第百五話 神殿の女神
俺を背中に乗せた白いイルカは、真っ直ぐに積乱雲に向かって進んでいく。
波も高くなり、俺はイルカの背中からさらわれるのではないかとしっかりと掴まるが、不思議とそんなことはなかった。
見ると雲が割れて日の光が射し、俺とイルカの行く先を照らしている。
そこだけは波も穏やかになり、まるで神話かなにかで読んだことのあるような光景が広がっていた。
(こんなことができる奴が、俺なんかにいったい何の用だ?)
俺はイルカの背中の上でそう考えたが、そもそも女神なんて呼ばれる存在の考えることなんて、とても分かりそうにない。
ギリシア神話のトロイア戦争だって、そのそもそもの原因は増えすぎた人を減らそうと神様が考えたためだったと、何かで読んだことがある。
神様が一番理不尽で身勝手で、自由や平等なんて精神をこれっぽっちも持ち合わせないものなのだ。
そんなことを言ったら、さすがにアリアにたしなめられるかなと思ったが。
でも、エンシェント・ドラゴンでさえ、その常識は人間の非常識なのだ。まして女神と呼ばれる者の考えが、俺みたいな常識人に分かる訳がないよな。
そんなことを考えているうちに、俺を乗せたイルカはそこだけは雲がなく、周りを高い雲に囲まれた台風の目のような場所に到着した。
俺たちの行く先には光の階段らしきものが見える。その階段は遥か高く、どうやら神殿のような建物に繋がっているようだ。
イルカはその階段の下に寄っていく。ここを上っていけということのようだ。
俺が背中から降りて階段に足を掛けると、イルカは「キュー」と声を出した。
(いや、こうやって見るとかわいいな)
俺は不覚にも一瞬、そう思ってしまった。イルカは今度は体を揺すり、俺に進むように促しているように見えた。
階段を見上げると、神殿まではかなりの高さがありそうだ。
光でできた階段はかなり儚げにも見える。
(これをあの高さまで昇るのか)
いや、体力的な面もあるが、できればもっとしっかりとしたものにして欲しかった。
階段は幅はそれなりにあるが手すりもないし、目を瞑って上るわけにもいかない。これは下を見ないようにして、一気に駆け上がるしかないなと俺は思った。
「ここが東の海の彼方、未だ知られぬ地なのか」
白く輝く神殿の前で、俺はそうひとりごちた。
この地のことはもう俺が知ってしまったから「元」だよな、いや、「ひとりしか知らぬ地」かなんて、どうでもいいことを考えたのは、荘厳な神殿に気後れし、すぐに入る勇気が湧かなかったからだ。
(アスマット・アマン。ようこそ。さあ、中へどうぞ)
突然、女性の声が響いた。入り口で逡巡している俺に業を煮やしたのかもしれない。
俺は覚悟を決めて、神殿の中へと足を踏み入れた。
床も壁も、天井さえも淡く輝く神殿の奥に、女性がひとり、佇んでいる。
その女性もエレブレス山の女神のように身体全体から光を放っているように見える。
どこかで見たような光だと思ったが、この建物の中の光は、もう長い間見ていないスマホの画面や、パソコンのモニターが放つ光に似ているようだ。
床も大理石かとも思ったが、どうもエレブレス山の洞窟と同様、金属のような素材でできているようだ。
「いらっしゃい。お待ちしていましたよ」
落ち着いた声でそう言う彼女が、女神セヤヌスなのだろう。
「いったい俺に何の用だ?」
女神が相手なのに少し乱暴かなとも思ったが、あんなことをされて友好的な態度なんてとれるはずがない。
「この子がどうしてもあなたに会いたいと言うの」
セヤヌスがそう言うと、急に彼女の声の調子が幼く無邪気な、だが少し昏い感じのするものに変わった。
「お久しぶり。明日本亜門さん。また会えて嬉しいわ」
この世界でその名を知る者は一人だけだと思っていたが、どうやら間違いだったようだ。
「セヤヌスではないな。お前は何者だ!」
俺の問い掛けにその声は、
「私が誰か。それを知っているのはあなただけなのに、面白いことを言うのね」
そう、少し寂しそうにも聞こえる声色で返してきた。
相変わらず声は女神から聞こえているが、彼女は「この子」と言っていたから、姿は見えないが別の誰かがいるのだろう。
まあ、彼女が誰かは想像がつく気もするが。
『冥王ゼヤビス』
まあ、魔王同様、冥王が小さな女の子というのもやっぱりデフォだったか。
いや、でもそんなこと誰が決めたんだろう。まあ、どうでもいいことだが。
「お姉さまは、あなたをこの世界に呼んだのは自分だと言ったみたいだけれど。正確には呼んだのは私。だってゲートを開けられるのは私だけなんですもの」
幼く聞こえる声は少し自慢気だ。
俺を呼んだと言ったということは、「お姉様」というのはおそらくエレブレス山の女神のことなのだろう。冥王が彼女の妹だったとは想定外だが、それで事態に変化がある訳ではない。
ただ、女神も教えておいてくれれば良いのにくらいは当然、思ったが。
「あなたが退屈をして、もうこの世界に飽きたと言い出したら困るから、お姉様はあんなにあなたに仕事を与えたの。でも、それではまずいことにようやく気がついた」
俺がこの世界でカーブガーズの統治と、王国大宰相の職務に追われ目の回るような忙しさだった理由を、冥王らしき声がそう種明かししてくれる。
(そうか。女神の奴、俺が飽きないように次から次へと仕事を押しつけていたのか。畜生、やられたな)
確かにラノベもゲームもないこの世界で、仕事もなくぶらぶらしていたら、俺はもっと早く帰りたいとか思ったかもしれない。
