春宵一刻値千金
昔書いたファンタジー風味のヒューマンドラマ短編です。
狸は赤いちゃんちゃんこを着ている。では狐は……?
昼の新宿の繁華街の路上に、斜めに切ったきゅうりのような木の看板が立てかけられていた。そこには『春宵売り〼』と筆文字で書かれていて、一体春宵というものが何を指すのかよく分からない、そんな顔で人々は通り過ぎていく。
どうやらその木の看板は後ろの建物の階段を上がって二階へ繋がっているらしく、薄暗い階段にまで視線を伸ばす人間は滅多にいない。
しかし時折、ふらっと入っていく人間がいる。吸い寄せられるように、何の躊躇いもなく一段一段昇っていく。
義野祥子もその一人で、祥子は会社の昼休みに通りすがった木の看板がずっと気になっていて、休みになってようやくやってきたのだ。疲れに疲れた顔で、まるで幽霊のように階段を昇っていく。
すると、信楽焼の大狸が入口にいた。それを避けてアルミのドアを開け、深緑の長暖簾をくぐって、中に入ると古民家のような雰囲気の部屋があった。靴を脱いで入る形で、カウンターはちょっと大きめの文机で——そしてその向こうにいるのは、赤いちゃんちゃんこを着た狸だ。赤い分厚い座布団に人間のように腰を下ろして座り、札束を銀行員のように器用に扇のように持って動かし、数えている。
入口で靴を脱がずに立ち尽くす祥子へつぶらな瞳を向けて、赤いちゃんちゃんこを着た狸は札束をまとめて文机の引き出しに入れ、祥子を手招きした。
「いらっしゃい。まあまあ、どうぞどうぞ。上がってくださいな」
そう言われては、断りづらい。目の前の不可思議は、依然現実味を呼び起こさないが、しかし狸は妙に人間のごとく商売っ気ある挨拶に手慣れていて、親近感が湧いた。
祥子はヒールを脱いで、文机の前にあるやはり赤い分厚い座布団に座った。狸より少し目線が高いくらいで、狸はそんなことを気にしたふうはない。
「さて、看板を見てきなすったんでしょう。お嬢さん」
祥子ははい、と言って頷く。そもそも春の宵、という言葉にはまったく思い当たる節はない。しかし、何か惹かれるものがあった。ここは新宿の繁華街だから、いかがわしいものの手合いである可能性だって否めなかったが、祥子はそうは思わなかった。だって、春宵という言葉はあまりにも風流で、たとえ吉原用語に通じるものだとしたって気になるのだから何なのかを知りたい。
「春宵というのはですな、北宋の詩人、蘇軾が吟じた詩の一節でしてな。春宵一刻値千金、花有清香月有陰……つまり春の夜は花に清らかな香りがあり、月はおぼろに陰るそのさまは千金にも値する、そう詠っておるのですな。いい詩でしょう、あたしもお気に入りでしてね」
赤いちゃんちゃんこを着た狸はごそりと文机の手元から木箱を持ってきた。そこには長方形の和紙のお札が貼り付けられ、春宵、と達筆な字が書かれている。
「その春宵を一刻、千金に値するもので売りましょう。何、払えんものを渡せとは言いません。お嬢さんにも払えるものをいただき、ほんのいっとき、春の夜の素晴らしさを味わっていただく。そういう商売をね、やらせていただいているわけです」
狸の手がぺちぺちと木箱を叩く。
祥子はようやく、質問をする気になった。
「あの、どんなものをお支払いすればいいんでしょうか。私、お金はろくになくて、財産っていうものもないし」
「ああ、お嬢さんお嬢さん、ここではそういう物差しは通用しないんです。それは人間の世の窮屈な物差しにすぎやしない、もっと広い目をお持ちなさいな。お嬢さんは今、とても不本意な仕事をやらされて、何もかもにがんじがらめにされて、どうにもならなくなっている」
赤いちゃんちゃんこを着た狸の言い分に、祥子はどきりと心臓が跳ねた。
