第百四十一話 賢者の塔
(ここは……)
気がついた俺が周りを見回すと、そこは、よく見知った賢者の塔のダイニングだった。
もちろん、カーブガーズの新しいものではなく、シヴァース郊外の丘に三百年近く前から建つ、重厚そうなものの方だ。
キッチンではケトルのお湯がシュンシュンと音を立てている。
小さな窓から日光が入り込む方向から、まだ午前中の早い時間のようだ。
(メーオの奴。火事になったらどうする気だ)
そう思ったが、彼女なりに俺に気を利かせてくれたのかも知れない。
せっかくなので、俺は火を止めるとお茶を淹れ、ハチミツを垂らして、ゆったりとそれを飲んだ。
するとティーカップから立ち昇った湯気が急に渦を巻き、ダイニングの壁に向かって流れ、形を変えていく。壁の前で湯気は文字を描いた。
(俺に気を利かせたんじゃなくて、このためか!)
もう湯気の文字を読む段階は終わっているとばかり思っていた俺は、すぐに消えてしまった文字に目を遣るのが遅れ、すべてを読むことができなかった。
少し慌てたが、辛うじて「チェスト」という文字が見えたので、どうせ「最上階のチェストを開け」だろうと思って階段を上り、その通りにしてみた。
(よく知った世界だと思っていると足を掬われる可能性があるかも知れないな。もう少し注意深く行動しないと、先が思いやられる気がする)
俺はそう思い、改めて気を引き締めた。
塔の最上階のチェストには、予想どおり手紙が三通と不思議な輝きを放つ宝珠が入っていた。手紙の宛先は王都の魔術師ギルドとエルフ族の長、そしてもう一通は俺に宛てたものであることも前回と同じだ。
俺宛ての手紙の封も、まだ切られてはいなかった。
封を切って読んでみると、先生からの手紙も内容は一字一句、以前見たものと違いはないようだ。
以前、読んでから、かなり時間が経ってしまったので、本当に一字一句かと言われると自信はないのだが。
女神は、アンヴェルたちの一行が『賢者の塔』に、俺を訪ねるところからスタートしてはと言っていたから、もうトゥルタークが亡くなって、それなりに日が経っていると思っていた。
この後の出来事から見て、実はそれは間違っていなかったのだが、どうやら今回の俺はトゥルタークが亡くなってから毎日のお茶の日課を長い間、止めてしまっていたらしい。
(逆に前回は早く手紙を読み過ぎて、待ちきれなくなって王都へ向かってしまったのだったな。そもそも、そこが間違いだったのかもしれない)
俺の瞼には、女神がその後の調整に苦労する様子が浮かぶような気がした。
そんなことをしているうちにお昼近くになり、俺は玄関のドアをノックする音に気づいた。
扉を開けると、そこには塔を訪れた四人の姿があった。
明るい栗色の髪とモスグレーの瞳が印象的で、日の光に輝く鎧をその立派な体躯にまとい、腰に大剣を下げた騎士、アンヴェル。
大きなラウンドシールドを背負い、良く手入れされた様子の皮の胸当てを身に着けた赤い髪の戦士、エディルナ。
少し小柄だが鋭い眼光に隙のない様子で、しらぎぬに袴を合わせた格好の剣士、リューリット。
そして、その身にまとう修道服と整った顔立ちが、神聖なものを感じさせる気がするアクアマリンのような水色の瞳が印象的な神官、アリア。
「大賢者トゥルタークはいらっしゃいますか?」
アンヴェルの問い掛けに、俺は早くも危うく涙がこぼれそうになる。
(そうだよ、これこれ。賢者の塔をこうしてアンヴェルたちが訪ねて来るんだよ!)
