第百七十話 スニユ山の危機
「大トンネルの入り口はそろそろ近いのかい?」
ピルト地方を進む馬車の中で、もう何回目だろうか、エディルナがそう尋ねてきた。
俺も最初こそ「もう少しだな」とか答えていたが、あと二日ほどで到着することは、もう彼女にも分かっているはずだ。
さすがに落ち着いた気持ちではいられず、取り敢えず何か聞いたり、話したりしておきたいのだろう。別に俺の正確な答えを求めている訳ではないようだった。
何しろ魔王の支配する地へと向かうただひとつの道である『大トンネル』は、英雄バルトリヒの一行以来三百年、誰も踏破したことがないのだ。
いかに彼女が優秀な冒険者であるにせよ、いや、そうだからこそ、危険を感じずにはいられない場所なのだ。
そんな緊張感の中でも馬車は順調に進んでいたのだが、突然、停車したかと思うと、アンヴェルが誰かと話しだした。
どうやら街道を行く人がいたらしい。
カルスケイオスが近く、魔物の影も濃いこの辺りに人がいたのかと、俺は少し驚いたが、アンヴェルが話しているのは、どうやら猟師らしかった。
「この近くのスニユ山でジャイアント・ゴートが人を襲っているらしい。今のところは山に入る猟師に被害が出ているだけらしいが、麓の村にも出没しだしているようなんだ。少し様子を見に行ってみようと思うんだが」
アンヴェルの提案にエディルナが息を吐く。
「ああ。アンヴェルの言うとおりでいいよ」
彼女は平静を装っているが、ほっとしたのが手に取るように分かる。
いきなり大トンネルに挑むより、ここは一旦、弱い魔物と戦って、自信を付けた方がいいのかも知れない。ジャイアント・ゴートだって、それ程弱くはないのだが。
そうして俺たちは馬車を北東に向け、イラピセタル山脈の峰のひとつであるスニユ山の麓にやって来た。
「山に登るのだから、しっかりと装備を整えないと泣きを見るぞ」
俺はそう言って、麓の村でがっちりと登山の準備を整えたのだが、エディルナに笑われてしまった。
「いや。いくらなんでも、それはやり過ぎだろう。冒険者の装備で十分じゃないか」
彼女はそう言うが、経験者の言うことは聞くべきなのだ。俺は前回、ピクニック気分で山へ向かい、酷い目に遭ったのだから。
ジャイアント・ゴートの棲むスニユ山の中腹にたどり着いた頃には、エディルナにも俺の正しさが分かったようだった。彼女は肩で息をしながら、俺の装備を恨めしそうに見ていた。
それでもジャイアント・ゴートとの戦いでは後れを取ることなく、角を持つ大きな獣を次々と討ち取っていたのは流石だった。途中から奴らも敢えてエディルナの前には立たなかったくらいだ。
例によって俺が魔法を使う必要もなく、アンヴェルやリューリットの活躍もあって、奴らはあっという間に討ち減らされ、残った者たちは逃げ出していた。
「ここまで減らせば被害も減るだろうし、彼らも人を恐れて簡単には麓まで下りてはこないだろう」
アンヴェルがそう言って、パーティーの皆は引き上げようとした。
「何だか花の良い香りがします」
アグナユディテがそう言い出してくれたので、俺は余計なことを言わずに済んでほっとした。
「尾根の向こうから風に乗って来ているようです」
エディルナなんかは、もうこれ以上は、という顔をしていたのだが、
「綺麗な花が咲いているのかもしれないな。そこの尾根なら、それ程遠くないし、その先を覗いてみよう」
アンヴェルが言って歩き出してしまったので、彼女も渋々といった様子で後について行った。
細い尾根を先へ進むと、盆地のような広い谷が右手に見えてくる。
そして、その先にあった大きな岩の上に立つと、一面に小さな白い花が咲き乱れ、緑の葉と見事なコントラストを見せる谷全体が見渡せた。
天空に浮かぶお花畑。
