第十四話 剣士の生い立ち
「リューリット。お前もやってみるか?」
道場の総師範をしていたおじい様にそう言われ、私が初めて剣を握ったのは、まだ四歳のころだった。
大好きなおじい様や父上、五つ上の優しい兄上は毎日、母屋の隣の道場に行くのに、どうして私だけは入れて貰えないのだろう?
母上のことも大好きだけれど、三人の近くにもっといたい。そう思って、私はよく武者窓から道場の中を覗いていた。
中では大勢の男の人が大きな声を出して剣を振るっていた。最初は少し怖かったけれど、何度も見ているうちにすぐに慣れた。
父上や兄上の真剣な表情、そして道場の一番奥で鋭い目つきで皆を見つめるおじい様の姿は、とても凛々しくて素敵だったし、門人たちがおじい様や父上をとても敬っていることが私には誇らしかった。
私はやっと中に入れて貰えたことが嬉しくて、兄上が教えてくれたとおり一生懸命、剣を振るった。
兄上は私が剣を振ると、とても上手だと毎回褒めてくれたし、門人の皆も総師範の孫娘である私への遠慮もあったのだろう、とても可愛がってくれた。
そうやって大事にしてもらっているのに、試合になるとちっとも勝てないのがとても悔しかった。
道場には私より二、三歳上の男の子も何人かいて、その子たちと練習試合をさせてもらったのだが、簡単にひねられてしまった。
負けたことが悔しくて、私はもっと練習に打ち込んだ。早く尊敬する父上や兄上のように強くなりたい。その一心で私は来る日も来る日も剣を振るい続けた。
最初に負けた男の子たちにはすぐに勝てるようになった。
試合に勝つと、兄上に近づけたような気がしてとても嬉しかった。
私はますます修練に夢中になった。修練を積めば、これまで試合で勝てなかった相手にも勝てるようになるのだ。
毎日の修練は楽しく、どれだけ長くしても、ちっとも苦しいとは思わなかった。
八歳のとき、私が門人の皆が帰り誰もいなくなった道場で素振りをしていると、兄上と同じ年の人が四人で道場に入ってきた。
「リューリットさん。こいつがあなたと試合をしたいと言っているのだけれど。」
そう言って笑うニキビの多い顔の彼に、私は見覚えがあった。
たしかヤネマンとか言う名の騎士階級の子息のはずだ。
あまり人のことを悪くいうことのない兄上が、同い年の彼のことをあまり好きではないと言って、それを母上にたしなめられていて驚いた記憶があり、それで覚えていたのだ。
「試合をお願いします……」
そうぼそぼそと小さな声で言った彼には、私はあまり覚えがなかった。だが、道具も木剣も持っているし、この道場で剣を習っている一人なのだろう。
他の三人が彼の持っていた道具を奪うように持って道場の端に下がり、私と彼は道場の真ん中で対峙することになった。
にやにやと笑う三人に、小さな私も彼が私との試合を無理強いされていることが何となく分かった。
だが、私は久しぶりに試合ができることが単純に嬉しかった。
私はもう私と同じくらいの年齢の子とでは、試合にならなくなってしまっていた。
だから専ら一人で素振りや脚捌き、型の練習をしたり、大人や時には師範代などかなり年上の人から技の稽古をつけてもらったりするばかりで、最近は試合をすることがほとんどなくなってしまっていた。
相手は兄上よりも身長は高そうだったが、ひょろっとした感じで、私とはかなり身長差があったが、あまり怖いとは思わなかった。
私と相手の彼は互いに礼をすると少し間合いを取った。だが、彼の構えは隙だらけで、私には彼を打つのは容易く感じられた。
「やあっ!」
私は気合の声とともに彼に向けて木剣を突き出した。
いつもならその突きは剣で払われるか、躱されるか、同い年の子たちでも首に突き付けられた剣先に「参りました」と言うくらいが精々だった。
だが、彼は何を思ったのか、そのまま踏み込んできた。
そして私があっと思ったときには、彼の首筋に私の木剣が命中し、彼は道場の端まで吹き飛ばされ、ドンと大きな音を立ててその場に倒れてしまった。
その後、その音を聞きつけて道場に駆けつけた父上に私は酷く叱られることになった。
相手は命に別状はなかったが首に大きな痣ができ、しばらくの間は安静にしている必要があるようだった。
そして彼はそのまま道場をやめてしまった。
師範の娘とはいえ五つも年下の小さな女の子に負けるようでは、この先、見込みがないからと言って剣は諦めることにしたそうだ。
怪我をさせた上、彼が道場もやめることになってしまったので、私は謝罪に伺おうと思ったのだが、既に父上がお見舞いと謝罪に行ったのでいいと言われてしまった。