就活で焦ってしまい、滑り止めのような会社に就職して、やりたくもない営業の仕事をやらされて、毎日が残業と上司の叱責で嫌気が差している。何度となく行き帰りのJR中央線の線路に無意識のうちに魅力を感じたか分からない、今が精神的にぎりぎりなのだと祥子自身も分かっていた。だが、どうにもできない。お金もない、度胸もない、伝手もなくてスキルもない祥子には、現状に抗う力がないのだ。一度落ちるところへ落ちてしまえばいいのに、と誘惑に駆られたが、なけなしのプライドが邪魔をした。祥子のどうしようもないちっぽけなプライドは祥子の人生の肝心なところでいつも邪魔をしている、祥子もそれに気付いていても切って捨てるほどの非情さを持てなかった。
「今はね、お嬢さんは何にも持っていないと落ち込んでいるかもしれませんがね、お嬢さんは今までずっと生きてきたんです。生きてきたってことは、そこに積み重ねたものがあって、今のお嬢さんを動かしている。そうじゃなきゃあ、生き物っていうのは生きていけないんです。みみずももぐらも狸も人間も、おんなじなんですよ」
赤いちゃんちゃんこを着た狸の言っていることは、祥子の心に少しだけ響くものがあった。自分は何を持っているのか、それを立ち止まって考えたとき、確かに祥子の手には何もないかのようだ。しかし、赤いちゃんちゃんこを着た狸の言う、窮屈な物差しというものを認識して、それを取っ払うことを視野に入れたとき——祥子の過去から掻っ攫ってこられたものがあった。
祥子はそれを、どうすればいいのか、まだよく分からない。
赤いちゃんちゃんこを着た狸は、ぽんと手を打つ。
「そうそう、それです。お嬢さんの本当の価値っていうのは、歩いてきたときに積み重ねてきたもの、お嬢さん自身が生んできた輝くもののことを言うんです。あたしはそれを、お天道様の物差しで測って、売ってもらう。何、失くすわけじゃあありやせん。あたしはそれから滴る雫のようなものを受け取って、新しい春宵の材料にするんです。だから心配せずに、あたしにそれを鑑定させちゃもらえませんかね?」
するすると狸の弁舌は止まらず、祥子をその気にさせる。そうして、祥子は語りはじめた。
「私、昔はバドミントンをやっていたんです」
赤いちゃんちゃんこを着た狸は、厳かに相槌を打つ。
祥子の家族は、スポーツ一家だった。
父は元国体選手で陸上競技の監督をしている。母はVリーグのクラブにも所属した元バレーボール選手で、兄二人は甲子園常連の強豪校でレギュラーを獲得するような派手な活躍をしていた。今は疎遠になったが、兄二人は社会人野球に進んだらしい、ということは祥子も知っている。
そして祥子はというと、小さいころ会った母の友人がバドミントン選手で、何となく憧れてバドミントンを始めた。祥子は年齢の割には身長はそこそこあったし、家族の例に漏れず運動神経もよかった。あっという間に地域のバドミントンクラブで頭角を表し、小学生の部で優勝することさえ珍しくなくなった。
ただただ、祥子は楽しかった。友達もいて、褒めてくれるコーチがいて、応援してくれる家族がいる。公立の中学校に入って、バドミントン部はなかったため個人の部で大会には出場していたが、あるとき県外の私立高校から推薦入学の声がかかった。スポーツ強豪校に入れば、よりいい環境で練習に打ち込めて、大会に出やすくなる。認められる機会だって増えて、さらに上を目指せる。そんな誘惑に、祥子は将来への希望を持って、承諾することにした。
ただ、祥子の実力は上の中、というべきところで、どれだけ足掻いても上の上、上澄みの数パーセントにも満たないアスリートには届かなかった。もちろん、それでも全国大会ではいい成績を残せた、大学への推薦も得られた。でも、それだけだった。
