閑話その四十 ティファーナの悲恋 前編
「ミセラーナ様がどなたとご結婚されると言うの?」
エルクサンブルクに王宮からその知らせが届いた時、私は何かの間違いだと思った。
ミセラーナ王女が結婚するのは分かる。
彼女は私より年上で、そろそろ配偶者を決めねばならない時期だ。
彼女は王のひとり娘なのだから。
「アンヴェル・シュタウリンゲン卿です。国王陛下は魔王を滅ぼしたという彼の比類なき功績を嘉され、王女を娶せ、王家に迎えられる決断をされたのです」
だが、その知らせをもたらした王都詰めの家臣はもう一度、同じ名前を繰り返した。
私の愛するお兄様の名前を。
「あり得ないわ。あり得ない! 王女様の結婚のお相手は以前から噂に上っていたナヴァスター公爵家のご子息ではなくて? よく確認なさい!」
自分でも声が震えていることが分かり、敢えて厳しく家臣に言い付けると、彼は一瞬、怯む様子を見せたが、
「失礼ですが、こちらが王宮からの招待状です。ご主人様にも王都の大聖堂で行われる式典にご参列いただきたいと……」
そう言って封蝋の施された封筒を差し出してきた。
私は震える手でその封書を受け取ろうとした。
だが、怖くてそれ以上、手を伸ばすことができなくなった。
「そんなことはあり得ません! 招待状も何かの誤りです。適当に処分しておきなさい!」
引き留める家臣たちを振り切り、私は私室へと逃げ込んだ。
(きっと何かの間違いよ。そんなことはあり得ないもの。アンヴェルお兄様はもうすぐ私を迎えに来てくれる。そのはずよ!)
私は部屋に閉じ籠り、何度もそう頭の中で繰り返した。
王都へ凱旋したお兄様は、王宮への報告と大貴族やギルド、大商人たちからの歓迎の宴に忙しくされていると聞いてはいた。
でも、それが終わればきっとエルクサンブルクに来てくださる。そう信じていたのに、その日は今日まで訪れることはなかった。
(でもきっと。きっとお兄様は来てくださる。お兄様が私のことをお忘れになるはずがないもの……)
私はお兄様からいただいた髪飾りを撫でて、心を落ち着かせようとした。
でも、混乱し部屋から出られなくなった私を置いて、家臣たちは王都訪問の準備を着々と進めていた。
「ティファーナ様。さすがに国王陛下からの直々のご招待を断るわけにはまいりますまい。ここは枉げてお出掛けください」
ずっと私に忠実に仕えてくれる老臣の一人が部屋を訪れ、私を諭すように言うが、それだけは耐えられそうになかった。
「あの招待状は本物なのですか?」
私はもう何度もしてきた質問を繰り返した。
彼は困ったように首を振ると、
「封蝋も便箋も王家の紋章の入った専用のもの。陛下のサインもあったではありませんか」
開封を迫る家臣たちに、私はそれでも怖くて自分で開けることができず、何日も放置したままだった。
さすがに見かねたこの老臣が「たとえお咎めを受けようとも中を検めさせていただきます」と告げて、私の制止を聞かずに開けてしまったのだ。
中に入っていたのは、王都から来た家臣が言っていたとおり、ミセラーナ王女の結婚式典の招待状だった。
そして、王女の相手も……。
「それよりもまずは食事をお取りください。これでは身体が持ちませんぞ」
あの日以来、私は食事も喉を通らず、気がつくと涙が頬を伝う日々を送っていた。
いや、もう涙さえ枯れ果てていたと言っても良いかもしれない。
(悪夢を見ているようだわ……)
私にはお兄様が心変わりしたなど、とても信じることはできなかった。
心ない家臣のうちには、
「魔王を倒した英雄と言えど、王の申し出を無碍にはできますまい。しかもミセラーナ様はたいそうお美しいお方。シュタウリンゲン卿でなくとも心を奪われるに相違ありません」
などと、私の心を抉るような言葉を口にする者もあった。
(お兄様。どうして?)