「彼がお前と試合をしてやられたことは秘密になっているんだ。そのうち知られてしまうだろうが、一応、道場の稽古で怪我をしたことになっているから謝罪のことは諦めるしかないな」
兄上は私にそう事情を説明してくれた。
それでも悄気ている私を可哀そうに思ったのだろう、優しい兄上は私の隣に並んで座ると、慰めるように言ってくれた。
「リューリット。そう気にするな。正直言って、申し訳ないが私も彼には剣の才はないと思っていたのだよ」
兄上の顔を見上げた私に、彼は優しい眼差しを返してくれる。
「だが、彼とは塾でも共に机を並べているのだが、こちらの方は凄いのだ。先生もこの十年ではクォマーイ塾頭以来の秀才だとおっしゃっておられる」
私は兄上は塾でもとても優秀で、朋輩の中では抜きんでた才の持ち主だと褒められていると母上がとても嬉しそうに言っていたのを覚えていたので、反論したい気もしたが、黙って兄上の話を聞いていた。
「彼にとっては学問に専念する方が、その才を生かすことになるのかも知れない。将来のことは分からないが、仮にそうなれば、そなたの剣は彼の才を活かしたことになる。人を活かす剣、活人剣だ」
「活人剣……ですか」
「そうだ。剣の道を志す者のひとつの理想だな。だが、彼に限って言えば、そうなるかも知れないと私は思うよ」
そう言って、兄上は私に向かって頷いた。
まだまだ子どもの私でさえ、その理屈はちょっとどうかと思ったくらいだから、さすがに兄上だって無理があると思っておられるに違いないけれど、私の身体に兄上の優しさが染み通ってきて、少しだけだが心が軽くなった気がした。
それからの私はひとり鏡の前で剣を振ったり、脚の動きを見たりすることが多くなった。
師範代などから教えてもらったことを、皆がいなくなった後も黙々と繰り返し、自分のものにしていく。
試合の機会がめっきり減ったので、目の前に相手がいるイメージをして鍛錬することも多かった。
イメージする相手はあるいは上段に、または中段に構え、突然、抜き打ちをしてくることもあった。
また、剣先が波のように揺らめく型をとることもあれば、微動だにせず、隙を見せないときもあった。
私はぼんやりと兄上の姿を、その見えない相手に投影していたが、今から考えれば私は自分の剣と戦っていたのだと思う。
自分が相手なのだから勝っても負けても、どちらかは必ず敗因をその鍛錬の中に見つける必要があった。
そうしてひとり道場にいると、父上が様子を見にやって来ることもあった。
そうした時も私はいつもと変わらず鍛錬を続けた。
その日も私は父上の視線を感じながら「やあ!」と気合を込めて右足を踏み込み、木剣を上段から叩きつけるように振るった。
何度もその動作を続けていると、父上がスタスタと私に近づいてきた。
そして私がもう一度剣を振るうと、父上は無言で私が踏み出した右足の踵のほんの少し左後ろをスッと木剣の先で指した。
私は父上が教えたいことが分かった気がした。それは私も今少し工夫が必要だなと思っていた部分だったからだ。
私は右足を踏み出す幅をほんの僅かだけ短く、そして足の先をほんの少し外向きにして、父上が剣先で指した場所に踵が来るようにしてみた。
そうしてほんの少し踏み出す足の位置を変えただけで、踏み込んだ後の脚の捌きに格段に自由度が増した気がした。
これなら、もし、最初に放つ一撃を躱されても、次の一撃に流れるように移ることができそうだ。
何度も足を踏み出すうちに、私は自然と次の動作をしてみたくなった。
「やあっ。たあっ!」
やはりこれまでは途中でせき止められ、しぶきが飛ぶようだった水の流れが、最後まで澱みのない流麗なものに変わったような気がする。
「ご指導、ありがとうございます」
私がそうお礼を言うと父上は、
「たったこれだけで会得するか。わが娘ながら末恐ろしいな」
そう言って道場から立ち去った。
私が十四歳になったとき、兄上から試合をしてみないかと誘われた。
「兄上。お戯れを。兄上と試合などまだまだ早うございます」
私はそう言って断ろうとしたが、兄はいつもの優しい目で私をじっと見詰めたまま、
「いや。もう私と同格の者でもお前に勝てる者はいないじゃないか。私も兵法者の端くれ。私がお前と試合をしてみたいのだ」
そう言って私を道場の中央に誘う。
「いえ。兄上。もう何年も前になりますが、父上から兄妹で争うことはならぬときつく申し渡されたではありませんか」