俺はそんな高揚した気持ちを悟られないように、努めて冷静な態度で「失礼ですが、どなたですか?」と、通り一遍の応対をした。
怪訝そうな顔もしたつもりだから、彼らには何だか冷たい対応だと思われたかも知れない。
「私は近衛騎士のアンヴェル・シュタウリンゲンと申します。私の後ろに控えていますのは、私の仲間の戦士のエディルナ、剣士のリューリット、それに神官のアリアです。大賢者トゥルタークにお聞きしたいことがあって王都より参りました。是非とも大賢者にお取次ぎをいただきたい」
彼はそう丁寧に、俺に口上を述べた。
こうして見ると本当に惚れ惚れするような偉丈夫で、言葉遣いも丁寧だし、物腰も柔らかな好青年で、まさに物語の主人公に相応しい。
「それはお役目お疲れ様です。ですが、わが師である大賢者トゥルタークは十日ほど前に身罷りました。葬儀と埋葬も既に終わっています」
俺はまた少し冷たく聞こえる声で答えを返す。
「そんな。大賢者が亡くなられただなんて」
エディルナが驚きの声を上げる。
まあ三百年も生きていた伝説の大魔法使いだから、まさかこのタイミングで亡くなるなんて普通は思わないだろう。
「よろしければ、大賢者の眠る場所で祈りを捧げさせていただけませんか?」
アリアがそう言ってくれたので、俺はまた涙が零れそうになって、
「聖女様にお祈りいただいたのなら、わが師もさぞや喜ぶでしょう」
そう言って一行をトゥルタークのお墓に案内しようとしたのだが、
「聖女様?」
エディルナがそう突っ込んできた。
(まずい。何とか誤魔化さないと)
俺はそう思って汗をかいたが、エディルナは、
「すごいな。アリアの名声は、もうこんな遠くまで鳴り響いているんだな。いったいいつからこの地方でも、そんな風に言われているんだい?」
俺に向かってそう問い質してきた。
俺は何とか気づかれずに済みそうだと、少し安心して、
「いえ。王都の聖女アリアの噂は、もうずっと前から聞いていますから」
そう言ってアリアに笑顔を向けると、何故か彼女は硬直して、俺のことを気味の悪い者を見るようにその水色の瞳で凝視してきた。
エディルナはともかく、アリアにはやっぱりヤバい奴だと気づかれたのかも知れなかった。
何故かアリアはその後も、かなり動揺していて気もそぞろといった様子だった。だが、さすがにトゥルタークに祈りを捧げてくれているうちに、少し落ち着いてきたようだ。
アンヴェルが塔への帰り道で、「ご相談したいことが」と言ってきたので、俺は彼らを塔のダイニングに招き入れ、そこでお茶を振る舞った。
彼によれば、ミセラーナ王女様が魔族に攫われ、彼が国王からその捜索を命ぜられたとのことだった。
俺はそれを聞きながら(そうか。今回はもうストーリーがそこまで進んでいるんだな)などと思っていたが、突然、リューリットが、
「先ほどは少し慌てているようにも見えたのだが、気のせいだったようだな。賢者とはそのように常に冷静なのか?」
そう俺に聞いてきた。
俺はちょっと虚を突かれた感じになって、思わず返答に詰まったのだが、彼女は続けて、
「いや。王女が魔族に攫われたと聞いても、あまり驚かぬのだなと思ってな。賢者とはそういうものなのだな」
と、納得してくれたようだ。
実際の俺は冷静沈着とは程遠い人間だから、後々、また疑義を呈せられるかも知れないが、急に驚くのも変だし、今はこのままスルーしておくしかないだろう。
「大賢者が亡くなられたのは本当に残念です。その代わりといっては大変失礼かも知れませんが、できましたら私たちと王女様の捜査に当たっていただけないでしょうか?」
アンヴェルが丁寧に俺を誘うが、俺はゲームのセリフを思い出しながら、
「残念ですが私は若輩者で、その知識も魔法も大賢者である先生の足許にも及びません。とてもご期待に沿えるとは思えません。それに私は亡くなった先生からいくつかの指示を受けています。まずはそれを果たしたいのです」
そう言って彼の申し出を断った。
「アンヴェル。賢者様もそうおっしゃっているし、事は一刻を争うから早く王都へ帰ろう」
エディルナが余計なことを言い出して俺を慌てさせる。
(何を言うんだ! ここはそこを何とかと、もう一度条件を聞いて押し返すところだろう!)
俺はまた焦ってしまったが、アンヴェルはシナリオどおり、俺をもう一度誘ってくれた。
だが、こんなに慌ててばかりでは、せっかく先程は納得してくれたリューリットにすぐに疑いを持たれてしまいそうだ。
「王都では魔族の襲撃に対する不安が広がっています。ですから王女様の捜索に近衛騎士を遣わそうとしても、私だけで精一杯なのです。
国王陛下のご心配は如何ばかりかと思うと、一刻も早くミセラーナ王女様をお救いしなければと気ばかり焦っています。賢者様。何卒、そこを曲げてお願いできませんか」
うん。本当に責任感に燃える良い青年だな。俺も二つ返事で協力してしまいたい。
でも、これがシナリオなのだよ。おれはちょっと根暗で偏屈なところもある大賢者の弟子の魔法使いなんだから。
「ですが、私は師からエルフ族に宝珠を届けるように命ぜられています。まずはその遺命を果たしたいのです」
俺は「じゃあ、もういいです」なんて言われないかなと思って、ちょっとおっかなびっくりしながら、そう述べた。
アリアの視線が厳しいような気がするが、まだばれてはいないと信じたい。
「あんたは自分の都合ばかりだな」
エディルナが不機嫌そうにそう言ったので、俺は思わずたじろいでしまいそうになったが、ゲームのアマンはそんなことくらいで譲るようなお人好しではなかったと思って踏みとどまった。