第百四十六話 破邪の鏡
アンヴェルが、とりあえずエスヒシェキールへ向かうことを決断し、俺たちはその日のうちに慌ただしく王都を発った。
今の状況でベルティラに遭遇したりしたら厄介だから、シュタウリンゲン家の屋敷を離れた方がいいだろう。
間もなくギルドの魔法使いたちによって、結界が張られるようになれば王都は安全になる。
対抗魔法なんて、膨大な魔力を持つ俺だから無理矢理展開できたが、元の魔法を使った相手に遥かに勝る技量を必要とされるから、魔族どもには使えないはずだ。魔王でさえどうかといった程度だろう。
まあ、今日は散々、結界を張る練習をしているから、賢者の塔でずっと結界の力を経験している彼女は、王都にいたとしても、すぐに逃げ出しているとは思うが。
「ユディは馬車は大丈夫なのかい?」
俺がそう確認すると、彼女は驚いたように、
「エルフのことを随分とよくご存じなのですね。確かに馬車は苦手ですが、我慢できます」
顔に決意の色を浮かべ、きっぱりとそう言った。
「馬車は私も苦手でね。だから、魔法で少しだけ乗り心地が良くなるようにしよう」
馬車に皆が乗り込んだのを確認して、俺は動き出した馬車にレビテーションの魔法を掛け、空中に浮かせた。
「おっ。これはいいね。それにしても賢者様は随分とお優しいじゃないか。六人を馬車ごと浮かせるだなんて、豪気だねえ」
エディルナがまた絡んできたが、こんなの何てこともない。
「さすがに僕たちの馬車の速さに、皆、驚いているようだな」
馭者席で手綱を執ってくれているアンヴェルが言うとおり、馬車が浮いて馬の負担がかなり軽減されたおかげで、俺たちを乗せた馬車はかなりのスピードで進んで行く。
いや実際は、俺が浮かせているのは、俺たちの乗る馬車だけではない。
馬車を曳く馬のすぐ後ろから、後方と左右にそれぞれかなりの距離をとって広がる範囲に存在する物を、すべて浮遊させているのだ。
俺の魔力だと最低出力でも、そのくらいはできてしまうし、そうしないと下手をすると暴走しかねないのだ。
だから、実は向こうからやって来る人や馬車の馭者が「うわっ。なんだ!」とか、「えっ。どうしたんだ?」とか驚いているのは、俺のレビテーションの効果範囲に入って、いきなり浮き上がったからだ。
まあ俺たちの馬車は速いから、すぐに魔法の効果範囲から出て元に戻ってしまう。でも戻るときに怪我などしないよう、なだらかにゆっくりと戻すために少しずつ高さを調整するのにも、かなり気を使っているのだ。
馬車が速く進んだせいもあって、俺たちはその日の夕には目的地であるエスヒシェキールの町に到着することができた。
領主であるマクサリアン卿を屋敷に訪ねると、アンヴェルと旧知の仲であることもあり、俺たちを歓迎してくれた。
その夜は領主館に宿泊させてもらい、翌朝、早速、魔族を見たという領民に話を聞かせてもらうことができた。
ベキルという名のその領民は「もう何度も政庁のお役人にお話ししたんですが」と前置きした上で、
「もうひと月以上も前になっちまいましたが、夜中、町の南にある池の側に魔族らしい女が立っていたんです。
いえ。夜中にあんな場所に女性がひとりでいること自体、おかしいですし、あれは魔族に違いないです。木の陰から様子を窺っていたら、その魔族は何かを池に投げ入れて、すぐにスッと消えちまったんです」
そんな証言をしてくれた。
彼が証言を終え、部屋から出て行くとエディルナは、
「本当に彼の見たのは、王女様を攫った魔族なのかな?」
そう疑問の声を上げたが、彼女の言うとおり俺にも何だか眉唾に聞こえた。
俺は彼の言ったことが本当だと分かっているから大丈夫だが、そうでなければ他所を当たろうかとなりかねない気がする。
本物の魔族なんて見たことのある者は少ないだろうに、どうしてああも簡単に魔族だと断言できるのだろう。まあ、魔族なのだが。
