第百七話 満月が照らすデッキで
「先ほど少しだけ話したように、俺はあの白いイルカに連れられて積乱雲の中へ行った。そこには神殿のような建物があったんだ」
俺はそう話し始めた。
皆は黙って、俺が続きを話すのを待っている。
「そこで俺は女神セヤヌスに会った。それから冥王ゼヤビスらしき人物の声も聞いた。
その声は若い女性のようで、セヤヌスが話しているかのように彼女のいる場所から聞こえてきたが、結局、冥王は最後まで姿を現さなかった。」
本当にゼヤビスはどこにいたのだろう。今、皆に伝えたように、声はセヤヌスがいた場所から聞こえていたような気がするのだが。
もしかしたら二重人格かとも思ったが、それにしたって、あんなにコロコロと入れ替わるものでもないだろう。
そして俺が皆に話すこともここまではいいのだ。だが、
「ゼヤビスはこの世界が少しずつ蒸発し続けていると言った。それを止められるのは彼女だけで、そうして欲しければ彼女の名前を答えてみろとも」
俺は慎重に言葉を択びながら話を続けていく。
もうそんなことを気にしている場合ではないのかも知れないし、すべてを伝えないのは卑怯かもしれないとも思うのだが、俺がすべての元凶で、この世界が消滅しようとしているとは、どうしても言えなかった。
「うむ。そこまでは分かった。まあよい。だが、どうしてアスマットなのじゃ」
トゥルタークがそう言って疑問を呈する。まあ、当然と言えば当然だ。誰だって抱く疑問だろう。
「よく分からないのだけれど、彼女は俺だけが彼女の名前を知っていると言っていた。だからだと思う」
自分でも、言っていることが支離滅裂だと思う。でも、これ以上のことを話す勇気が俺には湧かなかった。
「アマンだけが知っているということは、ゼヤビスがその者の名前ではないということか」
リューリットが俺に確認してきたので、俺は頷いて、
「ああ。ゼヤビスではないと言っていた。幸い何度でも答えていいと言われたから間違えるのは問題ないが、それ程時間はないとも言われたんだ」
少しでも危機感を持ってもらいたくて「時間がない」と言ってみたのだが、小さな声で遠慮がちに付け加えたものだから、皆はあまり気にしなかったようだ。
「名前はアマンが知っていると言っていたのだろう。思い出せないのかい?」
エディルナの口調も珍しく厳しく聞こえ、俺には詰問されているようにに感じられた。
彼女はそんな性格ではないから、俺の方の気持ちの問題なのかもしれないが。
「ゼヤビスについては、わしも出発の前に改めて調べてみたが、伝承などもほとんどなかったの。まあよい。わしも手掛かりがないか考えてみるが、アスマットよ、そなたも思い出すように努力するのだ」
トゥルタークの言葉はのんびりした感じさえするもので、おそらくこの世界が消滅の危機に見舞われていることは伝わっていないのだろう。はっきりとそう言わない俺が悪いのだが。
本当はこの場で「俺がこの世界にいる限り蒸発が続き、近い将来に破滅が待っている」と真実を告げるべきなのだろう。
そうすれば皆も、こんな風にお茶を飲んだりしていないはずだ。
だが、そう告げたところでどうなるのだ。俺が彼女の名前を答えないかぎり、その運命からは逃れられないのだから。
それに俺が存在することでこの世界が消滅の危機にあると知ったら、仲間である皆がどう思うかと考えただけで恐ろしい気がした。
結局、その場ではその後、皆でお茶を飲みながらあの白いイルカのことを話したりして、散会ということになってしまった。
俺も自分の船室に戻った。疲れているしさっさと寝てしまおうと思ったのだが、目が冴えてしまってとても眠れそうにない。
眠れなくて当たり前だ。俺が彼女の名前を思い出せないと、この世界は消滅してしまうのだ。
エルジャジアンの町に魔族が現れ、王都をドラゴン・ロードが襲った時もそうだったが、こんな荒唐無稽な話、伝えても信じてもらえないかもしれない。
それはたとえ長い時間を共にしたパーティーの仲間たちであっても、そうなのかもしれないと俺は思った。