前回も感動したが、何度見てもその光景は心が洗われるような美しさだった。
「これはすごい。ここまで来たかいがあったな」
あまり乗り気ではなさそうだったエディルナも、そう言って嬉しそうに谷の中を歩き回り始めた。
その様子を見たアグナユディテも、エディルナの後を少し離れて歩き出し、精霊と話でもしているような姿を見せる。
ひんやりとした空気にほのかに香る小さな花々。それらは以前感じたものと同じようだったが、立ち込める乳白色の霧だけは前回よりも濃いように思われた。
辺りを散策しだしたエディルナやアグナユディテ、それにリューリットの姿は、すぐに霧の中に消えていってしまった。
彼女たちからも俺の姿は見えなくなっているのだろう。
俺も周りに咲く小さな花を愛でながら、ゆっくりと谷の中を歩いていた。
(この霧、晴れないのかな。あの景色をもう一度見たいのだけれど)
以前ここを訪れたことのある俺はそう考えていた。
イラピセタル山脈の山々が連なる雄大な景色は、是非とも見ておきたいもののひとつだった。
だが、そうして俺は谷をうろうろと昇り降りし、また元の場所に戻って来ていたらしかった。いや、その少し下に至っていたようだ。
最初にいた大きな岩の上から、アンヴェルとアリアが話す声が聞こえてきた。
「ずっと前から聞きたいと思っていたのだが、アリアは彼のことをどう思う?」
俺はその言葉にドキリとして、その場で動けなくなってしまった。
「えっ」
アリアは短く声を発した後は、言葉を失ったように黙っているようだ。
だが「彼」って、このパーティーで男はアンヴェルの他には俺ひとりだし、やっぱり俺のことなんだろうか。
ここはいきなり「何をひとのいないところで俺の噂話をしているんだ。人の話をするなら、その人がいる前でもできる範囲に止めておいてくれよ」なんて言いながら、姿を現すべきだったのだろう。
でも、小心者の俺にそんな芸当ができるはずもなく、俺は動揺して、その場で立ち尽くしていた。
「彼はこの世界全体の運命に関わるような重大な使命を帯びているんじゃないか。最近、僕はそう思うんだ」
アリアが答えないので、アンヴェルが再び話し始めた。
「そんな彼がともにいれば、僕の使命も果たされるんじゃないか。正直、そうも思ってしまう自分がいる。我が敬愛する家祖、バルトリヒに到底及ばない僕が、彼でさえ果たせなかった使命を果たすには、彼と共に戦う仲間だったトゥルタークの弟子は手放せない。それに縋りたいとも思ってしまうんだ」
アンヴェルの真剣な言葉に、俺はますます岩の下から出ていけなくなってしまった。
(いやあ。俺の使命って、そんなご大層なものじゃないから。ただゲーマーとして真のエンディングが見たいだけなんです)
なんて、ここでどの面を下げて言えるんだ。
だが、俺のそんなくだらない考えとは関係なく、アンヴェルはなおも話し続けていた。
「それは彼の意思とも、そして彼の抱える使命とも関係のないことなのだろう。だから僕は彼をいいように利用している気がしているんだ。おそらくは大きな力を隠し持っているであろう彼をね」
アンヴェルの声は何だか苦しそうに聞こえた。
だが、俺はそれよりも「隠し持っている」という言葉に、やっぱりバレていたかと穏やかな気持ちではいられなかった。まあ、ある程度覚悟はしていたのだが。
ふたりが立つ岩の下で、そんな思いを抱えている俺がいるとは思いもしないのだろう。今度はアリアがアンヴェルに向かって言葉を紡ぎだした。
「アンヴェル。私は英雄バルトリヒの子孫という重い宿命を背負うあなたに、私の想いを重ねていたのです。私も幼い頃から聖女と呼ばれ、その重さに押し潰されそうになったことが何度もありましたから」
アリアの声はあくまでも穏やかで、静かに響く。
