思うけれど今後はどうなるか分からないなぁ。うちの会社は軍事関係の仕事も携わっているから僅かではあるけど恩恵を受けているから、何とも複雑な思いだよ。」と言った。
彼は、私が変な質問をしても、いつも誠実に答えてくれる。だから彼の気持ちは十分理解できた。でも、改憲というワードがもたらす未来には想像ができないでいた。
「なんかね、朝からずっと徴兵制度がなんとかと言ってたけれど、大丈夫なのかなぁっ思って・・・・・・。デモ活動も大きくなってきているみたいだし」
先の見えない不安が不意に口をつく。彼は飲みかけのコーヒーカップをテーブルの上に置いておもむろに腕を組むと、
「どうだろうなぁ・・・・・・。今の政局は一大政党となっていて、野党の力も期待できないみたいだし・・・・・・、参議院での歯止めもきかなくなっているから、知らない間に法改正がなされてしまうんじゃないかっていうのが職場での論調だよ。」
そう言うと、「チ~ン!」と言うトースターの音がパンの食べごろを知らせた。
私は我に返り、トースターからアツアツの食パンを取り出しバターを塗って、出来立てのスクランブルエッグを添えて彼の下へ運び、「はい。どーぞ。」と言って差し出す。
彼は、にっこり微笑み「ありがとう」と言って、新聞を畳み、焼けたパンを手に取って頬張った。
私も彼の前に座って自分のコーヒーカップを持ち、「なにもなければいいんだけれどね」と話の続きをすると、私が心配そうな顔をしていたのか、「大丈夫だよ。一大政党であっても徴兵制度は流石にすんなり通らないよ」と、気を使ってくれたのだけれど、その後に「でもさ・・・・・・」と、言ってパンを口に入れると、しばらく咀嚼しながら何かを考えていた。
私は、その続きが知りたくなり、両親から誕生日プレゼントを渡される前の子供のように「なに、なに? 」と彼をせかすと、「まぁまぁ、あわてない、あわてない」と私をなだめ、
「でも、よく考えればこうなったのも僕らが選挙に行かなかったせいなのかもしれないね。選挙に対してあまりにも無関心だったのがいけなかった。これは僕らが反省しなければならないことだよ。だから、その責任は僕らの手で果たさなければいけないとも思う」と、言って残りのパンを口に入れた。
確かに彼の言う通りだけれど、平和な国の人々が、わざわざ危険な場所に足を踏み入れようとしている事には、どうしても納得が出来なかった。
「ごちそうさま」
彼はそう言って席を立つと、いつものように、てきぱきと身支度を始めた。私は後片付けをしながら、つかみどころのない不安を募らせていた。
それは、いつもの朝が、当たり前の朝が、ささやかな普通の生活が、突然誰かの手によって奪われてしまうのではないかという不安に他ならなかった。
スーツに身を包んだ凛々しい彼は、私のいる台所にやって来たかと思うと、後ろから私を優しく抱きしめて「そんな心配はしなくていいよ」と言った。
私は柔らかな陽だまりにいるような心持になり、仕事に行く彼にこれ以上心配させまいと、「もう大丈夫」と、ちょっぴり強がってみせた。
彼を見送った後、掃除や洗濯、夕飯の準備にかかった。不安を消すようにテレビを消して、なるべく作業に没頭するように努めた。そうしたら、余計な事を考えなくて済むから。
あれをして、これをしてと、忙しくルーティンを熟す。訳の分からない不安に押しつぶされないように。
お昼前になると、ようやく一息つく。二杯目のコーヒーを入れてソファに座ると、テーブルの上に置いていた携帯が着信を知らせた。私は手を伸ばし携帯を手に取ると、待ち受け画面には私たちの笑顔が映し出されていた。それは、いつも見ている二人の待ち受け画像だけれど、
「そうだ。私が一番守りたいのはこの笑顔なんだ」
と、初めて強くそう思った。