私ももう頭ではお兄様が王女と結婚するということが分かってきていた。
王国中がその話で持ちきりで、エルクサンブルクもその例外ではなくなっていたからだ。
「王都へ参ります」
数日後、私が部屋を出て、そう告げると家臣たちは驚いていた。
もう私の式典への出席は無理だろうと、遠縁の子爵を代理に立てようとしていたようだった。
「申し訳ありませんが、ご主人様のご体調を鑑みるに今はご静養いただく必要があるかと……」
そう言われた私は久しぶりに覗いた姿見に映った自分の姿を思い出した。
痩せこけて幽鬼のような姿だと自分でも感じたのだ。
「でも、私はお兄様に、アンヴェル様にお会いしなければならないの! お兄様を王都からお救いしなければ!」
きっとお兄様は王に強要されて、心ならずも結婚を承諾させられたに違いないと私は考えるようになっていた。
王家にとって、バルトリヒの時の過ちを繰り返さず、しかも王家がその地位を保つにはお兄様を王家に取り込む必要があるのだから。
「なんと! そのようなことをなされては王からどんなお咎めを受けるか。エルクサンブルクのお家も無事では済みませんぞ!」
「シュタウリンゲン卿が魔族に拐われたミセラーナ王女様を救い出された時から、お二人は相思相愛の仲。ご主人様。目をお覚ましください!」
家臣たちは次々と私の王都行きに反対の意見を述べた。
「そんなはずはありません! 私が直接、お会いすればすぐに分かることです!」
私のお兄様に横恋慕し、王家の権力を使って私から愛する人を奪い取ろうとする泥棒猫に、二人の絆の強さを思い知らせてやるのだ。
「仕方がない。この上はご主人様には当分、屋敷にてお静かに過ごしていただこう……」
家臣の一人がそう告げると、私の周囲に不穏な空気が漂った。
「何ですか? 私は王都へ行かねばならないのです! 王都でお兄様に……」
突然、扉が開くと何人かの武装した兵士が姿を見せた。
さすがに驚いたが、毅然とそう告げたのだが……。
「連れて行け!」
先ほどの家臣が命じると、兵たちは私の両腕を掴み、私は私室へと戻されてしまった。
「ティファーナ様。私にできることでしたら、何なりとお申し付けください」
今度は自分の意思に反して私室に閉じこもることになってしまった私にとって頼ることのできる相手は、長年私に仕えてくれたこの侍女くらいだった。
「それなら私を王都へ連れて行ってくれない。こうしているうちにもお兄様は……」
お兄様の身の上を思うと、私は気が気ではなかった。
このままではお兄様は王女と結婚させられてしまうだろう。
「申し訳ありません。この屋敷を出ることは固く禁じられております。私の力ではどうすることも……」
「いいえ。あなたが力を貸してくれれば、この屋敷を抜け出して、王都へ向かうことができる。私の言うとおりにして」
私は侍女に頼み、燭台を用意してもらった。
することもないので本くらいは読ませて欲しいと依頼すると、おとなしくしてくれているのならと考えたのだろう、その願いは簡単に叶えられた。
「次は本当に力を貸してもらうわ。一緒にこの彫像を動かして」
壁と一体化したかのようなその像は、エルクサンブルクを領した初代の胸像だ。
石でできたそれはとても重そうで、男性でも一人で動かすことは困難だろう。
「そちらを押して! もっと強く!」
私のお願いに侍女は顔を真っ赤にして像を押してくれた。
ズッ、ズッと音を立てて像が横へと滑ると、その後ろに小さな凹みが現れる。
それが何か知らなければ、漆喰を塗り忘れでもしたのかと思うだろう。
私がその凹みを探り、その奥のさらに小さな凹みに触れる。
(本当にあった……)
父上が私に遺してくださった古い指輪。
それには魔法の力が宿っていて、領主の家族を危機から救ってくれると父上は教えてくれたのだ。
お城のことにしか興味のない父上の言葉だったから、私は半信半疑だったけれど。
「これは……」
私が指輪を凹みに押し付けると、壁の一部が薄青く輝き、そこに地下へと続く階段が現れた。
「他言は無用です。これは領主の危機を救う道。代々の領主のみに伝えられた道なのです」
私にとって今以上の危機などない。
今こそこの道を使うべき時だと、私に迷いはなかった。
そうして真っ暗な地下のトンネルを通って町の外へと出たものの、私たちはすぐに立ち往生してしまった。
「せめて川の向こうまで地下道が続いていれば……」
町のすぐ側を流れるカリア川に掛かる橋には当然のように警備の兵がいて、私と侍女が気づかれずに通り抜けられるとは思えなかった。
トンネルの入り口は閉じて来たし、門も通っていないから、すぐに町の外まで捜索の手が伸びることはないだろう。
それでも明日の朝になれば、町から兵たちが各所へ派遣されるはずだ。
「浅瀬を渡るしかなさそうね」
橋を渡ることを諦め、私は小さな林に隠れて夜を待つことにした。
早く渡ってしまいたいが、さすがに昼間では兵たちに簡単に見咎められてしまうだろう。
「そんな。危険過ぎます!」
侍女は反対したが、お兄様をお救いするためなら、私はどんな危険でも冒すつもりだった。
「ティファーナ様。やっぱり危険です。やめましょう」
侍女はそう言って何度も私を止めようとしたが、この浅瀬を渡って行く人の姿を昼の間に何度も目撃していた。
せいぜい膝くらいまでしか水のない場所だから、さほどの危険はないはずだ。
「そう思うのなら、あなたは引き上げなさい。私は行かなければならないの」
お兄様をお救いしたい。
もちろんそれもあるけれど、私はとにかくお兄様のお顔を見たかった。
あの優しい笑顔に触れたかったのだ。
「きゃっ!」
後ろを行く侍女がそんな声を上げ、私は一瞬、それに気を取られた。
「あっ……」
次の瞬間、丸い石の上に置いた足が滑り、私はバランスを崩した。
すぐに体勢を立て直そうとしたのだが、私が次に踏んだ場所は急な斜面のようになっていた。
私はそのまま水の中へ倒れ込んでしまう。
「ティファーナ様!」
侍女の呼ぶ声が聞こえたが、水に濡れたドレスは重く、私はもう立ち上がることはできそうになかった。
そのまま為す術なく流されて行く。
(お兄様……)
冷たい水の中でもがきながら、私が最後に思ったのは愛するお兄様のことだった。