祥子には仲の良かった友達がいた。彼女は、その上澄みの数パーセントだった。全国大会では表彰台に上り、国際大会に代表として選ばれるほどだった。羨望と期待と、彼女はいろいろなものを背負って、花道を歩いていく。対して祥子は、その後ろを補欠としてついていく。個人では大会に出られても、彼女と当たればあっさりと負ける。祥子の行き着くところは、その程度でしかなかった。
それでも、彼女とは気が合って、慰めてもらったり、練習に付き合ってもらったりと、楽しい思い出だけを祥子は残してもらった。惨めな思いは、彼女といるだけで近寄ってこなかった。祥子が厳しいバドミントン中心の高校生活でひねくれることがなかったのは、彼女の存在が大きいと祥子自身も分かっている。
そのときの思い出は、今、どうしているだろう。
祥子は触れたくないと思った。触れるためには、少し記憶を遡らなければならない。
祥子は高校を卒業して、そこそこの大学に進学した。しかし、そこでつまづいた。元々、勉強が苦手だった祥子は、バドミントンだけやっていればいい環境から出てしまえば、水を失った魚のようにじたばたもがくことしかできない。妙に高いプライドが尻を叩いて必死で勉強しても、D判定を回避しただけでまったく安心できない。サークルはサークルで皆揃ってやる気がなく、結局祥子は大学生活で一度も大会に出られなかった。
何をしてきたのだろう。何をすればいいのだろう。ずっとそればかりで、過去の記憶に戻ってきてほしくて、しかし祥子の目の前の現実は、無理矢理祥子を次から次へと責め立てる。
いつしか祥子は、何も思い出せなくなっていった。精神が擦り切れて、仕事という苦行に追い立てられて、狭いワンルームのアパートで倒れるように寝て起きてまた仕事へ行く、そんな生活を、下手に若くて健康だからやってのけてしまえている。
そんなことをしていてはいけないと思っていても、祥子はもはや、現実に抵抗する気力がなかった。ただ残ったプライドが祥子にちゃんとしろ、と言ってくるだけだ。ちゃんとする、というのはどういうことだろうという疑問すら持てない。両の足で立って歩くくらいしか、もう祥子のはっきりした意思はない。
祥子は——プライドが通せんぼしていたその先に、掻っ攫ってくるべきものがあると気付いた。過去の栄光だ、でもそれは祥子の築いたもので、祥子の宝物だ。今までプライドという番人が洞窟の奥に隠していたようなもので、どうにかして奪い返してこなくてはならない。
それは祥子の一部だ。であれば、祥子の手元になければならない。
「そうそう、その調子です、お嬢さん。そのお嬢さんの輝かしい、積み上げてきたものは、お嬢さんが持つべきものです。過去の栄光が何だって言うんです、それはお嬢さんのものなんですから、どうしたって勝手です。手を伸ばして掴み取って、ここに持ってきてくださいな」
狸の声に従い、祥子は心の中から掻っ攫ったそれを、精一杯引っ張った。
目が覚めたように、祥子ははっと気がついた。文机を見つめていたが、春宵の札を貼られた木箱の上に、ころんと指先ほどの暖色の球体が転がっていて、祥子の目は追う。
赤いちゃんちゃんこを着た狸が、右手でその球体を押さえた。
「お嬢さん、お疲れ様。これがお嬢さんの払う、春宵を宴するにふさわしい値千金のものです。お嬢さんの持っていた栄光の思い出は、誰も傷つけられやしません。それはずっとお嬢さんが大切にしてきたものなんですから、この世にたった一つの素晴らしいものです。そんなものを生み出せたお嬢さんは素晴らしい方だということを、しっかり思い出してくださいな」
祥子が何かを言おうとしたが、赤いちゃんちゃんこを着た狸は遮った。球体を文机の引き出しにしまい、ぽんぽんと手を叩き、びりりと札を剥がして、木箱の蓋を開ける。