その前に兄上と試合をしたのは私が十歳のときだった。兄上は十五歳。身長もかなり伸び、体格の差は歴然だった。
だが、私はかなりいい勝負ができたと思っている。
兄上の素直な太刀筋は、父上の教えてくれたとおりのものだった。だから試合を始めて少しすると、その裏をかくことができそうに思えてきた。
だが、兄上と私が試合をしていることを門人のひとりが父上に伝えたらしく、すぐに父上が道場に現れ試合を止められたのだ。
「兄弟牆に鬩ぐと言われるようなことをしてくれるな」
その晩、父上はそう言って、兄上と私が試合をすることを固く禁じた。
「今日は父上は所用で町を離れている。リューリット。今日しかないのだ」
兄上は真っ直ぐに私を見ていた。その顔には、父上の言い付けを破ることに対する恐れなど微塵も感じられなかった。
私は観念し、道場の中央に歩を進めた。
「手加減はなしで頼むぞ」
兄上は私の揺れる心を見透かしたかのように、そう言って礼をする。
私も礼を返し、木剣を構え、気力を身体の隅々から木剣の先まで送り込んだ。すると自分の本当の心に気がついた。
私も兄上と試合がしたかったのだ。
優しく聡明で強い兄上。
道場では同年輩の中では常に席次が最も高く、学問を教わる私塾でも、道場の跡取りでなければ塾頭に薦めたいところだと言われるほど優秀だ。
そして、いつも私や家族のことを思い遣ってくれる。そんな兄はずっと私の誇りであり、目標だった。
それに気づいた私にはもう迷いはなかった。
「やあっ!」
鋭い気合の声とともに兄上の剣が私に迫る。
だが、私はすでに兄上の太刀筋を完全に見切ることができるようになっていた。
四年前に試合ったときよりも兄上の剣はさらに強く、鋭いものになっている。だが、父上に教わったとおりのその素直な太刀筋は変わっていなかった。
私には兄上の次の太刀が、いや、その次、さらにその次に彼の剣がどう振るわれるか、その軌跡までも分かる気がした。
私は最初に剣を構えた場所からほとんど動くことなく、兄上が振るう剣を次々に躱していく。
そして兄上の首筋にスッと木剣を突き付ける。
兄上は驚愕の表情を浮かべるが、「まだまだっ」と言って後ろに下がり、もう一度打ち込んでくる。
私は今度は少し左に動いて兄上の剣を躱すと、そのまま彼の左の胴を薙ぐように払う。
当たる直前で止められた私の剣が兄上の道着を擦り、シュッと音を立てる。
彼はもう一度私から離れ、三度、打ち込んでくるが、今度は私はその場から動くことなく、彼の一撃を剣で受けて流す。
続けて彼が剣を握る手許を狙って下から払い上げるように剣を振るうと、兄上の手から木剣が弾き飛ばされ、道場の床に転がって乾いた音を立てた。
「強い。リューリットは本当に強いな。到底、私などが勝てる者ではないな」
兄上は片方の膝を着き、私を見上げながらそう言った。
私は兄上に向かって礼をしながら、これが私の目指してきたものだろうかと考えていた。
達成感はなかった。喪失感と言えば、その方がずっと近いのかも知れない。父上が兄上と私の試合を禁じたのは、これが分かっていたからなのか。そう思った。
私は十六歳で皆伝の免状を受けた。
「わが流派の歴史でこれまで、これ程若くして皆伝を授かった者はいない」
おじい様はそう言った。
「だが、もうこの道場でお前の相手をできるものはおらぬ。それどころか稽古の相手として、お前の剣を受けるだけでも難しいのだ」
おじい様の言うとおり、兄上との試合の前あたりから私の稽古の相手ができるのは、兄上や師範代などごく限られた人になっていた。
左右から次々に振るわれる私の剣に対応を誤れば怪我をしかねず、最近では私が激しい稽古を始めると、道場の皆が動きを止め、畏怖の念をもってその様子を見守ることさえあった。
「リューリットよ。お前の剣の才はおそらく天賦のものだ。お前なら我が流派の始祖、剣聖シャマルカに比肩する兵法者になれるかもしれん。
わしも、お前の父も、そしておそらくはお前の兄も、剣の道を志す者が目指し、そして我らのような凡夫にはたどり着くことのできぬ境地にお前なら立てるかもしれん」
兄上を超えてしまった私には、誰よりも強くなる義務があった。兄上より強い私が負けることは、兄上が負けることになってしまうのだから。私はそう思っていた。
だから私は武神ビーヤマーンの化身と言われたシャマルカのように、あらゆる強者に勝ち続ける必要があるのだ。
皆伝を受けた私はそれまで伸ばしてきた髪を切り、王都に向かって旅立った。




