第百二十九話 遺産の真価
(異世界へ還れない!)
俺は小箱の札を回そうと何度も試みるが、それはガチャガチャと音を立てはするが、回転することはなかった。
今まで何度も使ってきて、こんなことはもちろん、初めてだ。
少し落ち着いて、などと考え、しばらくしてから何度か試してみたのだが、状況に変化はない。
(このままだと、どうなるのだろう)
そう考えて俺はぞっとした。
メーオは俺が長い間、異世界にいなかったらどうなるかはお分かりですよねと言っていた。
エレブレス山の女神は初めて会った時、俺に鏡を覗くように勧めてきた。
いずれの言葉も、俺があの世界に存在していないと、あの世界自体の存在が危うくなるということだと俺は理解していた。
(ひょっとして、これも奴の仕業なのか)
てっきり俺をあの世界から強制退場させようと画策しているのかと思ったのだが、別の策を……。いや、これも結果は同じことか。
それにしても、こんなことであの世界は無くなってしまうのか?
俺は慄然とした。あの世界が無くなるということは、もう仲間の皆に会えないのだ。
いや、そんなのには耐えられない。
確かに俺はずっと『ドラゴン・クレスタ』のことを思い出すこともなく生活していた。
だが、俺はもう知ってしまったのだ。あの世界が存在し、そこにはアンヴェルやリューリット、エディルナにアリア、そして、アグナユディテがいることを。
こんな結末を迎えるのなら、たとえ敵わなくても、奴と戦って斃された方がマシだったとさえ思う。
その晩、俺は一睡もできず、ひたすら小箱をいじり続けたが、札は全く動かせそうになかった。
頭を抱えた俺に、だが、翌日の出勤時間が迫ってきた。
(この世界の危機に出勤か?)
そう思ったが、こちらの世界の俺はただの安サラリーマンでしかない。無断欠勤などもっての外なのだ。
一瞬、体調不良を理由に休もうかとも考えたが、ただでさえ少ない有給休暇を、本当にここで使っていいのかと考えて思いとどまった。いや、世界の危機なんだけどね。
俺はとりあえず着替えて出勤することにした。
職場には来たものの当然、異世界のことが心配で、仕事に集中できるはずもない。睡眠不足で体調も最悪だ。
若い頃ならゲームやラノベで徹夜して、翌日、出勤なんて普通にしていたが、もう若くないのだと、こういう時に気づかされる。
それでも普段の行いのせいか、誰も不審に思ってはいないようだ。まあ、俺の仕事ってパソコンに向かっていれば、それなりに仕事しているように見えるからな。
(えーと。ゼルフィム、ゼルフィムと)
さすがに小箱を出すわけにはいかないが、俺はネットで奴の名前を検索してみた。
会社のシステム担当は、
「各人がどんなサイトを見たかはログでチェックしていますから、真面目に仕事をして下さいね」
なんて言っていたが、俺の職場にもいる「働かないおじさん」が毎日、ネットサーフィンをして時間を潰していることなんて知らない者はいないのだ。
旧態依然とした会社に将来性はないのかもしれないが、今は感謝だ。
ヒットの上位には「不動産のことなら! 株式会社ゼルフィム」なんてのが並んでいたが、スクロールしていくうちに気になる項目に気がついた。
『ドラゴン・クロスファンタジア』
パソコンの画面には、そんな見出しが踊っていた。
このままクリックして内容を確認したいという誘惑に駆られたが、念のためスマホを持って席を外す。自販機コーナーまで移動すると、俺は眠気覚ましに紅茶飲料を買った。
それを飲みながら、さっきのサイトをチェックした。
『ドラゴン・クロスファンタジア』の情報が記載されたページへ飛ぶ。
どうやらレトロゲームについて書いてあるサイトのようだ。
(うわっ! 評価低っ!)