「さて、お代はいただきました。それではこれより、春の宵の宴、始まり始まり〜」
歌舞伎の演目の始まりのように、狸の声に誘われて、祥子の意識は遠ざかった。
暖かな、それでいてときどき冷えた風もわずかに吹いてくる。頬に酔いを覚ますかのようにそよぐ風でようやく意識がはっきりして、祥子は目を開けた。
だだっ広い筵の上で、祥子の背には円筒形の枕がいくつもある。これにもたれかかれということだろうか、と祥子はお尻の下に十センチ以上の厚みのある半畳ほどの座布団に手をついた。何とも贅沢なことに、動いても動いてもふかふかがついてくる。このまま居眠りをしたいくらい、でも布団がなければ風邪を引いてしまうだろう。渋々祥子は起き上がって、筵に引かれた色とりどりの絨毯と並ぶ料理の詰まったお重、そして朱塗りの徳利と手のひらよりも大きな盃に度肝を抜かれた。
周りは一切、見渡すかぎりの薄ピンク色の花弁が咲く桃の木だらけだった。見上げれば空はささやかな星と月に少しの叢雲、祥子の鼻に漂ってくるのはほんのり甘い香りと酒の匂いだ。
周囲には誰もいない。お重も徳利も手をつけていいものだろうか、と祥子が躊躇っていると、さあっと風が吹いて盃に桃の花びらが落ちた。まるで飲めと急かすかのように、今まさにその花弁の香りを酒にまとわせて飲めと言わんばかりの光景に、祥子は背中を押された。
祥子は顔を両手で叩いた。そして、身を乗り出した。徳利を掴み、盃に八分目まで注ぐ。中からは清酒とともに金粉が出てきた、高価な日本酒だ。祥子は盃に口をつけ、一気に傾ける。水のように染み渡る酒と、桃の香りが味のように口内に広がる。ぐびぐびと喉を鳴らして飲み込めば、そこにあるのはからの盃だ。ちょっとだけ底に金粉が残っている。
空きっ腹に酒はよくない、それで祥子は大学の飲み会で酷い目に遭った。急いで朱塗りの箸を取り、お重に手を付ける。伊達巻きは甘く、小魚の甘煮は酒のあてにもってこいだ。一口大のおこわは鶏の炊き込みご飯のようで、鯛の煮付けは贅沢にも一尾どんと盛られている。どこからつついてみようか、箸は迷わず腹の上、肉厚な背中に突き刺さる。
酒は尽きない。祥子は二度ほど盃を傾けたが、徳利から酒が減ることはなかった。頭上の花は風が吹くたび祥子へささやくようだ、満開に咲いた花たちを見て楽しめ、と。
桃の香はそれだけではただ甘ったるいだけだ。だがここに漂う香りはほどよく拡散されて、料理の邪魔もしない。酒にはアクセントを添え、目には優しく淡い。
六分目に腹が張った祥子は、盃を持ったまま座布団に深く腰を下ろした。
頭上の月は満月というのに明るすぎない。おぼろ雲が余計な光を閉ざし、今は夜なのだとメリハリをつける。
花見というにしては、あまりにも穏やかだ。まるで平安時代の貴族が優雅に楽しんでいたかのような、絵巻物に出てきそうな情景だ。
そういえば、あの赤いちゃんちゃんこを着た狸は、北宋の詩人がどうこうと言っていた。祥子は歴史には詳しくない、だが古い時代に誰かがこの光景がよかったのだ、と言っていたということは分かる。
値千金のこの世界は、祥子の目に涙を浮かべさせた。祥子は察してしまったのだ、この世界はいずれ終わる。終わったあとはまたつらい現実が待っているのだ、と。
しかし桃の木に囲まれて酒宴に饗され、おぼろ月を見上げる風雅なこの今を惜しむ気持ちは、何物にも代えがたい。祥子は今のこの情景を、世界を愛している。千金の値打ち以上に、芽生えた風光明媚を解する心の存在を知って、まるで真っ暗闇だった視界が一気に花開いたかのようなのだ。
そうなってしまっては、世界はがらりと変わる。祥子のいる世界は、違うものになってしまう。