(ちょっと夜風にでも当たって気分を紛らすか)
俺はそう考えて甲板へと上った。
(やっぱり甲板の上は気持ちがいいな)
追い風に乗って船は順調に進んでいるようだ。
俺は頬を撫でる風に、一瞬だが、この世界の運命のことを忘れられた気がした。
だが、そんなのは所詮ほんの一瞬だ。また不安な思いが頭をもたげ、俺は海上の風が吹いてくる船尾の方向へ視線を向けた。
丸い月が海の上に浮かんでいる。
船はまるでその月から逃げているように感じられる。俺が真実を皆に伝えることから逃げているように。
「アマン。眠れないの?」
突然、俺の背後から声を掛けてきたのはアグナユディテだった。
振り返った俺の目に、月の光に照らされた彼女の姿が入ってくる。
いつにも増して儚げで美しく、輝くように見えるその様子は、まるで神話に登場するミューズのようだ。
「アマン。あなた心配事があるのでしょう? ずっと上の空ですもの」
彼女がいつにない優しい声で、そう俺に語り掛けてくれたのを聞いて、俺は不覚にも涙が溢れそうになってしまった。
お茶を飲んでいる間中、いや、あの神殿で名前を当てなければ、この世界が蒸発してしまうと言われてからずっと、
(俺ひとりでそんな重荷を背負うなんて耐えられない。誰かに一緒に担ってほしい)
そう思っていた。
そしてその時、真っ先に俺の頭に浮かんだのは彼女だったのだ。
俺は震える声で、
「俺がここにいる限り、この世界は蒸発して無くなってしまう。それはそれ程先のことではない。逆に俺がここを去っても、この世界は消滅してしまう。冥王がそう言ったんだ」
俺がそう言っても彼女は俺を咎めたりせず、いつもより静かに聞こえる声で問い掛けてきた。
「蒸発を止めることはできないの?」
「いや。無理だろう」
それを止めることができるのは冥王だけのようだった。
エレブレス山の女神でさえ手が出せないと言っていた気がするから、俺なんかの手に負えるはずもない。
ドラゴン・ロードもそうだったが、彼らは決めたことは実行しようとする。その頑なさはNPCのようで、そこに惻隠の情とか、そういった感情が入り込む余地などないのだ。
「俺が冥王の名前を思い出せば蒸発を止めてくれると、冥王の声が言っていた。だが、俺には見当もつかないんだ」
どうしてこんなことになってしまったのだろう。俺はどこかで選択を間違えたのか。
だが、王都で女神に会った時、彼女が示した鏡を覗いていたら、おそらくこの世界は消え去っていただろう。
「なんのヒントもなしに人の名前を当てるだなんて。とてもできるとは思えない。さすがに今回ばかりは」
俺が弱々しい声でそう告げると、彼女は俺から視線を外して下を向き、そのまま背中を見せた。
「そう。もし、この世界が蒸発してしまったとしても。アマン。私のことを忘れないで。そうしてくれたら、私はあなたの心の中でずっと生きていける。それで私は満足だわ」
海風に月の光に輝く金色の髪をなびかせた彼女の姿は、幻想的な絵画のように美しかった。
「忘れないさ。ユディのことを忘れるはずがないだろう」
俺に真の名を与えてくれ、この世界を消滅する運命から救ったのは彼女なのだ。
だが、せっかく救われたと思ったこの世界が、また、滅びに向かっている。
「アマン。私たちはもうあなたに何度も救われている。そんなこと分かっているわ。
私はあなたの護衛だなんてずっと言ってきたけれど、本当はもっと大きな意味で私たちはあなたに守られている。それは私以外の皆も気がついている筈よ。だから自分を責めないで」
振り向いた彼女は、俺の目を見てそう言ってくれた。
彼女のエメラルドグリーンの瞳が涙に濡れている。
俺ももうさすがに耐えられなかった。
彼女の姿が歪んで見えた。
いや、ちょっと待て。こんなことがずっと以前にあった気がする。
圧倒的な喪失感に打ちひしがれ涙した日。
そう、あれは『ドラゴン・クレスタ』の制作会社が経営破綻し、『ドラゴン・クレスタⅡ』開発中止が明らかになった日だ。