まず目に入ってきたのは、ゲームについての評価だった。
グラフィックやサウンド、シナリオやキャラクターなど、いくつかの項目の評価が並び、最後に大きな文字で総合評価が記されている。
最低一点から、最高五点までの五段階で、『ドラゴン・クロスファンタジア』は軒並み一点や二点が並ぶ。
まあ、こういうのは評価者の好みもあるから単純には言えないが、それにしても酷い評価だ。
これを見たら関係者はガックリくるだろうなと、他人事ながら心配になる程だ。
レビュー欄にも辛辣な言葉が並ぶ、曰く「完全にただのパクり」、「オリジナリティゼロ」、「プレイするだけ時間の無駄」などなど、罵詈雑言のオンパレードだ。
発売年を見ると、どうやら『ドラゴン・クレスタ』同様、あの頃に雨後の筍の如く、次々と制作されたRPGのひとつのようだ。
「明日本君。そろそろ席に戻ろうか」
俺は背後から声を掛けられ、ビクッとして振り向いた。
そこには明らかな作り笑顔を湛えた上司の姿があった。
こんなことなら自席のパソコンで見ていれば良かったと思ったが、それはそれで後ろから覗き込まれれば、今より罪深い気がするし、ちょっとだけ休憩をしていただけだ。
上司も本気で怒った訳でもなかったが、その後、俺は真面目に業務に取り組んだ。いや、そのフリをした。
睡眠不足でそれどころではなかったのだ。
結局、ちょっと体調がすぐれないと言って早めに引き上げ、帰りの電車で先程のサイトをチェックした。
ちなみに体調の話は本当だ。寝不足で顔色も良くなかったと思う。
勇者ゼルフィムは『ドラゴン・クロスファンタジア』の主人公のようだ。古の勇者の血筋を誇る、至高の存在という設定らしい。
まあ、本当にありがちで「オリジナリティゼロ」だなと、俺も同感だ。
その彼がお姫様を救い、悪いドラゴンを倒し、最後は世界の覇権を狙う魔王を倒して、お姫様と婚約するハッピーエンドを迎えるようだ。
どこかで聞いたようなストーリーだ。
そのサイトの目次のページを見ると、五十音順にゲームが並んでいて、『ドラゴン・クロスファンタジア』の前には、よく知ったゲームの名前があった。
俺はそのゲームのページを見ようとして思いとどまった。
俺って小心者で傷付きやすいタイプだから、他人の評価が気になって、もの凄く落ち込む可能性があるからな。
今は世界の危機への対処を優先すべきだろう。
猛烈な眠気を覚えながら何とか自宅へたどり着いた俺は、そのままベッドへ倒れ込んだ。
今日はゼルフィムに関して少し分かったことがあった。だが、それが何になるというのか。
相変わらず小箱の札は動かせない。
それを確認すると、情けないが俺はもう睡魔に抗うことはできなかった。
(みんな。ユディ。許してくれ)
そんなことを思いながら、俺は眠りに落ちていった。
次の朝、俺はいつもより少しだけ早く目を覚ました。
目覚ましも掛けていなかったから、寝過ごす可能性もあったことを考えれば、まあ良かったのだろう。
学生時代とか、いくらでも寝られた記憶があるが、最近は睡眠時間が減ってきた気がするから、こんなものなのだろう。
起きてすぐに小箱に手を伸ばし、ベッドの上でいじるが、変化は無いようだ。
だが、その時、
「イテッ!」
俺が体重をかけた手のひらに何か硬い物が当たり、俺は大きな声を出した。
ひとりで痛い目にあって悲鳴を上げるって、本当に寂しいし、情けない気がするな。
そこにあったのは見たことのない青い石だった。
いや、見たことがないのは現実のこの世界ではだ。
異世界では、俺はこの石を確かに見たことがある。
「『ジグサーマルトの遺産』が、どうしてこんな所に?」
青い石を手に取り、俺は自問した。
この青い石は女王様からいただいたロケットに入れ、ずっと首から下げていたはずだ。
そう言えば異世界のベッドルームで、俺は小箱の札を回して、こちらの世界に移動したのだが、その時もそのままだった気がする。
俺は現実世界に来て、すぐにベッドに入ったのだが、その時にベッドの上に落としたのだろうか。
それから三日間、布団を干したり、シーツを洗濯したりしたわけではないから、その可能性が高そうだ。
そんなことを考えていると突然、青い石が光を放ち、俺は危うく石を取り落としそうになった。
そして、聞き覚えのある少女の声が聞こえてきた。
「お父様。どうして帰って来てくださらないの? メーオ、悲しいです。そちらの世界で好きな女の方ができたりしたのかしら? それとも、もうメーオのことがお嫌いになったの?」