花といえば桜、桜の花見といえば三月四月の季節の風物詩、見にも行かないのにそんなことばかりを知って、縁もゆかりもない日常生活を送る。惜しむ心などなく、移り変わる新緑も暑中の木影も晩秋の紅葉も、何も心に響かなかった。
祥子の人生の中に、それらは関係のないものとして処理されてしまっていた。だが、こうなってしまっては、祥子の見る世界にすっかり取り込まれてしまう。
祥子自身が変わるわけではない。祥子はただ新たな物の見方を知っただけだ。
だからこそ、何もかもが祥子にとって新鮮で、雅やかで、突き詰めれば刹那の愉楽を味わうための人生を欲するようになってしまったのだ。そうなってしまってはもう、元の人生に戻ることはできない。
春の宵の一刻は、値千金。その対価を払ってでも、祥子は春の宵の一刻を味わってしまった。
もう元には戻れない。枕と座布団に体を預け、盃の酒に映るおぼろ月を肴に、祥子は金粉ごと酒を飲み干した。
涙の理由は忘れ去り、今はこの幸せを噛み締めよう。祥子はそう思った。
祥子はぼうっとしていた。焦点が定まらない目がようやく木箱を認めて、何にも入っていない木箱は赤いちゃんちゃんこを着た狸の手で閉じられた。終幕はあっさりと、しかし仕舞われるくらいにははっきりと。
赤いちゃんちゃんこを着た狸は、にんまりと笑う。
「どうでしたか、お嬢さん。春の夜に、花鳥風月の景色を楽しみ、酒と料理に舌鼓を打つ。爽やかで暖かな空気にほんの少しの冬を残した風が吹き、降りてくる桃の香りは素敵な着物のように包み込む。これが春宵というものです」
どこか鼻高々の赤いちゃんちゃんこを着た狸は、いそいそと木箱を文机の向こうに下ろした。
祥子は目をぱちくりさせて、その様子を見ていた。
「お嬢さんはもうその贅沢を知っちまいましたからね。これからはずっと追い求めることになるでしょう。いや何、皆そうなんですよ。春の宵を知って、あの情景を思い出にできたなら、どこまでも心は豊かになる。晴れやかに、華やかな意気上々の世界がこの世にあって、それは有り難い経典にある極楽なんかじゃなく、この手に届くものなんだって思ってくだすってけっこう」
祥子は赤いちゃんちゃんこを着た狸へ尋ねる。
「あれは、夢だったんでしょうか。いい夢を見た、ってだけなら、私はこんなに気が晴れないと思うんです」
「そう思いますか? いやね、あれを夢と思っても、狸に化かされたと思っても、それはお客人の自由です。しかし、あの光景は、今までの人生を吹っ飛ばすくらいの美しさだったでしょう。あれを夢なんかで終わらせるのは、あまりにも惜しいとあたしなんかは思うんですがね」
「じゃあ……あれは、現実? それとも、本当にあったのに」
「こっちの世界に持ち帰ってこられなかった、そんなふうに思いませんか」
赤いちゃんちゃんこを着た狸の言葉に、祥子は頷く。あれはこの世のものだと心が分かっている、しかし頭は否定する。あんなに素敵な世界がこの救いようのない現実にあるわけがないと荒んだ目で、疑う。
あってほしいと願う心と、あるわけがないと喚く頭の狭間で、祥子は迷う。望めばこの世に現れそうなのに、あと少しでこの世界に来てくれそうなのに——。
「お嬢さん。春の宵をもう一度得たいと思うなら、今の人生をもう少し、歩いてみてはいかがですかな? もしかすればこの先の人生に、またあの光景があるかもしれない。いや、なくたって、自分自身で作ればいいんですよ。あの場所と同じとは行かなくても、揃えることはできる。それには確かに努力が必要ですがね、できなくはない」
「でも、私は、今の人生でそんなことができるようになるなんて、想像もできません。あのころはよかった、でもそれからはずっと暗いままで、何にもいいことがなくて、このままならいっそ何もかもを諦めたほうがいいのかもしれない、って思うんです」