前に話を聞いた時には、ここまではっきりと「魔族」を見たとは言っていなかったような気がする。何度も証言を繰り返すうちに、自分でもそう思うようになってしまったのかも知れなかった。
だが、アンヴェルは、
「彼が僕たちを騙す理由もないし、見間違いだったとしても確認に行ってみて損はない。手掛かりは少ないんだ。町の南の池に案内してもらおう」
席を立つとマクサリアン卿の執務室へ赴き、「面倒を掛けるが目撃地点に案内をしてほしい」と依頼した。
池に投げ入れられた物が、王都の大聖堂の宝物である『破邪の鏡』かもしれないと聞いて、シミディナン卿は驚いていた。
「あの池の水は飲み水としてこそ使っていませんが、耕地を潤す用水として利用しています。ですから、魔族が毒でも投げ入れたのではないかと水質の調査はしました。ですが人を潜らせて、物を探したりはしていないのです」
王都から急に魔族に注意せよとの命令が届いたので、領民に御触れを出したところ、あのベキルから届けがあったとのことだった。
「これはますます望み薄かね」
エディルナは肩を竦めて言ったが、それでもアンヴェルに従って町の南の池へと向かった。
池への途中、俺はどうやって池から『破邪の鏡』を引き上げるか思案していた。
前はマクサリアン卿が池の水を抜いてくれたのだが、この様子だと今回も彼がそうしてくれる保証はない。
池に鏡が投げ入れられてから少し時間も経っているので、泥を被ったりして、探すのに時間も掛かるかも知れなかった。
だが池に到着し、水面を眺めた俺は愕然とした。
池の水がずいぶんと少ないのだ。いや、かなり干上がってきていると言ってもいいだろう。
「何だか水が少なくないですか?」
俺は同行してくれたマクサリアン卿に思わずそう聞いてしまって、まずかったかなと思った。案の定、エディルナが、
「いや。町の中の池なんて、こんなものだろう」
そう返してきた。だが、マクサリアン卿は感心したように、
「賢者様のおっしゃるとおりです。ここひと月ほど、雨らしい雨も降りませんし、今は耕地に撒く水が必要な時期ですので、水がかなり少なくなっているのです」
実際に池は底がかなり露出して、一部にひび割れた所も見られた。この状態で「こんなものだ」なんて、エディルナも俺の意見には反対すればいいと思っているんじゃないだろうか。
「あの、あちらに何か半分埋まりかけた物が見えるのですが、もしかしたら目的の物ではないでしょうか」
アグナユディテが遠慮がちに俺たちに伝えてくれる。
そちらを見ると、確かに三分の一程が池の底の土に埋まってはいるが、どうやら『破邪の鏡』のようだ。
どおりでゲームでは、池の側で「調べる」のコマンドを使うだけで鏡が手に入るわけだ。
「かいぼりする」なんてコマンド、あるわけもないしな。
マクサリアン卿の配下の兵士が慎重に池の底へ降りて、埋まっていた物を取ってきてくれる。
その間、俺は、
(ここまで干上がっているなんて、前のエスヒシェキールの町は、かいぼりした後、水の確保は問題なかったのだろうか?)
そちらの方が気になってしまった。
引き上げた物を水で洗って泥を落とすと、確かにそれは『破邪の鏡』だった。
金色の縁や裏面のユニコーンの彫刻も見事なものだ。
「とりあえず教会の宝物は見つかったけれど、肝心の王女様はどちらにいらっしゃるのだろう?」
エディルナの問い掛けにリューリットが、
「シュタウリンゲン家の屋敷に何度も姿を現した魔族が、王女様を攫った魔族と同じダークエルフなら、そんなに遠くまで行ってはいないはずだ。わざわざ鏡を捨てるためだけに、この町まで来るとも思えないし、やはりこの町のどこかにいらっしゃるのではないか」
本当は犯人のベルティラは瞬間移動が使えるから、行こうと思えば遠くまで行けるのだが、結論としては間違っていないので、俺は黙っていた。