「お姉様との約束で、あなたが元の世界に帰りたいと言い出したときのためにゲートをずっと開いているの。そのゲートから、この世界を形作る情報が蒸発し始めていて、しかもそれは加速している」
俺が女神の仕打ちに憤りを覚えていると、冥王らしき幼い声は何かとんでもないようなことを言い出した。
「ちょっと待ってくれ。この世界を形作る何が蒸発しているって? それって大丈夫なのか?」
俺の問いに、今度はセヤヌスが澄んだ声で答えた。
「正直言って大丈夫ではないわ。このままあなたがこの世界に留まっていると、そう遠くない未来にこの世界は蒸発して無くなってしまう。でも、あなたが元の世界に帰ってしまえば、この世界は消滅してしまう。お姉さまはやっとそのことに気がついたの」
何だ、その救いのない状態は。俺がこの世界にいてもダメ。帰ってもゲームオーバーって、無理ゲーってやつじゃないか。
しかも、その原因が俺だなんて酷すぎる。
「お姉様はいい気味ね。あなたを迎えて楽しく過ごして、おまけにあなたを独占して帰そうとさえしない。だから、あなたが帰るというまでゲートを開けたままにしておいて欲しいと言われたとき、しめたと思ったわ。お姉様は、私が渋々譲歩したと思っているでしょうけれどね」
どうもこの二人とエレブレス山の女神との関係は複雑なようだ。
「あなただって、大好きなお姉様と一緒に長く過ごして、満足だったのではないの」
幼い声は不愉快そうに、俺に向かってそんな言葉を投げかけた。
「いや。俺が一緒に過ごしたのはお前たちのお姉様ではなく、エルフのアグナユディテとか、俺とパーティーを組んだ仲間たちだ。お前たちがお姉様と呼ぶ者とはほんの少し会っただけだし、その後も一度話をしただけだ」
女神は自分を『ドラゴン・クレスタ』そのものだと言っていたから、そういう意味では、俺は彼女が大好きと言えなくはない。
でも、実際に会った彼女の言葉に俺は反感を覚えたし、決して友好的な関係が築けたとは思えない。最近はだいぶ変わってきたような気もするが。
「あら。じゃあ、お姉様の勘違いなのかしら。面白いわ。そうね。その言葉が本当なら、あなたをここにずっと留めておく必要はない気がするわ。それに私が誰か思い出せたら、ゲートを閉じて、この世界の蒸発を止めることを考えてあげてもいいし。ふふふ」
幼い声はそう言って含むように笑ったようだった。
「そんなことができるなら、すぐにそうしてくれ」
俺の言葉に声は、
「だから私が誰かをあなたが思い出せたらね。ゲームには賭ける物がないと面白くないでしょう?」
いや。俺はRPGは何も賭けなくても十分に面白いと思うぞ。RPGの中では世界の覇権とか、人類の存続とかが懸かっているが、それはまた別の話しだろう。
そう言えば、学生時代の数少ない友人のひとりにギャンブルが好きな奴がいた。そいつによれば最初は賭けずにゲーム自体を楽しんでいても、一旦賭け始めると賭けることなしでは楽しめなくなって、しかもエスカレートしていくそうだ。
そもそも賭博は犯罪だ。「よいこのみんなは真似しちゃダメだよ」ってやつだ。
RPGはそういった危険のない健全なものなのだ。
それにしても、俺がこの声の主の名前を当てられるかどうかに、この世界の存続が懸かるって、この世界の俺って一体何者なんだ。
でも、逆に『ドラゴン・クレスタ』が俺に与えた影響を考えてみれば納得がいくものなのかも知れない。
もし『ドラゴン・クレスタ』に出会わなければ、俺の人生はきっと違うものになっていた。
他のゲームに熱中して結局、同じような人生を歩んだだけだろうと言われてしまう気もするが。
だが、敢えて断言しよう。俺の青春の日々は『ドラゴン・クレスタ』とともにあったのだ。
そして俺はそのことをまったく後悔していない。まあ、誇りに思うと言えば言い過ぎの気もする。でも、その時間は楽しく、そしてかけがえのない時間だったのだ。
いや「ちょっとは反省しろよ」という突っ込みが入りそうだが、俺の人生だ。俺に選ばせてほしい。
その選択を通して、遂に俺はRPGとラノベがあれば生きていける人間になったのだ。
唯一の欠点は他人には理解してもらえないことなんだがな。
「俺がもらえるチャンスは一回だけなのか?」
もしそうなら軽々には答えられないなと思いながら、そう尋ねると、
「いいえ。何度だっていいわ。でも、そんなことを言うなんて、やっぱり私のことなんて覚えていないようね。残念だわ」
何だか哀しそうにも聞こえる声で、だが、そう答えてくれた。
それでもこれは俺にとってかなり大きなポイントだ。間違えが許されるなら、この名前を試さない手はない。
「冥王ゼヤビスだろう」
俺の答えに、だが、幼い声は、
「やっぱりね。さっきお姉様にも『セヤヌス』だなんて呼びかけていたから言うと思ったわ。興ざめね。てっきりお姉様と過ごすと思っていたから気に入らなかったけれど、そうでないなら、もう戻ってもいいわ。その何とか言うエルフとでも、最後までの時間を過ごしたら」
声の言葉が神殿に冷たく響く。
「待ってくれ。何度答えてもいいと言ったじゃないか」
俺の言葉に、
「いいわよ。私の名前を思い出したら大きな声で叫びなさい。あなたがこの世界のどこにいても、私には届くはずだから。でも、期待できそうにないし、時間だってそんなに残ってはいないのだけれどね」
声は今度は気怠い様子で、答えたのだった。