祥子は我に返ると、急に気持ちがしぼんでしまった。せっかく気分よく春の宵を楽しんできたのに、自分というものを見てしまうとどうしてもみすぼらしく、醜く感じてしまう。あの花と月と酒の清々しい世界は、自分には不釣り合いな夢にすぎなかったのだと、あの世界を認めない頭が訴えてくる。
そんなことはない、と祥子がいくら訴えを拒んでも、ならばこの店を出たあとはどうなる、と頭が問いかける。店を出て、家に帰って、次の日にはまた嫌な仕事に向かって、夜遅くまで自分を虐めるような生活を送って、そんな人間にあの夢のような世界を抱く資格などないのだと、おぞましい鬼のように責め立ててくる。
すると、赤いちゃんちゃんこを着た狸は、背にある水屋箪笥の引き戸を開け、中からすっと朱塗りの盃を出してきた。祥子のほうへ、文机の上を滑らせるように差し出す。
「ちょっとばかし、千金より少しだけ多くもらいすぎたようですな。その代わりと言っちゃあなんですが、こちらをお持ちくださいまし。この盃は質屋に持っていこうにも二束三文にもなりゃしませんが、お嬢さんの手にあればあら不思議、注いだ酒が極上の清酒になります。宵に一杯やるくらいの人生、歩んでみませんか」
祥子は吸い寄せられるように、朱塗りの盃を両手で取る。
手のひらより大きな、まあるい朱塗りの盃は見事なもので、今の祥子には不釣り合いにさえ思う。二束三文なんて嘘だろう、ここまで立派な漆塗りの大きな盃の価値は誰の目にも明らかだ。祥子は突き返そうと、顔を上げた。
しかし、赤いちゃんちゃんこを着た狸は、右手で朱塗りの盃のふちを押し返す。
「いやだねお嬢さん、一度出したものを引っ込めさせなさんな。いいからいいから、持っていきなさいな」
「で、でも」
「それだけお嬢さんの持ってきたものには価値があった、ってことですよ。お嬢さんはそれを胸に、そうして盃を手に、あの春の宵を探しながら生きていってくださいまし。くどいようですが、そうまで言わなきゃあお嬢さんは納得しないでしょう」
それもそうだ。狸はよく祥子のことを分かっている、それはあの暖色の球体から何か情報を得たのかのごとくだ。
赤いちゃんちゃんこを着た狸は、祥子の過去に値千金の価値があると言った。春の宵の宴を味わって、朱塗りの盃というお釣りが来るほどだと。
そんなことを言われたのは初めてだった。祥子は振り返ってはいけないと思ってきた、過去の栄光というほどでもなく、不細工な現状がさらにみじめになるだけだと思って、封印さえしてきた。
でもそれは祥子の積み重ねてきたものなのだ。祥子の一部で、祥子が生み出したものだ。それもまた祥子であり、手放したり封をしたりするのはもったいない。抱えて持って、進んでいけばいい。そうしたらきっと、この不細工でみじめな今の人生も、少しはましになるかもしれない。
祥子はやっと朱塗りの盃を受け取った。胸の前で抱きしめ、赤いちゃんちゃんこを着た狸へ頭を下げる。
「分かりました。ありがたく、いただきます」
「ええ、ええ、それでよろしい。それでは」
ばっ、と狸は日の丸模様の扇子を広げ、くわっと口角を上げる。
「春宵、確かにお届けいたしました。今宵もお客人にご満足いただけて何より、宵の口に酔いが覚めぬうちに、どうぞお帰りくださいまし。くれぐれも、足元にはお気を付けて」
赤いちゃんちゃんこを着た狸に短い手で誘導され、祥子は立ち上がって踵を返した。ヒールを履き、アルミのドアを開け、信楽焼の狸の横で閉めて——階段を降りた。
その手には、朱塗りの盃があった。
祥子はそれ以来、月夜の晩は盃に酒を注ぎ、雪花風月に心ゆくまで楽しむことを覚えた。
そうしていつかは、あの春の宵に。
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