「世界はこの谷に立ち込める濃い霧のように、私たちにとって先が見通せないもの。ですから私たちは迷い、苦しみ、時には途方に暮れることもあるのです」
俺にはアリアには強い信仰の心があるから、そこまで迷ったりしないような気もしたのだが、彼女の言葉は強く、心が込められているように感じられた。
「あなたに貴い本のこの一節を贈ります。『野の小さな花々にさえ、あれほど見事に咲き誇るよう、神は祝福をお恵みくださる。あなたがたは、ずっと前から、神の恩寵がその身にあることに、なぜ気づかないのか』。あなたに神のお恵みがありますように」
何だか有り難そうな言葉だなと俺が思っていると、突然、向こうから、
「おい。大賢者。そんなところで何をしているんだい?」
エディルナの大きな声が聞こえてきた。
「ああ、ここまで戻ってきたらアリアの声が聞こえたから、どこから上へ行こうかなと考えていたんだ」
俺は自分では上手く答えたつもりだったのだが、声が少し上ずってしまった気もするし、エディルナがニヤニヤと笑っていたから、聞き耳を立てていたのを見透かされたのかも知れなかった。
俺は岩の下から姿を見せながら、
「ここまで戻ったら、アリアの『野の小さな花々にさえ、あれほど見事に咲き誇る』って声が聞こえてきてね。とても美しい言葉だなって思っていたんだ。アリアにこそ相応しい言葉だと思ったよ」
俺は最初に聞いたアンヴェルの言葉には触れず、いかにもアリアのその言葉辺りからしか、ここにはいませんでしたといった感じで適当なことを言った。
「私に、ですか?」
だが、アリアはいい加減に言った俺の言葉に驚いた顔を見せた。
俺はまた何かまずいことを言ったかなと思ったが、アンヴェルが俺の言葉を継いで、
「ああ。そうだね。賢者アマンの言うとおりだと僕も思うよ。アリアにこそ神の祝福と恩寵が恵まれるよう、僕にも祈らせてほしい」
彼のその言葉を聞いた瞬間、アリアの目じりから涙が溢れ、頬を伝って落ちた。
そしてそれと同時に雲が途切れ、その間から日の光が射し、谷の中央に届いた。
その光景はまるで、谷から天へと続く階段が現れたかのようだった。
皆が茫然とその様子を見守る中、風が吹き、あれ程濃かった霧が流れるように消えたかと思うと、そこには大パノラマが広がっていた。
(おおっ。やっぱり見事だな)
俺も我を忘れて見入ってしまったが、アンヴェルもエディルナも、
「おおっ。これは凄いな」
「なんて景色なんだろうね。これはもう、何も言えないね」
感嘆の声しかないようだった。
イラピセタル山脈が大きな弧を描くように遥か彼方まで続く。
その雪を頂く山々の白い峰が、青い空を背景に輝くような姿を見せていた。
「アンヴェル。そして賢者アマン。ありがとうございます。二人の言葉で心が軽くなったような気がします」
涙を払ったアリアは、何故か俺たちにお礼を言ってくれた。
確かに彼女はすっきりした表情をしていたし、ここは彼女のイベントが起きる場所なのだ。
ゲームでは、ここを訪れさえすれば自動的に会話が進行し、彼女の魔力が五%アップするのだ。
「大袈裟かもしれませんが、生まれ変わったような気がするのです」
なんて言ってくれていたから、きちんと魔力も上昇したのかもしれなかった。確かめようもないし、彼女の言ったとおり五%程度で大袈裟なことなのだが。
それより俺は、盗み聞きをしていたことがバレていなくてホッとしていた。
いや、エディルナにはバレていたようで、
「これで貸しがひとつだな」
なんて言っていた。
だが俺は何を言っているんだと思っていた。
そんなことを言いたいなら、あそこは黙って、俺と並んで盗み聞きをするべきだったのだ。
俺は自分の力であの危機を脱したのだ。